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2026年11月1日 年間第31主日
年間第31週・諸聖人の祝日(2026年は主日と重なっています) みことばのメッセージ 今日、私たちは諸聖人を祝います。 この祭日は、単に「昔の立派な聖人たち」を思い出す日ではありません。むしろ、私たち自身が何に招かれているのかを思い起こす日です。 今日のみことばは、聖性について三つの大切なことを教えています。 福音は、聖性とは何を生きることなのかを示します。 第一朗読は、誰が聖なる者となるのかを示します。 そして第二朗読は、なぜ私たちが聖性へと招かれているのかを示します。 その答えを先に言えば、私たちは聖なる神の子どもとしていただいたからです。 聖性とは、特別な人だけのものではありません。神との交わりに招かれているすべての人に開かれています。第二バチカン公会議が「教会における普遍的な聖性への召命」と呼んだのも、そのためです。聖フランシスコ・サレジオの言葉を借りるなら、「聖性は幻にあるのではなく、愛にある」のです。 今日の福音は、真福八端です。 「心の貧しい人々は幸いである。」「悲しむ人々は幸いである。」「柔和な人々は幸いである。」「義に飢え渇く人
2026年10月25日 年間第30主日
A年 第30主日 みことばのメッセージ みことばのメッセージ 今日の聖書朗読の中心にあるのは、「愛」です。しかし今日語られる愛は、単なる優しい気持ちや好意、感傷的なものではありません。むしろ、神との関係、隣人との関係、そして私たちの生き方全体を一つにまとめる根本原理としての愛です。 今日の福音で、律法の専門家がイエスに尋ねます。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 当時、モーセの律法には613もの掟があると数えられていました。その中でどれが一番大切なのか。これは簡単な問いではありません。 しかしイエスは迷わず答えます。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そして、尋ねられていないにもかかわらず、もう一つの掟を加えます。「隣人を自分のように愛しなさい。」 そして言われます。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている・かかっている。」 ここには、イエスの教えの大切な特徴があります。 普通なら、最も重要な掟として十戒の中から一つを選んでも不思議ではありません。十戒は神ご自身が民に与えられた、
2026年10月18日 年間第29主日
A年、 年間第29主日 みことばのメッセージ 私たちは、一人では生きていません。家庭があり、仕事があり、地域社会があり、国家があります。その中で私たちは、法律を守り、税金を払い、さまざまな責任を果たしながら生きています。しかしキリスト者にとって、いつも一つの問いがあります。私たちは、この世界に属する市民であると同時に、神に属する者でもあります。では、この二つをどのように両立させればよいのでしょうか。 初代教会の有名な『ディオグネトスへの手紙』は、キリスト者について印象的なことを語っています。キリスト者は他の人々と同じ町に住み、同じ服を着て、同じ食事をし、社会の決まりに従って生活する。しかし、「地上に住みながら、その国籍は天にある」。そして、「魂が身体の中にあるように、キリスト者は世界の中にいる」と言います。つまり、キリスト者とは、この世界から逃げる人ではありません。社会の中に生き、社会の責任を果たす。しかし同時に、この世の価値観にすべてを明け渡すわけでもないのです。 今日の第一朗読に登場するペルシア王キュロスは、そのことを考えるうえで興味深い人
2026年10月11日 年間第28主日
A年 年間第28主日 みことばのメッセージ 今日の聖書朗読を一つに結んでいるのは、「宴」というイメージです。 宴というものは、どの文化でも、単に食事をする場ではありません。結婚式を考えればよく分かります。そこでは、喜びを一人で味わうのではなく、家族や友人、多くの人々と分かち合います。食卓を囲むことによって、友情や親しさ、交わりが生まれます。 今日の聖書が私たちに示している神も、そのような方です。神は御自分の喜びを人間と分かち合おうとされる。だから私たちを宴へと招かれるのです。その究極的なものが神の子羊の婚宴なのです。 第一朗読でイザヤは、シオンの山で神が盛大な宴を準備される姿を描いています。しかも、そこに招かれるのは一部の特別な人ではありません。「すべての民」です。その宴では、人間の顔を覆っている悲しみの覆いが取り除かれ、神はすべての顔から涙をぬぐわれます。そしてついには、「死を永久に滅ぼされる」と言われます。 ですから、この宴とは単なる食事ではありません。神が人間を御自分との交わりへ招き、悲しみも涙も、そして死さえも乗り越えてくださるという、
2026年10月4日 年間第27主日
A年 年間第27主日 みことばのメッセージ 今日の聖書には、「信仰の実を結ぶ」という一つの大きなテーマがあります。 私たちは「実を結ぶ」と聞くと、何か立派なことをしなければならない、もっと働かなければならない、もっと人の役に立たなければならない、と考えがちです。もちろん、人のために働くこと、善い行いをすることは大切です。 しかし今日の御言葉は、その前にもっと根本的なことを問いかけています。それは、私たちが誰と結ばれて生きているのかということです。 第一朗読のイザヤ書には、ぶどう畑の歌が登場します。主人は肥沃な土地を選び、石を取り除き、良いぶどうを植え、塔を建て、搾り場まで用意しました。できることはすべてしたのです。ところが、主人が良いぶどうを期待したのに、実ったのは酸っぱいぶどうでした。 このぶどう畑とはイスラエルの民です。 神はイスラエルを選び、守り、導かれました。しかし神が期待された「正義」の代わりに流血があり、「公正」の代わりに虐げられた人々の叫びがあった、とイザヤは語ります。 問題は、神から何も与えられなかったことではありません。むしろ反
2026年9月27日 年間第26主日
A年 年間第26主日 みことばのメッセージ 今日の福音でイエスは、二人の息子のたとえを語られます。 父親が最初の息子に、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言います。息子は「はい、お父さん」と答えました。しかし、実際には行きませんでした。もう一人の息子は、「行きたくありません」と答えます。しかし後で考え直して、ぶどう園へ行きました。 そこでイエスは尋ねます。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」 答えは明らかです。最初は拒んだけれども、後で考え直して実際に行動した息子です。 今日の聖書が私たちに問いかけているのは、「あなたは何と言っているか」ではなく、「あなたは実際にどう生きているか」ということです。 私たちキリスト者は、神に「はい」と答えることに慣れています。幼稚園の子供でさえもそうです。ミサの中でも「アーメン」と答えます。神を信じます、隣人を愛します、ゆるします、仕えます、と言います。しかし問題は、その「はい」が実際の生活の中で本当の「はい」になっているかどうかです。 口では神を信じると言いながら、自分の都合だけを優
2026年9月20日 年間第25主日
A年 年間第25主日 みことばのメッセージ 今日の第一朗読で、預言者イザヤは非常に印象的な言葉を語っています。 「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、あなたたちの道は、わたしの道とは異なる。」この言葉が、今日の福音を理解するための鍵になります。 福音では、ぶどう園の主人が、朝早くから何度も広場へ出て行き、働く人々を雇います。朝から働いた人、九時から働いた人、正午から、午後三時から、そして夕方五時になってようやく雇われた人もいました。ところが夕方、主人は全員に同じ一デナリオンを支払います。 すると朝から働いていた人たちは不平を言います。 「最後に来たこの人たちは一時間しか働かなかったのに、一日中、暑さの中で働いた私たちと同じ扱いをするのですか。」 私たちにも、その気持ちはよく分かります。普通に考えれば、確かに不公平に見えます。 しかし、このたとえは賃金制度について教えているのではありません。イエスが語っておられるのは、神の国、そして神の恵みについてです。主人は最初の人たちに約束した一デナリオンをきちんと支払っています。ですから、彼らが
2026年9月13日 年間第24主日
A年・年間第24主日 今日の典礼を貫いている一つの言葉があります。それは「ゆるし」です。 第一朗読のシラ書は言います。「隣人の不正をゆるせ。そうすれば、あなたが祈るとき、あなたの罪もゆるされる。」答唱詩編では、「主はあなたの罪をことごとくゆるし、私たちの罪に応じてあしらわれることはない」と歌います。 そして福音の最後でイエスは、「あなたがた一人一人が、心から兄弟をゆるさないなら、天の父もあなたがたに同じようになさる」と言われます。 さらに私たちは毎日のように、主の祈りの中で、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈っています。 つまり今日、聖書が私たちに問いかけているのは、とてもはっきりしています。私たちは、神からゆるされている者として、人をゆるしているだろうか、ということです。 第一朗読のシラ書は、紀元前二世紀ごろに書かれた知恵文学です。そこには、非常に現実的な人間理解があります。人に対する恨みや怒りを心に抱えながら、神に向かって「私をゆるしてください」と祈る。そのこと自体に矛盾がある、とシラ書は言うのです。恨みとい
2026年9月6日 年間第23主日
A年年間第23主日 みことばのメッセージ 今日の教会は、福音を現代の世界に伝えることの難しさを感じています。 多くの人々は、福音を正面から拒んでいるわけではありません。しかし、さまざまな情報や関心、安心や快適さを求める生活の中で、福音の声が埋もれてしまっています。そのため教会は、「新しい福音宣教」、すなわちキリスト教的な生き方を改めて築き直す必要を語っています。 しかし、福音によって変わらなければならないのは、教会の外にいる人々だけではありません。教会共同体そのものも、絶えず回心する必要があります。 教会の中にも、疲れや諦めがあります。健全な多様性がある一方で、互いを排除する派閥意識も生まれます。未来へ進もうとする人と、過去へ戻ろうとする人との間に、対立が起こることもあります。 教会は、弱さや罪から免れた、完全な人々の集まりではありません。罪は人と人との関係を壊し、共同体に分裂をもたらします。 今日の福音で、イエスはこの分裂を癒やすための具体的な治療法を示されます。それが「兄弟的矯正」です。 イエスは言われます。「兄弟が罪を犯したなら、行って、二
2026年8月30日 年間第22主日
A年 第22主日 みことばのメッセージ 今日の福音で、イエスは初めてご自分の受難を弟子たちに予告されます。 その直前、ペトロはイエスに向かって、 「あなたはメシア、生ける神の子です」と、すばらしい信仰告白をしました。しかし、そのイエスが、エルサレムで苦しみを受け、殺されると語られると、ペトロはそれを受け入れることができません。ペトロはイエスを脇へ連れて行き、いさめます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 ペトロが望んでいたのは、栄光に満ちたメシアでした。人々に認められ、敵に勝利し、力をもって神の国を実現するメシアです。しかしイエスが示されたのは、屈辱を受け、苦しみ、命をささげるメシアの道でした。ペトロは、イエスの栄光は望みましたが、その栄光に至る十字架の道は受け入れることができなかったのです。 そこでイエスは、ペトロに厳しく言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 なぜ、愛する弟子に対してこれほど厳しい言葉を言われたのでしょうか。それは、ペトロの言葉が、イエスを神の御心
2026年8月23日 年間第21主日
A年・年間21主日 聖書のメッセージ 私たちは毎日の生活の中で、さまざまな鍵を使っています。家の鍵、車の鍵、金庫の鍵。鍵は小さなものですが、扉を開き、また閉じる大切な働きをします。 そして、誰かに鍵を渡すことは、その人を信頼し、大切なものを委ねることを意味します。家の鍵は、誰にでも渡すものではありません。 今日の三つの朗読を結びつけているのも、この「鍵」です。 第一朗読では、宮廷をつかさどっていたシェブナが職を解かれ、代わってエルヤキムが選ばれます。神は言われます。「彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開けば閉じる者はなく、彼が閉じれば開く者はない。」当時、宮廷の鍵を持つことは、王に代わって宮殿を管理する権限を委ねられることでした。誰を王の前に通すのか、王の財産をどのように管理するのか。その大きな責任が託されたのです。 しかし、鍵を預けられた人は、宮殿の主人ではありません。主人の意志に従って家を管理する奉仕者です。権威は自分のためではなく、委ねられた人々のために用いられなければなりません。 今日の福音では、この鍵がイエスによってペトロに委ねられます
2026年8月16日 年間第20主日
年間第20主日 みことばのメッセージ「境界を越えていく神の憐れみ」 皆さん、私たちの生活の中には、さまざまな境界線があります。国と国との間には国境があります。社会には法律があり、してよいこととしてはならないことの境界があります。人間関係においても、互いの人格や生活を守るために、適切な距離や資格が必要です。 境界線そのものが悪いわけではありません。しかし、その境界線が、自分を守るためではなく、他者を見下し、排除し、自分たちの優越性を主張するために使われるとき、境界線は壁となります。壁は人を隔て、疑いを生み、ついには敵意を育てます。 今日のみことばは、そのような人間の造った壁を、神の憐れみが越えていくことを示しています。 福音の初めに、イエスはティルスとシドンの地方へ行かれます。そこはイスラエルの外、異邦人の住む地域です。イエスご自身が、まず国境を越えています。当時のユダヤ人は、異邦人と接触することによって宗教的に汚れることを恐れていました。しかしイエスは、異なる民族、異なる文化、異なる宗教を持つ人々の土地へ入ることを恐れません。...
2026年8月15日 聖母マリアの被昇天
聖母マリアの被昇天(8月15日・日中のミサ) みことばのメッセージ 今日は聖母マリアの被昇天の祭日です。 この祭日は、ともすると、マリアが空の彼方へ上っていったという、神話的な物語のように受け取られかねません。しかし、教会が今日祝っているのは、そのような単純な空間移動ではありません。被昇天とは、マリアの全存在が、魂だけでなく体も含めて、完全に神との交わりの中へと受け入れられたという信仰です。 今日の第二朗読で、聖パウロは復活について語っています。「最初に、初穂であるキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち。」キリストは、死者の中から復活された「初穂」です。そして、キリストに属する者たちもまた、キリストに続いて命へと導かれます。さらに最後には、すべてが神のもとに集められ、「神がすべてにおいてすべてとなられる」とパウロは語ります。 つまり、神の救いの目的は、人間だけをこの世界から切り離して救うことではありません。人間と被造物のすべてを、光と命と喜びに満ちた神のうちへと導くことです。 そのためには、人間と世界の中にあ
2026年8月9日 年間第19主日
A年 年間 第19主日 聖書のことば みことばのメッセージ 今日の御言葉全体は、困難の中で神を見いだし、信仰をもって歩むようにと招いています。 まず、第一朗読では、預言者エリヤがホレブの山で神と出会います。 エリヤは王妃イゼベルに命を狙われ、荒れ野へ逃れ、洞窟に身を隠していました。疲れ果て、恐れと孤独の中にあったエリヤに、主は言われます。「外に出て、山の上で主の前に立ちなさい」。すると、山を裂くほどの激しい風が起こります。しかし、主は風の中にはおられませんでした。地震が起こります。しかし、主は地震の中にもおられませんでした。火が起こります。しかし、主は火の中にもおられませんでした。その後、静かな、かすかな風の音が聞こえます。エリヤは、そこに主がおられることを悟り、外套で顔を覆いました。 神は、時には驚くべき出来事を通して御自身を現されます。しかし多くの場合、神は静けさの中で、私たちの心に語りかけられます。私たちは、目立つ奇跡や劇的な出来事を求めがちです。しかし、神は日々の祈り、聖書の言葉、良心の声、人から受ける小さな親切、困っている人を
2026年8月2日 年間第18主日
年間第18主日みことばのメッセージ 現代の社会に欠かせないコンピュータの基礎理論である数学には、演算方式つまり簡単に言うと足し算や引き算、掛け算、割り算などがあります。しかし今日の聖書朗読は、普通の数学にはない、不思議な「計算」を私たちに教えています。それは、人間のわずかなものに、神の豊かな恵みを掛け合わせると、多くの人を養うものになる、という計算です。 言い換えるならば、イエスにおける「増やす」ということは、「愛する」ということなのです。 今日の福音の直前には、陰鬱なヘロデの宴会、洗礼者ヨハネの死が語られています。ヨハネの死は、イエスと弟子たちの心に、大きな悲しみと動揺をもたらしたことでしょう。そこでイエスは、弟子たちとともに、人里離れた場所へ退こうとされます。 悲しい出来事を受け止め、神の前で考え、祈り、心を整えるためには、沈黙が必要です。沈黙は、何もない空白ではありません。神の言葉に耳を傾け、人生の本質を見つめ直す時間です。 しかし、イエスと弟子たちの後を群衆が追って来ます。静かに過ごそうとした予定は崩れてしまいました。私たちなら、「今は休
2026年7月26日 年間第17主日
A年 第17主日 みことばのメッセージ 私たちは皆、何かしら自分にとっての「宝」を求めて生きています。 考古学者ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見した時のことです。小さな穴からろうそくを差し入れ、中をのぞいた彼は、しばらく言葉を失いました。あまりの驚きに、身動きもできなかったと言われます。仲間たちが「何が見えるのか」と尋ねると、彼はようやくこう答えました。「すばらしいもの、すばらしいものだ」。 人は、本当に価値あるものに出会うと、言葉を失います。そして、その宝が人生の見方を変えてしまうことがあります。 今日のみことばの中心にも、「宝」があります。 第一朗読では、若きソロモンが登場します。彼は王となりましたが、自分の未熟さをよく知っていました。大きな民を治める責任の前で、自分の力だけでは足りないことを知っていたのです。神は彼に言われます。「あなたに何を与えればよいか、願いなさい」。 もし私たちが同じように問われたら、何を願うでしょうか。健康でしょうか。長寿でしょうか。財産でしょうか。成功でしょうか。ライバルに勝つことでしょうか。なかなか本
2026年7月19日 年間第16主日
A年 年間第16主日、 みことばのメッセージ 皆さん、今日のみことばは、私たちに「忍耐」を教えています。 けれども、この忍耐は、ただ我慢することではありません。何もしないで黙っていることでもありません。今日のみことばが語る忍耐は、神を信頼する力です。そして、愛の中核にあるものです。聖カタリナは、「忍耐は愛の核心である」と言いました。これはとても深い言葉です。なぜなら、愛するということは、相手をすぐに裁かないこと、すぐに見捨てないこと、すぐに結果を求めないことだからです。愛は待つことができます。愛は信じることができます。愛は希望することができます。 今日の福音で、イエスは三つのたとえを語られます。毒麦のたとえ、からし種のたとえ、そしてパン種のたとえです。どれも、神の国がどのように成長するかを教えています。 まず、毒麦のたとえです。ある人が自分の畑に良い種をまきました。ところが、人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦をまいていきます。やがて芽が出て実を結び始めると、良い麦と毒麦が一緒に生えていることが分かります。 僕たちは主人に言います。「ご主人
2026年7月12日 年間第15主日
年間第15主日 説教案 今日の福音は、マタイ福音書13章の「種をまく人」のたとえです。この13章の「たとえによる説教」は、「山上の説教」、「宣教についての説教」に続く、マタイ福音書全体を支える大きな柱の一つです。 マタイはこの箇所を、よく考えられた構成でまとめています。まず「種をまく人」のたとえがあり、次に、なぜイエスがたとえで語られるのかが説明され、さらにそのたとえの解釈が続きます。その後、「毒麦のたとえ」においても、同じように、たとえ、たとえの目的、たとえの説明が続きます。 今日、特に大切なのは、イエスがなぜたとえで語られるのかという点です。イエスは預言者イザヤの言葉を引用されます。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。」 これは、神が人々にわざと分からないようにしている、という意味ではありません。問題は、聞く側の心にあります。たとえが群衆には不明瞭なまま残るのは、彼らに神の言葉を受け入れる備え、頭と心の柔らかさ、心と良心の開きが欠けているからです。 だから今日の福音で中心となるのは、「聞いて理解する」
2026年7月5日 年間第14主日
A年 年間第十四主日 みことばのメッセージ 今日の福音で、イエスは父に向かってこう祈られます。 「父よ、天地の主よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを知恵ある者や賢い者には隠し、小さな者たちにお示しになりました。」 この言葉は、私たちに大切なことを教えています。神の神秘は、複雑な理屈を積み重ねた人、自分の知識や正しさに閉じこもる人にではなく、小さな者、単純な者、へりくだった者に示されるということです。 私たちは、すべてを大きく、特別に、立派に、自分こそ正しいものとして見せようとする時代に生きています。普通であること、単純で全てのことに敬意を持つ謙遜さが、まるで価値のないことのように扱われることがあります。しかし、信仰において本当に大切なのは、複雑で難しい議論を展開することではありません。むしろ、本質へ戻ること、無垢な簡素さです。 単純な人とは、何も考えない人ではありません。浅はかな人でもありません。単純な人とは、多くの複雑なものの中から、本当に大切なものを見分ける純粋な眼差しをもつ人です。余計な飾りやこだわりを捨てて、神の前で本質に
2026年6月28日 年間第13主日
年間第13主日 みことばのメッセージ 今日のみことばは、私たちに問いかけます。 あなたは、何をいちばん大切にして生きていますか。 福音の中で、イエスは言われます。 「父や母をわたしよりも愛する者は、わたしにふさわしくない。息子や娘をわたしよりも愛する者も、わたしにふさわしくない。」 これは、家族への愛を否定する言葉ではありません。父母を敬い、家族を愛することは、聖書が大切に教えていることです。しかしイエスは、すべての愛の中心にキリストを置きなさい、と言われます。 キリストは、ほかの大切なものと並ぶ一つの価値ではありません。キリストは、すべての価値を照らし、清め、正しく整える中心です。だから、キリストを第一にする人は、家族を粗末にする人ではなく、むしろ家族をより深く、より自由に愛することができる人です。 イエスはさらに言われます。 「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」 十字架を担うとは、苦しみを好むことではありません。福音に忠実に生きようとするときに避けられない重さを、逃げずに担うことです。 正直に生きること。 人
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