2026年10月18日 年間第29主日
更新日:10月19日
A年、 年間第29主日 みことばのメッセージ
私たちは、一人では生きていません。家庭があり、仕事があり、地域社会があり、国家があります。その中で私たちは、法律を守り、税金を払い、さまざまな責任を果たしながら生きています。しかしキリスト者にとって、いつも一つの問いがあります。私たちは、この世界に属する市民であると同時に、神に属する者でもあります。では、この二つをどのように両立させればよいのでしょうか。
初代教会の有名な『ディオグネトスへの手紙』は、キリスト者について印象的なことを語っています。キリスト者は他の人々と同じ町に住み、同じ服を着て、同じ食事をし、社会の決まりに従って生活する。しかし、「地上に住みながら、その国籍は天にある」。そして、「魂が身体の中にあるように、キリスト者は世界の中にいる」と言います。つまり、キリスト者とは、この世界から逃げる人ではありません。社会の中に生き、社会の責任を果たす。しかし同時に、この世の価値観にすべてを明け渡すわけでもないのです。
今日の第一朗読に登場するペルシア王キュロスは、そのことを考えるうえで興味深い人物です。イスラエルの民はバビロン捕囚の中にいました。長い年月が過ぎ、多くの人々は異国での生活に慣れ、故郷へ帰る希望さえ失いかけていました。ところが、歴史は思いがけないところから動き始めます。ペルシア王キュロスがバビロンを征服し、捕囚の民を解放します。
驚くべきことに、キュロスはイスラエルの神を信じる人ではありません。それでも預言者は彼を、神によって「油注がれた者」とまで呼びます。キュロス本人は、自分がイスラエルの神の計画を実現しているとは知りませんでした。しかし神は、彼自身も知らないうちに、彼を用いて民を解放されたのです。
ここには大切な教えがあります。
神の働きは、私たちが考えている宗教的な枠の中だけに閉じ込められてはいない、ということです。私たちは、「この人は信者だから神に用いられる」「この人は信仰を持っていないから神とは関係がない」と簡単に考えてしまいます。しかし神は、人間の区分を超えて働かれます。時には、神を知らない人を通して正義が実現されることもあります。
教会の外からの批判によって、教会自身が清められることもあります。信仰を持たない人の働きによって、人間の尊厳や自由が守られることもあります。大切なのは、「誰がしたか」だけではなく、「そこに真実、正義、解放があるか」を見分けることです。
そして今日の福音では、ファリサイ派とヘロデ党の人々がイエスに尋ねます。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。」これは罠でした。
税金を払うなと言えば、ローマへの反逆者になります。払えと言えば、ローマの支配を認める者として民衆から反感を買います。イエスは貨幣を見せるよう求めて尋ねます。
「これは誰の肖像か。」「皇帝のものです。」そこでイエスは言われます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
この資料が強調している第一の意味は、とても具体的です。キリスト者は、社会の共通善に責任を持たなければならない、ということです。税金を払う。法律を守る。社会のために自分の役割を果たす。不正な抜け道を探さない。
信仰があるから社会的責任を免除される、ということではありません。むしろキリスト者だからこそ、誠実な市民であることが求められます。
しかしイエスは、そこで終わりません。「神のものは神に返しなさい。」ここがもっと重要です。
貨幣には皇帝の像が刻まれていました。では、神の像が刻まれているものは何でしょうか。
人間です。創世記は、人間が「神のかたどり」に造られたと語っています。だから、貨幣は皇帝に返すことができます。
しかし人間は、皇帝のものではありません。国家のものでもありません。会社のものでもありません。宗教団体のものでもありません。誰か力のある人の所有物でもありません。
人間は神のものです。
ここから非常に重要な結論が生まれます。人を奴隷にしてはならない。人を抑圧してはならない。人を搾取してはならない。人を自分の思い通りに支配してはならない。人を目的のための道具として扱ってはならない。
なぜなら、その人には神の像が刻まれているからです。
今日の福音の言葉を、単に「税金を払いなさい」という話で終わらせるなら、その半分しか聞いていないことになります。「皇帝のものは皇帝に。」
確かに、社会の責任を果たしなさい。しかし、「神のものは神に。」
人間を、神のものとして尊重しなさい。
これがもう一つの、そしてもっと根本的な命令です。
だからキリスト者は、社会の中で模範的な市民であると同時に、人間の尊厳が傷つけられる時には黙っていてはならないのです。
そして第二朗読でパウロは、テサロニケの信徒たちについて、「信仰による働き、愛による労苦、希望に基づく忍耐」を喜んでいます。
パウロ自身は、自分の宣教が失敗したと思っていました。
十分に教えることもできず、迫害のためにテサロニケを離れなければならなかったからです。
ところが後になって、その共同体が立派に成長していたことを知ります。
自分が弱くても、神は働いておられたのです。
キュロスも、自分が神の計画に用いられていることを知りませんでした。
パウロも、自分が去った後に神がどれほど働いておられるか知りませんでした。
私たちも同じです。
自分には見えていなくても、神は働いておられます。
だから私たちは、この世界の中で誠実に責任を果たし、人間の尊厳を守り、自分にできる善を行います。
そして、その小さな働きを神に委ねます。
「魂が身体の中にあるように、キリスト者は世界の中にいる。」
この世界から逃げるのではなく、この世界に埋没するのでもなく、神に属する者として、この世界の中で信仰と愛と希望を生きる。
それが、今日の御言葉が私たちに示しているキリスト者の姿なのです。
第一朗読 イザヤの預言 45章1、4-6
第二朗読 テサロニケの教会への手紙〈一〉 1章1-5b
福音朗読 マタイによる福音 22章15-21
A年、 年間第29主日 説教案
今日の福音で、ファリサイ派の人々はイエスを罠にかけようとして尋ねます。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。」
これは単なる税金の話ではありません。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。ですから、皇帝に税を払うということは、外国の支配を認めることでもありました。
もしイエスが「税金を払いなさい」と答えれば、人々からローマの味方だと思われるでしょう。反対に「払ってはいけない」と答えれば、今度はローマ帝国への反逆者として訴えることができます。どちらを答えても困るように仕組まれた質問でした。
しかしイエスは、彼らに一枚の銀貨を持って来させて尋ねます。「これは誰の肖像と銘か。」
彼らは答えます。「皇帝のものです。」
そこでイエスは言われます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
有名な言葉です。
ここでイエスは、「政治と宗教はまったく関係ありません」と言っているのではありませんまた、反対に、政治と宗教を一つにしなさいと言っているのでもありません。
今日の聖書を貫いている考え方は、こういうことです。この二つは区別される。しかし、切り離されるものではない。私たちは社会の中で生きています。税金を払い、法律を守り、社会の一員として責任を果たします。キリスト者だから社会の義務から自由になるわけではありません。しかし同時に、社会も国家も、人間の人生のすべてを支配することはできません。なぜなら、私たちの人生そのものは神に属しているからです。
銀貨には皇帝の肖像が刻まれていました。だから、その銀貨を皇帝に返すことはできます。
では、私たち人間には誰の姿が刻まれているのでしょうか。聖書によれば、人間は「神の似姿」として造られています。
ですから、「神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉をさらに深く聞くならば、それは、あなた自身を神のものとして神に返しなさい、という招きでもあります。
お金や社会的義務については皇帝に属するものがある。しかし、あなたの心、あなたの良心、あなたの人生の最終的な主人は神である。
これが今日の福音の核心でしょう。
そして第一朗読は、そのことをさらに大きな歴史の中で示しています。
そこにはペルシアの王キュロスが登場します。驚くべきことに、神はこの異教徒の王を用いて、バビロン捕囚にあったイスラエルの民を解放されます。キュロス自身はイスラエルの神を信じていたわけではありません。それでも神は彼を、ご自分の救いの計画のために用いられる。
ここに聖書の非常に大きな歴史観があります。人間から見れば、歴史は政治家や王や権力者によって動いているように見えます。しかし聖書は、そのさらに深いところを見ています。
歴史の本当の主人は神である。
キュロスは当時、世界を動かすほどの力を持った王でした。しかし聖書の眼から見れば、そのキュロスさえも、神の摂理の中で用いられる一人の人間にすぎません。
だから私たちは、政治や社会を軽視してはいけません。しかし同時に、それらを絶対視してもいけません。政治家も、国家も、制度も、時代も変わります。しかし神は変わりません。
そして第二朗読でパウロは、別の形で同じことを語っています。
彼はテサロニケの教会を見ながら、「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」を神に感謝します。信仰とは、頭の中で何かを信じているだけではありません。
信仰は「働き」になります。愛は、単なる気持ちではなく「労苦」を伴います。希望とは、楽観的に考えることではなく、「忍耐」して歩き続けることです。つまり、神を第一にするということは、社会から離れることではありません。むしろ神を第一にするからこそ、私たちは、この世界の中で責任をもって生きることができます。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に。」
この言葉は、神と世界を二つに切り分ける言葉ではありません。
世界の中で誠実に生きながら、それでも最後には、私は誰に属しているのか、という問いを忘れないための言葉です。
私たちは国家に属し、社会に属し、家庭に属し、さまざまな共同体に属しています。
しかし、そのすべてより深いところで、私たちは神に属しています。
だからこそ、この世界を恐れすぎる必要もなければ、この世界の力を絶対視する必要もありません。私たちの生きる歴史の中で、時には理解できない出来事も起こります。けれどもキュロスさえ用いられた神は、私たちには見えないところでも働いておられます。
その神を信頼しながら、私たちは今日、自分が置かれている場所で、信仰を働きに変え、愛のために労苦し、希望をもって忍耐して歩みたいと思います。そして何よりも、神の似姿として与えられたこの自分自身を、もう一度神にお返ししたいと思います。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に。」
この言葉を、今日、自分自身への問いとして受け取りたいと思います。
