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​黙想会

四旬節黙想会・聖体賛美式
2026年3月14日(土)
​講師 山内 堅治 神父様
聖パウロ修道会​
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 「ちょうど今は四旬節ですけれども、四旬節のことをレント(Lent)と言います。レントは、音楽では“ゆっくりゆっくり”という意味を表し、それこそ、主の受難、復活を、この四旬節の間私たちがゆっくり考えながら過ごしていくことに繋がっているのです。」 冒頭にこのように述べられた後、前半は 『回心』 について、後半は 『日本の教会の歴史』 についての講話がありました。

回心については、聖書の中から回心が描かれている箇所を取り上げられました。旧約聖書では、アモス書、ホセア書、イザヤ書等における回心、エレミア書の18章、詩編51章のダビデについて等。預言者それぞれの時代背景によって回心の内容は異なるが、神に立ち返るために必要なことを語りかけているとのことでした。

 

新約聖書においては、マルコによる福音書1章14,15節、同じく2章17節等を取り上げられ、また、“見失った羊の話”のマタイとルカによる福音書の表現の違いを例に、ルカによる福音書が 「悔い改め」 という言葉を最も多く使っているとのこと。 さらに、ルカによる福音書はわかり易く回心について語っており、それは神様の愛、恵みに気付いて心を入れ替えていくものとして表現されているとのお話でした。“放蕩息子の話”にも触れながら、回心とは悪いことをしたから心を入れ替えるということもあるかもしれないが、神様の恵みに気付き、それにどのように答えていくのか心を改めていくことでもあると話されました。

日本の教会の歴史については、1549年鹿児島にやってきたフランシスコ・ザビエルがコスメ・デ・トーレス神父、フェルナンデス修道士と共に、日本の教会のベースを築いた話から始まりました。そして、その後の迫害、長崎や京都、江戸で起こった殉教、1644年に最後の司祭小西マンショが殉教した後、約220年間神父がいない時代を経て、1865年に信徒発見となったことなどにふれられました。さらに1867年からも3400名もの信徒が22の藩に流されて迫害を受けたとのこと、日本の教会の歴史は多くの信徒にとって犠牲を伴うものであったが、殉教者や証し人によっていろいろな種がまかれてきたとのお話でした。

山内神父様の出身地、長崎県松浦市の紹介を含め、上記の歴史や山内神父様のご先祖を遡った歴史、禁教令が敷かれ踏み絵を強要されていた時代、生きて信仰を持ち続けるためにこれをどう乗り切っていったか、というお話など数多興味深い内容でした。

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​聖体賛美式

待降節黙想会・聖体賛美式
2025年11月29日(土)
​講師 ヘスス・ラモス神父様
属人区オプス・デイ
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 待降節には一番近くに神様が来られます。神様が人となって来られる、その準備をしてください。羊飼いがベツレヘムへ行ったように、私たちも 「行く・待つ・行く」 です。どれほど神は世を愛されたか。自分の子を送ったんです。人間は神様から別れてしまった。どうして神様はそんな人間を愛するか。本当に不思議です。ヘブライ書2章は、神がキリストを「天使よりもわずかの間低いものとされた」が、苦しみによって 「栄光の冠」 を授けられたと書いています。キリストは神でありながら人となり、天使より低い者にまでへりくだりました。受肉の神秘とは、御言葉が人となられたことであり、骨と血を持つ人間となったという驚くべき出来事です。


 聖ホセマリア・エスクリバーは 「イエスは一人の人間として生活しながら、日々の平凡な出来事に神的な意味があることを示しておられます」 と語りました。キリストの隠れた30年の生活は、新聞にも載らず誰にも気づかれませんでしたが、それによって私たちの日常は照らされ、日常生活の本当の意味が明らかにされます。家事、仕事、勉強、娯楽など、すべての活動は神との出会いです。


 教皇ヨハネ・パウロⅡ世の使徒的勧告 『信徒の召し出しと使命』 は、信徒の生活の位置が何よりも重要であることを強調しました。日々の職業や家庭生活の中で聖性を追求するよう求めました。仕事、家族、趣味、旅行など、すべてが神に仕えることになっているでしょうか。病気になった時、家族が病気になったときは、それが神に近づける機会となっているでしょうか。育児の苦労も神様への道となります。


 「祈りの生活」 と 「普通の生活」。二つの生活があります。避けなければならないのは信仰と生活の分離、二重生活の危険です。週末だけ教会に行って、あとは普通の人として送るでしょう。もちろん皆信者は普通の人です。けれども同時に信仰を持っている。キリストにつながっている。キリストがそういう意味では普通の人間です。キリストが公の生活を始める前、ナザレでマリアとヨセフと一緒に住んだとき、キリストが祈られたんですね。だから信仰と生活の分離を避ける必要がある。信徒の生活において二つの並行する生活はありません。信徒は福音と生活の分離を自分の中で克服し、福音の力を通じて生活の統合的なアプローチに戻る必要があります。

 どうやって? 例えば何かを始めるときには、何か神様のためにしたい、助けてください、と祈る。始めるとき、終わるとき、区切りがあるときには、場合によって神様を考えるんです。キリストはぶどうの木、信者はその枝です。ぶどうの木に接ぎ木された信徒は、存在と生活のあらゆる領域において実を結ばなければならない。神の御心に従って務めを果たすことを通して、キリストとの一致の中で成長していくものです。すばらしい務め、この意識を持っていればいいんです。

 最も大事な点は、自分が神の子であるということです。神の子であるという感覚はキリスト者としての存在の根拠となっています。だから働くときに、神の子であるという意識が生活の中心ですね。人生のあらゆる側面を一つの目的に向かって調和させ、生活の統一を実現すること。そのためにはまず自分が神の子であるというゆるぎない確信が必要です。
 

 神の子が人となりました。それは人間が神の子になるためであり、働いているのは神の子、祈るのも神の子。それが、教皇フランシスコの 「喜びに喜べ」 というお言葉の意味だと思います。​

ヘスス・ラモス神父様のプロフィール
1959年生まれ、スペイン出身、
1991年来日、属人区オプス・デイ所属

四旬節黙想会・聖体賛美式
2025年3月8日(土)
​講師 竹内修一(おさむ)神父様
イエズス修道会
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テーマ「変容の時としての四旬節」より

 *神秘に満ちた苦しみの価値

 皆さんご存知のように、教皇フランシスコの具合が、あまり良くありません。ですから今日は、まず初めにご一緒に祈りを捧げたいと思います。「病人のための祈り」の冒頭に、次のような言葉があります。「神よ、御ひとり子はすべて人の弱さと貧しさをご自分の肩に背負われ、神秘に満ちた苦しみの価値を、私たちに示してくださいました。」 苦しみは神秘に満ちている、と語られます。私たちは、日々の生活の中で、様々な困難や苦しみを経験します。なぜこのようなことが自分(たち)に起きるのだろうか、と悩んだり戸惑ったりします。たとえそれが自然災害であっても、事故であっても、また病気であってもです。どうしてそういったことが自分(たち)に与えられるのか、わからないのです。できればそのような困難や苦しみは、避けたい。それは、人間の自然的感情からすれば、極めてあたりまえのことです。
しかし、これが現実です。人間の思いや理性だけでは説明できないこと――、それが神秘なのかもしれません。このような困難や苦しみは、しかし、決して何らかの罰が当たったから起きた、といったことではありません。私たちは、真摯な心でその背後にある隠された意味を学ばなければなりません。それは決して簡単なことではないでしょう。しかしそれを謙虚な心で受け容れ、そこから何かを学ぼうとすることが大切です。これはある意味で、「苦しみからの招き」 と言ってもいいかもしれません。

 *神の憐れみとは

 先日の灰の水曜日をもって、四旬節が始まりました。その日のミサでは、次のような入祭唱が唱えられました。
「神よ、あなたはすべてのものを憐れみ、/お造りになったものを一つも嫌われることはない。あなたは人の罪を見逃し、/回心する人を赦してくださる。まことにあなたは私たちの神」(知恵11:23-24、26参照)。たいへんきれいな言葉だと思います。
かつて、ミサのあわれみの賛歌では、次のように語られました。「主よ、あわれみたまえ。キリスト、あわれみたまえ。」
現在では、「主よ、いつくしみを。キリスト、いつくしみを」 となっています。このように、「あわれみ」 という言葉が使われることは、少なくなりました。もしかしたらそれは、人によっては、「あわれみ」 という言葉に、どこか上から目線の印象を受けるからでしょうか。しかし、聖書で語られる 「憐れむ」 という言葉の真の意味を確認し理解することは大切です。
 
新約聖書において、「憐れに思う」(スプランクニゾマイ)という言葉は、「はらわた」(スプランクノン)という言葉に由来します。その意味は、「はらわたがよじれる」(くらいに悲しみ苦しむ)ということです。(日本語の「断腸の思い」に近いでしょうか)。新約聖書において、この言葉は、単なる感情のレベルでの同情や憐れみを越えた、もっと深いレベルでの人間の愛(かな)しみに触れるものです。ちなみにこの言葉は、新約聖書において12回現れます。そのうち、イエスがこの言葉の主語になる場合が9回、その他は、たとえ話の中で語られます(寛大な主君、善いサマリア人、そして放蕩息子の父)。しかしこれらの人々は、おそらく神であろうと推測されます。
つまりこの言葉は、人間が主語となって使われることはないのです。

 *イエスの姿へと変えられて 
 回心とは、自分の生き方の単なる軌道修正ではなく、根本的な転回です。いわば、180度の方向転換です。その先にあるのは、いのちそのものです。ですから、いのちそのものである神は、どんな人の死であっても望まないのです。イエスは、まさにそのことを、生涯をかけて示してくれました。どんな人であっても、神に愛されているからこそ、この世に生を受け存在し生きる意義があるのです。しかしこのことは、決して人間的な理解だけでは腑に落ちないでしょう。
 
真の理解に招かれるために求められること――それは、謙虚な心でありそれを願い求める祈りです。人間は、このことなしに、自分自身を受け入れることも、さらには他人を受け入れることもできないでしょう。神を愛することと隣人を愛すること――これらは、端的に同じことではありませんが、この世にあっては分かつことはできません。隣人を愛することなしに、神を愛することはあり得ないのです(マタイ22:34-40、他参照)。隣人とは、自分にとって近い人あるいは親しい人に限られるわけではありません。むしろ、苦手の人の方が多いかもしれません。聖書の語る愛は、単なる感情ではありません。ですからパウロは、こう語ります――「愛は忍耐強い」(1コリント13:4)。神は愛であり(1ヨハネ4:8、16)忍耐そのもの、そのような方です。                                 
 
 2011年3月11日に起きた、東日本大震災。2024年1月1日の能登半島地震。

さらに輪をかけるように発生した、2024年9月21日から23日にかけての能登半島で豪雨災害、そして2025年2月26日の大船渡市山林火災。このような現実を、神は、いったいどのような心と眼でご覧になっているのでしょうか。その神の心や眼差しを、私たちは、冷静に思い巡らし理解しなければなりません。それを可能とするもの――それが、謙虚な心から生まれる素朴な祈りです。
 ヘブライ人にとって、祈りは、賛美と感謝から始まると言われます。私たちは、イエスの姿へといっそう似たものとなればなるほど、この祈りの深みへと招かれて行くでしょう。

 

​竹内神父様 推敲文より

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​聖体賛美式

​竹内修一神父様のプロフィール

1958年生まれ。上智大学文学部哲学科卒業。同大学院哲学研究科修士課程修了。同大学神学部卒業。ウェストン・イエズス会神学大学院にて神学修士号取得。バークレー・イエズス会神学大学院にて神学博士号取得。現在、上智大学神学部神学科教授。専門は、倫理神学。著書に『風のなごり』(教友社、2004年)、『ことばの風景――福音の招きとその実り』(教友社、2007年)『J.H.ニューマンの現代性を探る』(共著、南窓社、2005年)、『教会と学校での宗教教育再考――〈新しい教え〉を求めて』(共著、オリエンス宗教研究所、2009年)、『宗教的共生の思想』(共著、教友社、2012年)、『宗教的共生の展開』(共著、‎教友社、2013年)、『宗教的共生と科学』(共著、教友社、2014年)、『【徹底比較】仏教とキリスト教』(共著、大法輪閣、2016年)、『「いのち」の力――教皇フランシスコのメッセージ』(共著、キリスト新聞社、2021年)など。

『いのちと性の物語』竹内修一著.jpg

『いのちと性の物語』
​―人格的存在としての
​      人間の倫理―

​竹内修一著
春秋社刊 2023年9月15日

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