2026年8月16日 年間第20主日
更新日:8月15日
年間第20主日 みことばのメッセージ「境界を越えていく神の憐れみ」
皆さん、私たちの生活の中には、さまざまな境界線があります。国と国との間には国境があります。社会には法律があり、してよいこととしてはならないことの境界があります。人間関係においても、互いの人格や生活を守るために、適切な距離や資格が必要です。
境界線そのものが悪いわけではありません。しかし、その境界線が、自分を守るためではなく、他者を見下し、排除し、自分たちの優越性を主張するために使われるとき、境界線は壁となります。壁は人を隔て、疑いを生み、ついには敵意を育てます。
今日のみことばは、そのような人間の造った壁を、神の憐れみが越えていくことを示しています。
福音の初めに、イエスはティルスとシドンの地方へ行かれます。そこはイスラエルの外、異邦人の住む地域です。イエスご自身が、まず国境を越えています。当時のユダヤ人は、異邦人と接触することによって宗教的に汚れることを恐れていました。しかしイエスは、異なる民族、異なる文化、異なる宗教を持つ人々の土地へ入ることを恐れません。
そこに、一人のカナンの女性が現れます。彼女は叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」
この女性もまた、一つの境界線を越えています。彼女は異邦人でありながら、ユダヤ人のメシアを表す「ダビデの子」という称号を用いて、イエスに近づきます。娘を救いたいという母親の愛が、民族と宗教の壁を越えさせたのです。
ところがイエスは、一言もお答えになりません。私たちは、このイエスの沈黙に戸惑います。
助けを求めている人に、なぜ答えないのか。苦しんでいる母親に、なぜすぐ憐れみを示さないのか。
弟子たちもイエスに近づいて言います。「この女の願いを聞き入れてください。後ろから叫びながらついて来ます。」しかし、弟子たちが本当に女性を憐れんでいたのかというと、そうではなかったようです。むしろ、叫び続ける彼女を煩わしく感じ、早く追い払ってほしいと思っていました。これはある意味でキリストに救いを求める人にとっては酷な話ですが、イエスの心は、彼女がこの高い壁を乗り越える本物の信仰があるかどうかを見ているのです。
弟子たちにとって、この女性は、まず苦しんでいる母親ではなく、自分たちを困らせる異邦人でした。ここに、私たち自身の姿もあります。苦しんでいる人を見たとき、その人の苦しみを理解するよりも先に、「面倒な人だ」「これ以上関わりたくない」「自分たちの秩序を乱さないでほしい」と思うことがあります。
人は、自分と同じ文化、同じ考え方、同じ生活習慣を持つ人には安心します。しかし、自分と違う人に対しては、無意識のうちに壁を造ります。
イエスは言われます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」
さらに、女性がひれ伏して、「主よ、どうかお助けください」と願うと、イエスは言われます。「子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない。」
これは大変厳しい言葉です。当時、「犬」という言葉は、ユダヤ人が異邦人を軽蔑して呼ぶために用いることがありました。
しかし、この福音を最後まで読むと、イエスの意図が見えてきます。イエスは、弟子たちを含む当時の人々が抱いていた排他的な考え方を、あえて表面に引き出しておられるのではないでしょうか。自分たちは神の子ども(神の約束の民)であり、侮蔑的に「犬」と呼ばれた異邦人は食卓の外にいる。このような考え方が、どれほど人を傷つけ、神の憐れみを狭めるものであるかを、イエスは弟子たちに悟らせようとしておられます。
同時に、イエスは「犬」ではなく、「小犬」という言葉を使われます。そこに、わずかな隙間が生まれます。彼女は、その小さな隙間を見逃しません。
「主よ、おっしゃるとおりです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
この女性は、イエスに決して反抗していません。自分には当然の権利があるとも主張しません。しかし、神の憐れみをあきらめることもしません。
子どもたちのパンを奪おうとはしていない。しかし、食卓から落ちるパンくずだけでもよい。どんな小さなパンくずでも、それが仮に汚れたパンくずでもよい。神の恵みは、ほんのわずかであっても、娘を救うためには十分である。彼女は、そのように信じたのです。
そこでイエスは言われます。「婦人よ、あなたの信仰は実に立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
そして、その時、娘はいやされました。
この物語で、誰が真の信仰者として示されているでしょうか。弟子たちではありません。
律法をよく知る人々でもありません。異邦人であるカナンの女性です。
彼女は、自分には誇るべきものがないことを知っていました。しかし、イエスのうちにある神の憐れみは、民族や宗教の壁を越えるほど大きいと信じました。
信仰とは、自分には救われる資格があると主張することではありません。自分には何の功績もないと知りながら、それでも神の慈しみを信頼することです。
第一朗読でイザヤは、外国人について語ります。「わたしは彼らを聖なる山に導き、わたしの祈りの家で喜ばせる。」
そして主は言われます。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」
神の家では、誰も外国人ではありません。
神がイスラエルを選ばれたのは、他の民を排除するためではなく、イスラエルを通して、すべての民に祝福を与えるためでした。神から選ばれるということは、特権を独占することではありません。受けた恵みを他者に分かち合う責任を与えられることです。
これは教会にも当てはまります。私たちが洗礼を受け、福音を知り、秘跡にあずかっているのは、教会の外にいる人を見下すためではありません。
神の愛がすべての人に開かれていることを、生活によって証しするためです。
第二朗読でパウロは言います。「神の賜物と招きとは、取り消されることがありません。」
そして、「神はすべての人を不従順の中に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためなのです。」
ここで大切なのは、「すべての人」という言葉です。異邦人もユダヤ人も、信仰のある人もない人も、神に近いと思われている人も、遠いと思われている人も、皆、神の憐れみを必要としています。誰も、自分の正しさによって救われるのではありません。
私たちは皆、神の憐れみによって救われます。教会もまた、自分を守るための閉ざされた場所になってはなりません。自分たちの確実さ、伝統、既得権の中に安住し、異なる人を遠ざけるなら、教会は「すべての民の祈りの家」ではなくなります。
もちろん、すべての境界線を無責任になくせばよいのではありません。信仰の内容を曖昧にし、何でも同じだと考えることでもありません。
しかし、信仰を守ることと、人を排除することは同じではありません。真理に忠実であることと、他者に対して冷たくなることも同じではありません。むしろ、キリストに深く根を下ろしているからこそ、私たちは恐れずに他者と出会い、対話し、愛することができます。
今日、私たちの周りには、さまざまな境界線があります。国籍、言葉、文化、世代、社会的な立場、信仰歴、考え方の違い。私たちはその境界線を見て、「こちら側」と「あちら側」に人を分けてはいないでしょうか。
教会に慣れていない人、言葉が十分に通じない人、生活に問題を抱えている人、何度も助けを求める人を、弟子たちのように「煩わしい人」と見てはいないでしょうか。
今日語られている福音は、すべての人を包む神の愛の抱擁です。イエスは、私たちが築いた壁の向こう側にもおられます。そして時には、私たちが信仰から遠いと思っている人の中に、私たち以上に深い信頼を見いだされます。
カナンの女性のように、私たちも祈りましょう。「主よ、どうかお助けください。」
自分の功績ではなく、神の憐れみに信頼することができますように。そして、キリストがすべての壁を越えて私たちを受け入れてくださったように、私たちも心の壁を越え、出会う人々を受け入れることができますように。私たちの教会が、本当に「すべての民の祈りの家」となりますように。
第一朗読 イザヤの預言 56章1、6-7
第二朗読 ローマの教会への手紙 11章13-15、29-32
福音朗読 マタイによる福音 15章21-28
A年 年間第20主日 説教「あなたの信仰は立派だ」
今日の福音には、一人のカナンの女性が登場します。彼女はイスラエルの民ではありません。ユダヤ人から見れば、宗教も文化も異なる外国人です。その女性がイエスの後を追いながら、必死に叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」これは、娘を救いたいと願う母親の叫びです。
ところがイエスは、一言もお答えになりません。さらに弟子たちは、彼女を助けようとするのではなく、イエスに言います。「この女を追い払ってください。後ろから叫びながらついて来ます。」彼らにとって、この女性はまず、苦しんでいる人ではなく、自分たちを困らせる外国人でした。その叫びが迷惑だったのです。救いを求める人にとって時にこのような高い壁が与えられることをこのエピソードは私たちに教えています。
ここには、弟子たちだけでなく、私たち自身の姿も映し出されています。人は、自分と同じ民族、文化、考え方、生活習慣を持つ人には親しみを感じます。しかし、自分とは違う人に対しては、無意識のうちに距離を置きます。善い人と悪い人、清い人と汚れた人、信仰のある人と信仰のない人、教会の内にいる人と外にいる人。そのように人を分け、自分の側に境界線を引こうとする傾向が、私たちの心にはあります。
第一朗読のイザヤの時代、イスラエルの民も、民族的、宗教的なアイデンティティーを失うことを恐れ、外国人を遠ざけていました。しかし預言者イザヤは、神の言葉を告げます。
「わたしは彼らを聖なる山に導き、わたしの祈りの家で喜ばせる。わたしの神殿は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」神の家では、誰も外国人ではありません。神の前では、民族や国籍、社会的な立場によって、人間の価値が決まるのではありません。すべての人が唯一の神によって造られ、神から招かれているからです。
しかし今日の福音で、イエスはカナンの女性に、さらに厳しい言葉を語られます。「子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない。」現代の私たちが聞いても、驚くほど厳しい言葉です。当時、異邦人を「犬」と呼ぶことは、強い侮辱を意味していました。
なぜイエスは、このような言葉を使われたのでしょうか。
この場面では、当時のユダヤ人が外国人に対して抱いていた排他的な考え方が、そのまま表面に現れています。そして、その厳しい言葉を通して、弟子たちの心に潜んでいた差別意識が明るみに出されます。弟子たちは、カナンの女性を信仰のない異邦人だと考えていました。自分たちこそ神に選ばれた民であり、救いに近い者だと思っていました。
ところが、物語の結末で、すべてが逆転します。
女性はイエスの厳しい言葉を受けても、立ち去りません。「主よ、おっしゃるとおりです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」彼女は、自分には当然の権利があるとは主張しません。しかし、神の憐れみをあきらめることもしません。自分には何の功績もない。けれども、神の恵みは豊かである。食卓から落ちるわずかなパンくずだけでも、娘を救うには十分である。彼女はそのように信じたのです。
そこでイエスは言われます。「婦人よ、あなたの信仰は実に立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
福音書の中で、これほど明確に信仰を称賛された人は多くありません。しかも、その言葉を受けたのは、選ばれた民に属する男性でも、律法学者でも、弟子でもありません。異邦人の女性でした。
弟子たちは、自分たちを神に近い者と考え、この女性を遠い者と考えていました。しかし実際には、彼女の方がイエスに近づき、その言葉に信頼し、救いを受けました。私たちは、自分が神に近い者だと思い込んではなりません。
洗礼を受けているから、長く教会に通っているから、教会についてよく知っているからといって、それだけで信仰が深いとは限りません。反対に、教会の外にいるように見える人、信仰について何も知らないように見える人の中に、私たちよりも深い誠実さ、謙遜、神への渇きがあるかもしれません。
イエスは別の箇所で言われました。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入る。」自分には誇るべきものがないと知る人は、神の憐れみに自分を委ねます。しかし、自分は清い、自分は正しい、自分は神に近いと思っている人は、神の恵みを必要としていることに気づかなくなります。
第二朗読でパウロは言います。「神はすべての人を不従順の中に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためなのです。」
神の前では、誰も自分の正しさを誇ることはできません。私たちは皆、神の憐れみによって救われる者です。教会は、清い人だけを集めた場所ではありません。罪がなく、信仰の完成した人だけの共同体でもありません。教会とは、自分が神の憐れみを必要としていると知る者たちが集まり、共にキリストに近づいていく場所です。私たちが、外国人、考え方の異なる人、生活に問題を抱えている人、何度も助けを求めてくる人を見て、「あの人は私たちとは違う」と考えるなら、今日の弟子たちと同じです。遠くの国の人々を愛すると言うのは簡単です。しかし本当に難しいのは、すぐ近くにいる、少し面倒な人を受け入れることです。
今日、私たちに求められているのは、自分の正しさを守ることではなく、神の憐れみの広さを証しすることです。カナンの女性は、異邦人でありながら、真の信仰者の模範となりました。彼女は、自分には何の功績もないことを知っていました。しかし、キリストの言葉には人を救う力があると信じ、願い続けました。そして恵みを受けました。
私たちも彼女のように祈りましょう。「主よ、どうかお助けください。」
自分の力や功績を誇るのではなく、神の憐れみに信頼することができますように。
そして、神が私たちを憐れんでくださったように、私たちも、出会うすべての人に心を開くことができますように。神の家が、言葉だけではなく、本当に「すべての民の祈りの家」となりますように。
