top of page
2026年8月2日 年間第18主日
年間第18主日みことばのメッセージ 現代の社会に欠かせないコンピュータの基礎理論である数学には、演算方式つまり簡単に言うと足し算や引き算、掛け算、割り算などがあります。しかし今日の聖書朗読は、普通の数学にはない、不思議な「計算」を私たちに教えています。それは、人間のわずかなものに、神の豊かな恵みを掛け合わせると、多くの人を養うものになる、という計算です。 言い換えるならば、イエスにおける「増やす」ということは、「愛する」ということなのです。 今日の福音の直前には、陰鬱なヘロデの宴会、洗礼者ヨハネの死が語られています。ヨハネの死は、イエスと弟子たちの心に、大きな悲しみと動揺をもたらしたことでしょう。そこでイエスは、弟子たちとともに、人里離れた場所へ退こうとされます。 悲しい出来事を受け止め、神の前で考え、祈り、心を整えるためには、沈黙が必要です。沈黙は、何もない空白ではありません。神の言葉に耳を傾け、人生の本質を見つめ直す時間です。 しかし、イエスと弟子たちの後を群衆が追って来ます。静かに過ごそうとした予定は崩れてしまいました。私たちなら、「今は休
2026年7月26日 年間第17主日
A年 第17主日 みことばのメッセージ 私たちは皆、何かしら自分にとっての「宝」を求めて生きています。 考古学者ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見した時のことです。小さな穴からろうそくを差し入れ、中をのぞいた彼は、しばらく言葉を失いました。あまりの驚きに、身動きもできなかったと言われます。仲間たちが「何が見えるのか」と尋ねると、彼はようやくこう答えました。「すばらしいもの、すばらしいものだ」。 人は、本当に価値あるものに出会うと、言葉を失います。そして、その宝が人生の見方を変えてしまうことがあります。 今日のみことばの中心にも、「宝」があります。 第一朗読では、若きソロモンが登場します。彼は王となりましたが、自分の未熟さをよく知っていました。大きな民を治める責任の前で、自分の力だけでは足りないことを知っていたのです。神は彼に言われます。「あなたに何を与えればよいか、願いなさい」。 もし私たちが同じように問われたら、何を願うでしょうか。健康でしょうか。長寿でしょうか。財産でしょうか。成功でしょうか。ライバルに勝つことでしょうか。なかなか本
2026年7月19日 年間第16主日
A年 年間第16主日、 みことばのメッセージ 皆さん、今日のみことばは、私たちに「忍耐」を教えています。 けれども、この忍耐は、ただ我慢することではありません。何もしないで黙っていることでもありません。今日のみことばが語る忍耐は、神を信頼する力です。そして、愛の中核にあるものです。聖カタリナは、「忍耐は愛の核心である」と言いました。これはとても深い言葉です。なぜなら、愛するということは、相手をすぐに裁かないこと、すぐに見捨てないこと、すぐに結果を求めないことだからです。愛は待つことができます。愛は信じることができます。愛は希望することができます。 今日の福音で、イエスは三つのたとえを語られます。毒麦のたとえ、からし種のたとえ、そしてパン種のたとえです。どれも、神の国がどのように成長するかを教えています。 まず、毒麦のたとえです。ある人が自分の畑に良い種をまきました。ところが、人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦をまいていきます。やがて芽が出て実を結び始めると、良い麦と毒麦が一緒に生えていることが分かります。 僕たちは主人に言います。「ご主人
2026年7月12日 年間第15主日
年間第15主日 説教案 今日の福音は、マタイ福音書13章の「種をまく人」のたとえです。この13章の「たとえによる説教」は、「山上の説教」、「宣教についての説教」に続く、マタイ福音書全体を支える大きな柱の一つです。 マタイはこの箇所を、よく考えられた構成でまとめています。まず「種をまく人」のたとえがあり、次に、なぜイエスがたとえで語られるのかが説明され、さらにそのたとえの解釈が続きます。その後、「毒麦のたとえ」においても、同じように、たとえ、たとえの目的、たとえの説明が続きます。 今日、特に大切なのは、イエスがなぜたとえで語られるのかという点です。イエスは預言者イザヤの言葉を引用されます。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。」 これは、神が人々にわざと分からないようにしている、という意味ではありません。問題は、聞く側の心にあります。たとえが群衆には不明瞭なまま残るのは、彼らに神の言葉を受け入れる備え、頭と心の柔らかさ、心と良心の開きが欠けているからです。 だから今日の福音で中心となるのは、「聞いて理解する」
2026年7月5日 年間第14主日
A年 年間第十四主日 みことばのメッセージ 今日の福音で、イエスは父に向かってこう祈られます。 「父よ、天地の主よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを知恵ある者や賢い者には隠し、小さな者たちにお示しになりました。」 この言葉は、私たちに大切なことを教えています。神の神秘は、複雑な理屈を積み重ねた人、自分の知識や正しさに閉じこもる人にではなく、小さな者、単純な者、へりくだった者に示されるということです。 私たちは、すべてを大きく、特別に、立派に、自分こそ正しいものとして見せようとする時代に生きています。普通であること、単純で全てのことに敬意を持つ謙遜さが、まるで価値のないことのように扱われることがあります。しかし、信仰において本当に大切なのは、複雑で難しい議論を展開することではありません。むしろ、本質へ戻ること、無垢な簡素さです。 単純な人とは、何も考えない人ではありません。浅はかな人でもありません。単純な人とは、多くの複雑なものの中から、本当に大切なものを見分ける純粋な眼差しをもつ人です。余計な飾りやこだわりを捨てて、神の前で本質に
2026年6月28日 年間第13主日
年間第13主日 みことばのメッセージ 今日のみことばは、私たちに問いかけます。 あなたは、何をいちばん大切にして生きていますか。 福音の中で、イエスは言われます。 「父や母をわたしよりも愛する者は、わたしにふさわしくない。息子や娘をわたしよりも愛する者も、わたしにふさわしくない。」 これは、家族への愛を否定する言葉ではありません。父母を敬い、家族を愛することは、聖書が大切に教えていることです。しかしイエスは、すべての愛の中心にキリストを置きなさい、と言われます。 キリストは、ほかの大切なものと並ぶ一つの価値ではありません。キリストは、すべての価値を照らし、清め、正しく整える中心です。だから、キリストを第一にする人は、家族を粗末にする人ではなく、むしろ家族をより深く、より自由に愛することができる人です。 イエスはさらに言われます。 「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」 十字架を担うとは、苦しみを好むことではありません。福音に忠実に生きようとするときに避けられない重さを、逃げずに担うことです。 正直に生きること。 人
2026年6月21日 年間第12主日
年間第十二主日 聖書のメッセージ 今日の三つの朗読には、共通する一つの流れがあります。それは、闇の中に光が差し込み、苦しみの中に希望が与えられ、恐れの中で神への信頼へと招かれる、という流れです。 今日の福音で、イエスは三度「恐れてはならない」と言われます。 「人々を恐れてはならない。」 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」 「だから、恐れるな。」 この言葉は、多くの殉教者たちを支えてきました。殉教者とは、ただ死を恐れなかった人ではありません。彼らも苦しみや恐れを知っていました。しかし彼らは、体を奪われても、魂までは奪われないことを知っていました。本当に魂を殺すものは、迫害ではなく、罪であり、神を拒むことです。 第一朗読の預言者エレミヤも、恐れと孤独の中に置かれていました。彼は、神の言葉を語ったために、人々から理解されず、憎まれ、同郷の人々からも疑われ、親しい人々からも裏切られました。神に従っているのに、なぜこれほど苦しまなければならないのか。彼はその苦しみを深く味わいました。 しかし、その中でエレミヤは告白します。...
2026年6月14日 年間第11主日
年間第11主日 聖書のメッセージ 今日の福音は、宣教について語っています。イエスが群衆を見て深くあわれまれ、十二人の弟子を選び、彼らを宣教へと遣わされる場面です。 ここでまず大切なのは、宣教の出発点がイエスの心(御心)にある、ということです。宣教は、単に教会の活動を増やすことでも、組織を大きくすることでもありません。すべては、イエスが群衆を見て深くあわれまれたことから始まります。 福音は、群衆が「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれていた」と語ります。イエスは、その人々を見て、深くあわれまれました。この「あわれみ」という言葉は、ただ気の毒に思うという程度のものではありません。聖書の言葉では、はらわたが動かされるような、心の奥底から湧き上がる深いあわれみを意味します。 イエスは、人間の苦しみを遠くから眺める方ではありません。人々の疲れ、迷い、孤独、悲しみ、苦しみ、心身の傷を、ご自分の心の奥深くで受け止める方です。イエスの心は、人間の心でありながら、神の慈愛に満ちた心です。だからこそ、イエスの宣教は冷たい義務や熱狂的な活動ではなく、あわ
2026年6月7日 キリストの聖体
聖体の祭日 メッセージ 私たちは、困ったときには神を思い出します。苦しいとき、行き詰まったとき、自分の力ではどうにもならないとき、人は自然に神に向かって叫びます。 しかし、信仰にとって本当に危険なのは、苦しみだけではありません。むしろ、すべてがうまくいっている時こそ危険です。生活が安定し、食べ物があり、仕事があり、予定があり、便利なものに囲まれている時、人は神を否定するというより、神を忘れてしまうのです。 今日の第一朗読、申命記は、イスラエルにこう呼びかけます。 「あなたは心に留めなさい。主なる神が荒れ野であなたを導かれたことを。」 イスラエルの民は、荒れ野で自分の無力さを知りました。食べ物も水も、自分たちの力では手に入りませんでした。マンナも水も、神から与えられたものでした。荒れ野とは、人間が自分の力だけでは生きられないことを知る場所です。 そこでイスラエルは、決定的な真理を学びました。 「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる。」 もちろん、人間にパンは必要です。食べ物も、仕事も、住まいも、健康も必要です。し
6月はみこころの月
「みこころの月」の根拠は、厳密に言えば“教義上、6月でなければならない”という掟ではありません。しかし、かなり強い典礼的・神学的・信心史的な根拠があります。 1. 神学的根拠:イエスのみこころは「キリストの愛」のしるし まず根本は、『カトリック教会のカテキズム』478番です。そこでは、キリストは受難と死に至るまで一人ひとりを愛し、ご自分を与えられたのであり、イエスの聖心は、すべての人を愛し続ける贖い主の愛の主要なしるし、象徴であると説明されています。 つまり「みこころ」とは、単に「イエスの優しい気持ち」ではありません。受肉した御子が、人間の心をもって、父と人類を愛し抜かれたことを指します。十字架上で貫かれたわき腹、そこから流れた血と水、聖体と洗礼、教会の誕生という神学的連関の中で理解されます。 2. 聖書的根拠:貫かれたキリスト 直接の聖書的根拠としては、ヨハネ福音書19章34節が重要です。兵士の一人が槍でイエスのわき腹を突き刺すと、すぐ血と水とが流れ出た。教会は古くから、この貫かれたわき腹を、キリストの愛、救いの泉、秘跡の源として黙想してきまし
bottom of page
