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2026年9月13日 年間第24主日
A年・年間第24主日 今日の典礼を貫いている一つの言葉があります。それは「ゆるし」です。 第一朗読のシラ書は言います。「隣人の不正をゆるせ。そうすれば、あなたが祈るとき、あなたの罪もゆるされる。」答唱詩編では、「主はあなたの罪をことごとくゆるし、私たちの罪に応じてあしらわれることはない」と歌います。 そして福音の最後でイエスは、「あなたがた一人一人が、心から兄弟をゆるさないなら、天の父もあなたがたに同じようになさる」と言われます。 さらに私たちは毎日のように、主の祈りの中で、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈っています。 つまり今日、聖書が私たちに問いかけているのは、とてもはっきりしています。私たちは、神からゆるされている者として、人をゆるしているだろうか、ということです。 第一朗読のシラ書は、紀元前二世紀ごろに書かれた知恵文学です。そこには、非常に現実的な人間理解があります。人に対する恨みや怒りを心に抱えながら、神に向かって「私をゆるしてください」と祈る。そのこと自体に矛盾がある、とシラ書は言うのです。恨みとい
2026年9月6日 年間第23主日
A年年間第23主日 みことばのメッセージ 今日の教会は、福音を現代の世界に伝えることの難しさを感じています。 多くの人々は、福音を正面から拒んでいるわけではありません。しかし、さまざまな情報や関心、安心や快適さを求める生活の中で、福音の声が埋もれてしまっています。そのため教会は、「新しい福音宣教」、すなわちキリスト教的な生き方を改めて築き直す必要を語っています。 しかし、福音によって変わらなければならないのは、教会の外にいる人々だけではありません。教会共同体そのものも、絶えず回心する必要があります。 教会の中にも、疲れや諦めがあります。健全な多様性がある一方で、互いを排除する派閥意識も生まれます。未来へ進もうとする人と、過去へ戻ろうとする人との間に、対立が起こることもあります。 教会は、弱さや罪から免れた、完全な人々の集まりではありません。罪は人と人との関係を壊し、共同体に分裂をもたらします。 今日の福音で、イエスはこの分裂を癒やすための具体的な治療法を示されます。それが「兄弟的矯正」です。 イエスは言われます。「兄弟が罪を犯したなら、行って、二
2026年8月30日 年間第22主日
A年 第22主日 みことばのメッセージ 今日の福音で、イエスは初めてご自分の受難を弟子たちに予告されます。 その直前、ペトロはイエスに向かって、 「あなたはメシア、生ける神の子です」と、すばらしい信仰告白をしました。しかし、そのイエスが、エルサレムで苦しみを受け、殺されると語られると、ペトロはそれを受け入れることができません。ペトロはイエスを脇へ連れて行き、いさめます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 ペトロが望んでいたのは、栄光に満ちたメシアでした。人々に認められ、敵に勝利し、力をもって神の国を実現するメシアです。しかしイエスが示されたのは、屈辱を受け、苦しみ、命をささげるメシアの道でした。ペトロは、イエスの栄光は望みましたが、その栄光に至る十字架の道は受け入れることができなかったのです。 そこでイエスは、ペトロに厳しく言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 なぜ、愛する弟子に対してこれほど厳しい言葉を言われたのでしょうか。それは、ペトロの言葉が、イエスを神の御心
2026年8月23日 年間第21主日
A年・年間21主日 聖書のメッセージ 私たちは毎日の生活の中で、さまざまな鍵を使っています。家の鍵、車の鍵、金庫の鍵。鍵は小さなものですが、扉を開き、また閉じる大切な働きをします。 そして、誰かに鍵を渡すことは、その人を信頼し、大切なものを委ねることを意味します。家の鍵は、誰にでも渡すものではありません。 今日の三つの朗読を結びつけているのも、この「鍵」です。 第一朗読では、宮廷をつかさどっていたシェブナが職を解かれ、代わってエルヤキムが選ばれます。神は言われます。「彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開けば閉じる者はなく、彼が閉じれば開く者はない。」当時、宮廷の鍵を持つことは、王に代わって宮殿を管理する権限を委ねられることでした。誰を王の前に通すのか、王の財産をどのように管理するのか。その大きな責任が託されたのです。 しかし、鍵を預けられた人は、宮殿の主人ではありません。主人の意志に従って家を管理する奉仕者です。権威は自分のためではなく、委ねられた人々のために用いられなければなりません。 今日の福音では、この鍵がイエスによってペトロに委ねられます
2026年8月16日 年間第20主日
年間第20主日 みことばのメッセージ「境界を越えていく神の憐れみ」 皆さん、私たちの生活の中には、さまざまな境界線があります。国と国との間には国境があります。社会には法律があり、してよいこととしてはならないことの境界があります。人間関係においても、互いの人格や生活を守るために、適切な距離や資格が必要です。 境界線そのものが悪いわけではありません。しかし、その境界線が、自分を守るためではなく、他者を見下し、排除し、自分たちの優越性を主張するために使われるとき、境界線は壁となります。壁は人を隔て、疑いを生み、ついには敵意を育てます。 今日のみことばは、そのような人間の造った壁を、神の憐れみが越えていくことを示しています。 福音の初めに、イエスはティルスとシドンの地方へ行かれます。そこはイスラエルの外、異邦人の住む地域です。イエスご自身が、まず国境を越えています。当時のユダヤ人は、異邦人と接触することによって宗教的に汚れることを恐れていました。しかしイエスは、異なる民族、異なる文化、異なる宗教を持つ人々の土地へ入ることを恐れません。...
2026年8月15日 聖母マリアの被昇天
聖母マリアの被昇天(8月15日・日中のミサ) みことばのメッセージ 今日は聖母マリアの被昇天の祭日です。 この祭日は、ともすると、マリアが空の彼方へ上っていったという、神話的な物語のように受け取られかねません。しかし、教会が今日祝っているのは、そのような単純な空間移動ではありません。被昇天とは、マリアの全存在が、魂だけでなく体も含めて、完全に神との交わりの中へと受け入れられたという信仰です。 今日の第二朗読で、聖パウロは復活について語っています。「最初に、初穂であるキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち。」キリストは、死者の中から復活された「初穂」です。そして、キリストに属する者たちもまた、キリストに続いて命へと導かれます。さらに最後には、すべてが神のもとに集められ、「神がすべてにおいてすべてとなられる」とパウロは語ります。 つまり、神の救いの目的は、人間だけをこの世界から切り離して救うことではありません。人間と被造物のすべてを、光と命と喜びに満ちた神のうちへと導くことです。 そのためには、人間と世界の中にあ
2026年8月9日 年間第19主日
A年 年間 第19主日 聖書のことば みことばのメッセージ 今日の御言葉全体は、困難の中で神を見いだし、信仰をもって歩むようにと招いています。 まず、第一朗読では、預言者エリヤがホレブの山で神と出会います。 エリヤは王妃イゼベルに命を狙われ、荒れ野へ逃れ、洞窟に身を隠していました。疲れ果て、恐れと孤独の中にあったエリヤに、主は言われます。「外に出て、山の上で主の前に立ちなさい」。すると、山を裂くほどの激しい風が起こります。しかし、主は風の中にはおられませんでした。地震が起こります。しかし、主は地震の中にもおられませんでした。火が起こります。しかし、主は火の中にもおられませんでした。その後、静かな、かすかな風の音が聞こえます。エリヤは、そこに主がおられることを悟り、外套で顔を覆いました。 神は、時には驚くべき出来事を通して御自身を現されます。しかし多くの場合、神は静けさの中で、私たちの心に語りかけられます。私たちは、目立つ奇跡や劇的な出来事を求めがちです。しかし、神は日々の祈り、聖書の言葉、良心の声、人から受ける小さな親切、困っている人を
2026年8月2日 年間第18主日
年間第18主日みことばのメッセージ 現代の社会に欠かせないコンピュータの基礎理論である数学には、演算方式つまり簡単に言うと足し算や引き算、掛け算、割り算などがあります。しかし今日の聖書朗読は、普通の数学にはない、不思議な「計算」を私たちに教えています。それは、人間のわずかなものに、神の豊かな恵みを掛け合わせると、多くの人を養うものになる、という計算です。 言い換えるならば、イエスにおける「増やす」ということは、「愛する」ということなのです。 今日の福音の直前には、陰鬱なヘロデの宴会、洗礼者ヨハネの死が語られています。ヨハネの死は、イエスと弟子たちの心に、大きな悲しみと動揺をもたらしたことでしょう。そこでイエスは、弟子たちとともに、人里離れた場所へ退こうとされます。 悲しい出来事を受け止め、神の前で考え、祈り、心を整えるためには、沈黙が必要です。沈黙は、何もない空白ではありません。神の言葉に耳を傾け、人生の本質を見つめ直す時間です。 しかし、イエスと弟子たちの後を群衆が追って来ます。静かに過ごそうとした予定は崩れてしまいました。私たちなら、「今は休
2026年7月26日 年間第17主日
A年 第17主日 みことばのメッセージ 私たちは皆、何かしら自分にとっての「宝」を求めて生きています。 考古学者ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見した時のことです。小さな穴からろうそくを差し入れ、中をのぞいた彼は、しばらく言葉を失いました。あまりの驚きに、身動きもできなかったと言われます。仲間たちが「何が見えるのか」と尋ねると、彼はようやくこう答えました。「すばらしいもの、すばらしいものだ」。 人は、本当に価値あるものに出会うと、言葉を失います。そして、その宝が人生の見方を変えてしまうことがあります。 今日のみことばの中心にも、「宝」があります。 第一朗読では、若きソロモンが登場します。彼は王となりましたが、自分の未熟さをよく知っていました。大きな民を治める責任の前で、自分の力だけでは足りないことを知っていたのです。神は彼に言われます。「あなたに何を与えればよいか、願いなさい」。 もし私たちが同じように問われたら、何を願うでしょうか。健康でしょうか。長寿でしょうか。財産でしょうか。成功でしょうか。ライバルに勝つことでしょうか。なかなか本
2026年7月19日 年間第16主日
A年 年間第16主日、 みことばのメッセージ 皆さん、今日のみことばは、私たちに「忍耐」を教えています。 けれども、この忍耐は、ただ我慢することではありません。何もしないで黙っていることでもありません。今日のみことばが語る忍耐は、神を信頼する力です。そして、愛の中核にあるものです。聖カタリナは、「忍耐は愛の核心である」と言いました。これはとても深い言葉です。なぜなら、愛するということは、相手をすぐに裁かないこと、すぐに見捨てないこと、すぐに結果を求めないことだからです。愛は待つことができます。愛は信じることができます。愛は希望することができます。 今日の福音で、イエスは三つのたとえを語られます。毒麦のたとえ、からし種のたとえ、そしてパン種のたとえです。どれも、神の国がどのように成長するかを教えています。 まず、毒麦のたとえです。ある人が自分の畑に良い種をまきました。ところが、人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦をまいていきます。やがて芽が出て実を結び始めると、良い麦と毒麦が一緒に生えていることが分かります。 僕たちは主人に言います。「ご主人
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