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2026年10月25日 年間第30主日

10月19日
読了時間: 9分

更新日:10月24日

A年   第30主日 みことばのメッセージ


みことばのメッセージ

今日の聖書朗読の中心にあるのは、「愛」です。しかし今日語られる愛は、単なる優しい気持ちや好意、感傷的なものではありません。むしろ、神との関係、隣人との関係、そして私たちの生き方全体を一つにまとめる根本原理としての愛です。

今日の福音で、律法の専門家がイエスに尋ねます。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

当時、モーセの律法には613もの掟があると数えられていました。その中でどれが一番大切なのか。これは簡単な問いではありません。

しかしイエスは迷わず答えます。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そして、尋ねられていないにもかかわらず、もう一つの掟を加えます。「隣人を自分のように愛しなさい。」

そして言われます。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている・かかっている。」

ここには、イエスの教えの大切な特徴があります。

普通なら、最も重要な掟として十戒の中から一つを選んでも不思議ではありません。十戒は神ご自身が民に与えられた、非常に重要な掟だからです。

しかしイエスは、十戒の一つを選ばれませんでした。なぜでしょうか。十戒の多くは、「してはならない」という形で示されています。殺してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。もちろん、これらは非常に大切です。神とともに生きるためには、越えてはならない境界があります。

けれども、境界を越えないだけでは、人生は前には進みません。「悪いことをしなかった。」

「人に迷惑をかけなかった。」「掟には違反しなかった。」それだけで、キリスト者として十分なのでしょうか。実際、迷惑をかけない人間などおらず、何かしら悪と言える行いをしてしまうのが人間の性です。だから主の慈しみと愛に基づくゆるしが必要なのだと思います。

それゆえイエスが私たちに示されるのは積極的な道です。消極的な道「〜をしてはならない」ということ自体に意味がないわけではありません。しかし今日イエスがそしてみことばが今日罪に弱い私たちにあえて促すのは、より積極的に「愛する」ということです。

愛には限界がありません。「ここまで愛せば十分」という線を引くことができません。

だからイエスは言われます。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、神を愛しなさい。」

しかし、いったい誰が、「私は神を完全に愛しています」と言えるでしょうか。私たちは皆、この理想には届きません。

また、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われます。

これも簡単ではありません。私たちは自分のことなら一生懸命考えます。自分の健康、自分の予定、自分の将来、自分の評価。しかし隣人について、自分と同じほど真剣に考えることができるでしょうか。さらにイエスは別のところで、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とまで言われました。

つまり、愛の基準は、最終的には私たち自身の善良さや正しさではなく、イエスの愛なのです。そしてイエスが示された愛とは、ご自分の命を与える愛でした。誰をも憎まず、裁かず、柔和で謙遜を徹底して生き隣人と共に歩む生き方そのものです。

だから、この福音を聞くとき、私たちは少し途方に暮れるかもしれません。「そんな愛し方は、自分にはできない。」その通りです。私たちの力だけではできません。だからこそ、私たちは神の恵みを必要とします。そしてその愛を私たちは自分自身に向けられた恩恵として深く心に刻む必要があるのです。なぜなら愛された確信がなければその愛を他者に渡すことなどできないからです。

今日の福音の大切なところは、単に「もっと頑張って人を愛しなさい」という道徳的な教えではありません。キリストは、まず先にご自分の愛を私たちに与えてくださるのです。

特に聖体において、私たちはキリストを受けます。聖体は、キリストが私たちのためにご自分を完全に与えられた、その愛のしるしです。ですから聖体をいただくということは、単に恵みを自分のために受けるということではありません。キリストの愛を受け、その愛によって生きる者になるということです。

第一朗読も、その愛が具体的なものであることを教えています。「寄留者を虐げてはならない。」「寡婦や孤児を苦しめてはならない。」「貧しい者に金を貸すとき、利息を取ってはならない。」「貧しい人の上着を担保に取ったなら、夜までには返しなさい。」つまり、聖書のいう愛は、気持ちだけではありません。困っている人に気づくこと。弱い立場の人を守ること。

相手の必要を考えること。積極的に具体的に手を差し伸べることです。

そして第二朗読のパウロは、テサロニケの信徒たちの善いところを見つけ、それをほめています。これも愛の一つの形です。

私たちは、他人の欠点にはすぐ気づきます。しかし善いところを見つけ、それを言葉にして励ますこと、過ちをゆるすこと、慰めることは意外に少ないものです。「ありがとう。」「よく頑張っていますね。」「あなたのしていることに助けられています。」「もういいよ。」そんな一言が、人を支えることがあります。

愛とは、特別なことばかりではありません。今日出会う人を少し大切にすること。困っている人に気づくこと。人の善いところを認めること。ゆるすこと。支えること。理解すること。その一つ一つの中に、神への愛と隣人への愛が形を取っていきます。

「主を愛しなさい。」「隣人を愛しなさい。」「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」これは簡単な道ではありません。しかし、私たちが造られた目的そのものでもあります。

私たちは、神の愛において愛するために造られました。そしてキリストは、今日も聖体においてご自分を私たちに与え、私たちのうちに愛する力を与えてくださいます。

今日一日、ただ「悪いことをしない」「悪魔に隙を与えていない」という否定的な道ではなく、「私は誰を愛することができるだろうか」と問いながら歩んでいきたいと思います。


第一朗読 出エジプト記 22章20-26

第二朗読 テサロニケの教会への手紙〈一〉 1章5c-10

福音朗読 マタイによる福音 22章34-40


A年   第30主日 説教案


今日の福音で、一人の律法の専門家がイエスに尋ねます。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」当時のユダヤ教には、613もの掟があると考えられていました。そこで当然、「この多くの掟を一つにまとめるとしたら、何になるのか」という問いが生まれます。

イエスは答えます。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そして続けて、「隣人を自分のように愛しなさい。」この答えそのものは、まったく聞いたことのない言葉ではありませんでした。神を愛することも、隣人を愛することも、旧約聖書にすでに書かれています。

しかしイエスの新しさは、この二つをほとんど一つの掟として結び合わせたことにあります。神を愛することと、人を愛することは、別々の道ではない。

神を愛する人は、人を愛するようになる。そして人を本当に愛することの中で、神への愛が具体的な形を取っていくのです。ただし今日、もう一つ大切なことを忘れてはいけません。

それは、私たちがまず愛するのではない、ということです。私たちは、愛するよう命じられる前に、すでに神から愛されています。

パウロは言います。「神の愛が、聖霊によって、わたしたちの心に注がれている。」

ここがキリスト教の愛の出発点です。「もっと人を愛しなさい」「もっと親切にしなさい」「もっと犠牲を払いなさい」。それだけなら、信仰は次第に重い宗教的義務になります。

しかし福音は、まず「あなたは愛されている」と告げます。

あなたが立派だからではない。十分に祈ったからでもない。失敗しなかったからでもない。悪魔や罪の業に警戒していたからでもありません。神が先にあなたを愛された。その愛を受けた人が、今度は他の人を愛する者へと変えられていく。

ですから、キリスト者の愛とは、自分の力だけで頑張ってつくり出すものではありません。聖霊が私たちの内に働き、心を開いて神の愛を少しずつ他者へと流していくものなのです。

今日の第二朗読のテサロニケの人々は、そのよい例です。彼らは福音を受け入れました。しかし、その結果、すぐにすべてがうまくいったわけではありません。彼らは「大きな苦難」の中にありました。それでも、聖霊による喜びを失わなかった。そして最初は使徒たちに「倣う者」であった彼らが、やがて他の信者たちの「模範」となっていきました。

ここに信仰の成長があります。最初は誰かに支えられる。誰かの信仰を見る。誰かの優しさや愛情に助けられる。誰かの祈りに励まされる。しかし、いつか自分自身が、別の人を支える者となる。「倣う者」が「模範」になるのです。しかも彼らは、自分たちが偉大なことをしているとは思っていなかったでしょう。けれども、その生き方によって福音が広がった。

とても印象的な言葉があります。

善もまた、悪と同じように伝染する。私たちは、悪い噂や怒り、不満が人から人へ広がっていくことをよく知っています。しかし愛や喜びも広がるのです。ただこの世界では悪や罪の伝播の方が早いようにも思えます。とはいえ、一人の人の優しい言葉が、別の人を変える。一人の人の赦しが、共同体の空気を変える。一人の人の静かな奉仕が、誰かに「自分もやってみよう」と思わせる。

愛には、人を変えていく力があります。新たな生き生きとした力を与えていくのです。だからイエスは、神への愛、信心だけに閉じこもる信仰を求めておられません。神だけを愛しているつもりで、人に無関心になるなら、それは空しい信心に変わってしまいます。そこには創造的な力、活力は出てきません。他者を裁いたり、差別したり、評価したり、、、その先に待っているのは悲しく暗い、疲れ果て、希望を見失う厳しい現実だけです。そうして神とのつながりを失って、人間の力だけで善いことを続けようとしても、私たちはいつか疲れてしまう。

だからこそ、イエスは二つを一つにされたのです。神を愛する。そして隣人を愛する。

しかし、その二つの前にあるものがあります。神が、まず私たちを愛してくださった。

ここからすべてが始まります。今日、私たちがまずすべきことは、「もっと愛さなければ」と力むことではないのかもしれません。まず、自分が神から愛されていることを、もう一度受け取ることです。そして、その愛を自分の中だけにとどめない。

家庭で、職場で、教会で、今日出会う誰かに、少しだけ渡していく。

そうすれば、私たちもまた、誰かにとって福音の「模範」となることができます。

愛された者が、愛する者となる。そしてその愛が、さらに次の人へ伝わっていく。

それこそが、イエスの教えられた愛の道なのです。この道を進んでいこうではありませんか。




 
 
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