2026年4月12日 復活節第2主日
- 5 日前
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復活節第2主日(神のいつくしみの主日)「見ないで信じるのではなく、傷の中に復活の主を見る」
皆さん、今日の福音は、復活されたイエスが弟子たちの真ん中に立たれる場面です。弟子たちは、まだ復活を十分に理解できず、恐れの中にいました。戸に鍵をかけ、外の世界を恐れ、自分たちを守ろうとしていました。けれども、その閉ざされた場所のただ中に、主は入って来られます。そして最初にこう言われます。「あなたがたに平和があるように。」
復活された主がまずお与えになるのは、平和です。責める言葉ではありません。「なぜ逃げたのか」「なぜ信じなかったのか」でもありません。主はまず、傷ついた弟子たちの心に平和を与えられるのです。
これは私たちにとっても同じです。私たちもまた、不安や恐れの中で心を閉ざしてしまうことがあります。失敗、罪、疲れ、人間関係の悩み、将来への不安。そうしたもののために、自分の心に鍵をかけてしまうことがあります。しかし復活の主は、閉ざされた心の外に立ち尽くす方ではありません。主はそのただ中に来てくださる。そして言われます。「あなたに平和があるように。」
今日の福音では、トマスが大きな役割を果たしています。トマスは、ほかの弟子たちが「主を見た」と言っても、すぐには信じませんでした。彼は、「この目で見なければ、この手で触れなければ信じない」と言います。トマスはしばしば「疑い深い弟子」と言われます。けれども、私はトマスは、私たちにとても近い弟子だと思います。なぜなら私たちもまた、同じだからです。本当に神はおられるのか。本当に祈りは聞かれているのか。本当に復活の命はあるのか。そうした問いや揺れを抱えながら信仰を生きているからです。
ですからトマスは、信仰の弱い人の代表というより、苦しみながら信じようとするすべての人の代表です。そして主は、そのトマスを退けません。八日後、主はもう一度弟子たちの真ん中に来られ、今度はトマスに向かって言われます。「あなたの指を私の手に当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」ここが大切です。復活された主は、十字架の傷を消しておられません。主は、栄光の姿になってもなお、傷を持っておられるのです。つまり復活とは、苦しみがなかったことになることではありません。十字架を通り抜け、その傷さえも救いのしるしに変えられたということです。
だから私たちも、自分の傷や弱さを恥じて隠す必要はありません。復活の主は、傷のない世界だけにおられるのではなく、傷ついた現実の中に現存しておられるからです。むしろ主の傷こそが、愛が最後まで貫かれた証しです。トマスは、主のその傷に向き合ったとき、ついに言います。「わたしの主、わたしの神よ。」
これは福音書の中でも、最も深い信仰告白の一つです。トマスは、ただ奇跡を見て驚いたのではありません。傷をもったまま立っておられる主の前で、この方こそ自分の主、自分の神であると告白したのです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じ道を通ります。ただ明るいこと、順調なこと、成功したことの中だけで、信仰が育つのではありません。むしろ、傷ついた現実、苦しむ人々、自分自身の限界、そういうものに触れる中で、私たちの信仰は本物になっていきます。
今日の教会は、この日を神のいつくしみの主日として祝っています。いつくしみとは、ただ優しい気持ちではありません。苦しむ人の痛みに近づくことです。見て終わるのではなく、心を動かされることです。十字架につけられた人々、見捨てられた人々、孤独の中にいる人々に、主のまなざしで向き合うことです。復活の信仰は、苦しみから目をそらす信仰ではありません。傷ついた人間の現実の中に、復活の主を見いだす信仰です。だから私たちは、主の傷を見つめながら、同時にこの世界の傷にも目を向けなければなりません。そこにこそ、主はおられるからです。そして今日、私たちもまた主日に集められています。最初の弟子たちがそうであったように、週の初めの日に集まり、みことばを聞き、祈り、パンを裂く。主日は、ただの休日ではありません。復活された主が、今も私たちの真ん中に立ってくださる日です。私たちはここで、平和を受け、信仰を新たにされ、再び世に遣わされます。
今日のミサの中で、主は私たち一人ひとりにも言われます。「あなたに平和があるように。」そしてまた言われます。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」私たちもトマスとともに、心からこう告白することができますように。
「わたしの主、わたしの神よ。」
アーメン。
復活節第2主日(神のいつくしみの主日)説教「わたしの主、わたしの神よ」
今日の朗読全体を通して、教会は私たちに一つのことを示しています。それは、復活されたキリストによって、新しい生き方が始まったということです。
第一朗読の『使徒言行録』には、復活の主を信じる人々の共同体の姿が描かれていました。
彼らは使徒たちの教えを聞き、互いに交わりを持ち、パンを裂き、祈っていました。これは根本的な教会の営みです。教会とは、ただ日曜日に礼拝に集まるだけの集団ではありません。みことばを聞き、聖体を祝い、祈り、そして互いに支え合って生きる共同体です。特に大切なのは、兄弟的な交わりです。主日のミサの瞬間だけでなく一週間を通して、互いに助け合い、支え合い、ともに生きることが求められています。教会は儀式だけで成り立つのではなく、キリストの愛の経験によって成り立つからです。
第二朗読では、私たちは洗礼によって新しく生まれ、生きた希望へと招かれていると語られました。けれども、その歩みはいつも楽ではありません。信仰には試練があります。苦しみも迷いもあります。それでも私たちは、見たことのないキリストを愛し、見えなくても信じて歩むよう招かれています。
そこで福音のトマスが、私たちにとても近い存在として現れます。トマスは、ほかの弟子たちのようにすぐには信じませんでした。見られなければ信じない、触れられなければ信じない、と言います。けれども正直に私たちも同じです。信じたいと思いながら、信じきれない。祈っていても、神が遠いと感じることがある。ミサに来てもキリストの愛を感じられない。それよりも苦しみの中で、神はどこにおられるのかと思うこともある。信仰は、簡単な道ではありません。しかし大事なのは、主がトマスを退けなかったことです。復活されたイエスは、もう一度弟子たちの真ん中に来て、心をかたくなにするトマスの前に立たれます。そして御自分の傷を示されます。
ここが今日の福音の中心、主の慈しみ深さを示すところです。復活された主は、十字架の傷を消し去っておられません。つまり復活とは、苦しみがなかったこと、罪がなかったになることではないのです。十字架を通り、その傷、世の罪の爪痕をなお持ちながら、主は復活し生きておられる。つまり私たちの罪を負い、それを乗り越えることのできる神の力を証を示しているのです。その主にトマスは告白します。「わたしの主、わたしの神よ。」これはとても大きな慰め、神の憐れみです。私たち自身も苦悩や傷を抱えているからです。失敗、悲しみ、罪、裏切り、無理解、孤独・・・。私たちもまた、傷のあるままで主の前に立つことができます。主は、立派な人を招くのではありません。疑う人も、迷う人も、傷ついた人、罪深い人、頑なな人も招いてくださいます。さらにこの復活の主は、さらに弟子たちに平和を与え、聖霊を与え、彼らを派遣されました。すぐに復活を信じ回心できる立派な弟子ではなく失敗や罪の弱さに打ち砕かれた彼らを派遣するのです。教会は、単純に復活を祝って終わる集まりではありません。赦しと希望を伝えるため遣わされる共同体です。人を裁くためではなく、ゆるしへと導くため、信じない者としでなく、信じるものとして導くように教会は存在しているのです。だから今日、私たちも自分に問いかけたいと思います。私たちの共同体は、本当に復活の主を心から信じ、その慈しみを伝えている共同体だろうか。そして、信じることに苦しんでいる人、傷ついている人、悩み苦しむ人を、ちゃんと迎えているだろうか。教会は、完全な人の集まりではありません。そして持っている余裕のある人が持っていない貧しい人に恵んでやるという上下関係がある支援機構でもありません。キリストは上からではなく傷を負った姿で弟子たちの只中に現れる方なのです。
そして教会には恩恵によって見なくても信じられる人もいれば、トマスのように、見て、触れて、やっと信じる人もいます。さらに一向に信じられない、復活のキリストを認められていない人も多くいる、それが教会の、そして人間の現実かもしれません。それでも主は、そのすべての人の中にいて、御自分のもとに招いておられます。
兄弟姉妹の皆さん、復活の主は、今日も私たちの真ん中に来ておられます。ご自分の平和を与え、私たちを新しくし、そして世に遣わしてくださいます。だから今日、トマスとともに、私たちも心からこう告白できる恵みを願いたいと思います。あなたこそ「わたしの主、わたしの神よ。」
