2026年7月12日 年間第15主日
- 7月8日
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更新日:7月11日
年間第15主日 説教案
今日の福音は、マタイ福音書13章の「種をまく人」のたとえです。この13章の「たとえによる説教」は、「山上の説教」、「宣教についての説教」に続く、マタイ福音書全体を支える大きな柱の一つです。
マタイはこの箇所を、よく考えられた構成でまとめています。まず「種をまく人」のたとえがあり、次に、なぜイエスがたとえで語られるのかが説明され、さらにそのたとえの解釈が続きます。その後、「毒麦のたとえ」においても、同じように、たとえ、たとえの目的、たとえの説明が続きます。
今日、特に大切なのは、イエスがなぜたとえで語られるのかという点です。イエスは預言者イザヤの言葉を引用されます。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。」
これは、神が人々にわざと分からないようにしている、という意味ではありません。問題は、聞く側の心にあります。たとえが群衆には不明瞭なまま残るのは、彼らに神の言葉を受け入れる備え、頭と心の柔らかさ、心と良心の開きが欠けているからです。
だから今日の福音で中心となるのは、「聞いて理解する」ということです。聖書において「理解する」とは、単に頭で分かることではありません。神の言葉に心を開き、その言葉に同意し、その言葉に従って生きることです。
だからイエスは弟子たちに言われます。「本当に幸いなのは、ただ見た人、ただ聞いた人ではなく、見たもの、聞いたものを心で受け入れる人です。
この心の開き柔和さ、謙遜さをもって、私たちは「種をまく人」のたとえを理解することができます。
イエスは、自然や日常の労働からたとえを取られます。難しい哲学や思想、宗教実践を語るのではありません。空の鳥、野の百合、太陽と雨、雲、無花果の木、ぶどうの木、魚、羊。イエスの言葉は、身近で素朴です。しかし、その中に神の国の深い神秘が示されています。
今日のたとえも、農夫の仕事から取られています。私たちの感覚では、道端や石地や茨の中にまで種をまくのは不思議に見えます。しかし、古代パレスチナでは、種をまいてから耕すことが一般的でした。どこにでもまずタネを巻くのです。そして耕すことによって、障害物を取り除き、種を土の中に埋めたのです。
ここから、たとえの第一の意味が見えてきます。たとえの中心は、まず人間の心の分類、人間の差別ではありません。たとえが最初に告げているのは、神の国の力です。
種は、さまざまな困難の中にもまかれています。道端、石地、茨。障害があり、悪い土地があり、雑草があります。しかし、それでも種が根づいたところでは、最後には豊かな実りが生じます。
これは、イエスの宣教そのものを表しています。イエスの言葉は、すぐにすべての人に受け入れられたわけではありません。反対も、誤解も、無理解、拒絶もありました。神の国の希望は、小さく、弱く見えました。しかし、それでも神の国は失敗しません。困難や障害にもかかわらず、最後には思いがけない豊かさと栄光のうちに現れるのです。
このことは、今日の第一朗読、イザヤ書の言葉と響き合います。雨や雪が天から降り、地を潤し、芽を出させ、実らせるように、神の言葉もむなしく神のもとに戻ることはありません。神の言葉は効力を持つ言葉です。乾いた土地を潤す雨のように、人間の心と世界を生かす力です。
一方、たとえの説明では、強調点が少し移ります。たとえそのものでは、種をまく人と種、つまり神の働きが中心でした。しかし説明では、人間の側、すなわち土地の状態が中心になります。
道端は、御言葉を聞いても理解しない人です。石だらけの土地は、御言葉を喜んで受け入れても根がなく、困難や迫害でつまずく人です。茨の中の土地は、御言葉を聞いても、世の思い煩いや富の誘惑にふさがれて実を結ばない人です。そして良い土地は、御言葉を聞いて理解する人です。その人は、百倍、六十倍、三十倍の実を結びます。
ここで問われているのは、私たちが御言葉にどう応えるかです。神の言葉は力ある言葉です。しかし、それを受け入れる心が閉ざされていれば、柔らかく耕さなければ実りは妨げられます。だから、聞いて理解する心、深く受け入れ成長させる心が必要です。それは、神の言葉に謙遜に同意し、愛をもって応え、生活の中で受け入れることです。
第二朗読でパウロは、被造物全体のうめきについて語ります。被造物は、神の子たちの現れを待ち望んでいます。自然も人類も、今なお苦しみ、うめいています。しかしそれは絶望のうめきではありません。新しい命が生まれるための、出産の苦しみです。
この希望は、今日の福音の希望と深く結びついています。種は小さく、成長はすぐには見えません。土地には石もあり、茨もあります。しかし、神の言葉はむなしく終わりません。神の国は、必ず実を結びます。被造物全体が待ち望む新しい世界は、神の力によって完成へ導かれます。
だから今日、私たちは二つのことを心に留めたいと思います。
第一に、神の言葉への信頼です。宣教の実りが小さく見える時でも、神の言葉は働いています。祈り、信仰、奉仕がすぐに結果を出さないように見えても、神はその中で種を育てておられます。
第二に、聞いて理解する心です。道端のようなかたくなさ、石地のような根の浅さ、茨のような思い煩いを、主に耕していただく必要があります。
今日、私たちは祈りましょう。
主よ、あなたの言葉を聞く耳を与えてください。
あなたの働きを見る目を与えてください。
あなたの言葉を理解し、受け入れ、愛をもって生きる心を与えてください。
神の言葉は、むなしく神のもとに戻ることはありません。
その言葉は、私たちの中で、教会の中で、世界の中で、必ず実を結びます。
第一朗読 イザヤの預言 55章10-11
第二朗読 ローマの教会への手紙 8章18-23
福音朗読 マタイによる福音 13章1-23、または13章1-9
A年 年間第15主日 みことばのメッセージ
皆さん、私たちは毎日の生活の中で、言葉というものをどれほど信頼しているでしょうか。
人間の言葉は、しばしば軽くなります。約束しても守られないことがあります。美しい言葉が語られても、実際には何も変わらないことがあります。だから私たちは、いつの間にか言葉よりも、署名された書類や証拠を求めるようになります。「言葉ではなく行動を」と言いたくなるのも当然です。
しかし、今日の聖書は私たちに問いかけます。
神の言葉も、人間の言葉と同じなのか。
答えは、はっきりしています。神の言葉は違います。神の言葉は、空しく終わる言葉ではありません。創世記では、「神は言われた。すると、そのようになった」と繰り返されます。神が語られると、存在しなかったものが存在し始めます。神の言葉は、ただ説明する言葉ではありません。出来事を生み出す言葉です。命を与える言葉です。告げたことを実現する言葉です。
第一朗読でイザヤは、その神の言葉を雨や雪にたとえます。
雨や雪は、天から降って、何もせずに天に戻ることはありません。地を潤し、種を芽生えさせ、実りをもたらし、人にパンを与えます。そのように、神の口から出る言葉も、むなしく神のもとへ戻ることはありません。神が望まれることを成し遂げ、神が遣わされた目的を必ず果たします。
この言葉は、バビロン捕囚の中にいたイスラエルの民に向けられた言葉でした。彼らは長い年月、異国の地で苦しんでいました。故郷に帰れる日は本当に来るのか。神の約束は本当に実現するのか。そう問いながら、疲れ果て、失望していました。
その民に向かって、預言者は言います。神の言葉は雨のように、雪のように働く。すぐには見えなくても、必ず地を潤し、命を芽生えさせる。
ここで大切なのは、神の言葉は多くの場合、すぐに結果を出すものではないということです。雨が降って、翌日にすぐ収穫できるわけではありません。種は土の中で時間をかけて芽を出します。人間の心も同じです。神の言葉は、私たちの反応、選択、決断、時には頑なさや弱さと向き合いながら、長い時間をかけて働きます。
だから、信仰とは、神の言葉の力を信じて待つことでもあります。
第二朗読でパウロは、被造物全体がうめいていると言います。世界には苦しみがあります。人間の罪と利己主義によって、創造は傷ついています。大地も、水も、空気も、植物も、動物も、人間の誤った選択の結果を受けています。私たち自身もまた、心の中でうめいています。
しかしパウロは、そのうめきを死にゆく者の叫びとは見ません。むしろ、産みの苦しみだと言います。つまり、そこには新しい命への希望があるのです。
これは大切な視点です。信仰は、現実の苦しみを見ないふりをすることではありません。世界の矛盾、人間の弱さ、教会の中の困難、私たち自身の罪を、なかったことにすることではありません。しかし信仰は、それらを最後の結論とは見ません。神の言葉が働いているかぎり、苦しみの中にも新しい創造への道があります。
そして福音で、イエスは「種を蒔く人」のたとえを語られます。
種を蒔く人が出て行きます。種は道端に落ち、鳥に食べられます。石だらけの所に落ち、すぐ芽を出しますが、根がないので枯れます。茨の中に落ち、ふさがれてしまいます。しかし、良い土地に落ちた種は、百倍、六十倍、三十倍の実を結びます。
このたとえでまず目につくのは、種の浪費です。農夫は、どう見ても効率の悪い蒔き方をしています。道端にも、石地にも、茨の中にも、惜しげもなく種を蒔いています。普通に考えれば、無駄です。もっと土地を選べばよいのに、と思います。
しかし、ここにイエスのメッセージがあります。
神は、最初から完全な土地だけを探しておられるのではありません。神は、不毛に見える土地にも、固く踏みしめられた土地にも、石だらけの土地にも、茨に覆われた土地にも、惜しみなく言葉の種を蒔かれます。
なぜなら、神の言葉そのものに命の力があるからです。
イエスがこのたとえを語られた時、ご自身の宣教は決して順調ではありませんでした。ナザレでは拒まれ、カファルナウムでも反対され、人々は必ずしもイエスの言葉を受け入れませんでした。弟子たちは思ったはずです。この働きに意味があるのか。神の国は本当に来るのか。これほど拒まれ、誤解され、妨げられているのに、福音は実を結ぶのか。
その弟子たちに、イエスはこのたとえを語られます。
確かに、多くの種は失われるように見える。多くの努力は無駄に見える。しかし、神の言葉は必ず実を結ぶ。思いがけないところで、思いがけない時に、豊かな実りが現れる。
これは、私たちにとっても大きな励ましです。
私たちも時々、考えます。今の時代に福音を語る意味があるのか。若い人は聞いてくれるのか。家庭の中で信仰を伝えることに意味があるのか。教会が小さくなり、社会が信仰に無関心になっている中で、神の言葉を蒔き続けることに意味があるのか。
あります。
なぜなら、力は私たちの言葉巧みさにあるのではなく、神の言葉そのものにあるからです。もちろん、私たちは分かりやすく語る努力をしなければなりません。イエスご自身がそうでした。難しい真理を、農夫や漁師や商人の日常に根ざした、誰にでも分かるたとえで語られました。説教者が難しい言葉や神秘的・霊的な言葉で人を煙に巻いて満足しているなら、それは福音的ではありません。神の言葉は、人の心に届く言葉として語られなければなりません。
しかし、最終的に実を結ばせるのは、私たちの技術ではありません。神の言葉の力です。
ただし、今日の福音は同時に、私たちの側の責任も示しています。種は同じです。蒔く人も同じです。しかし、実りは土地によって違います。
道端のような心があります。多くのものに踏み固められ、神の言葉が入り込む余地を失った心です。この世の考え方、流行の価値観、人間の評価ばかりを吸収してしまうと、福音の言葉は心に入れなくなります。
石地のような心もあります。聞いた瞬間は喜びます。しかし根がありません。少し困難が来ると、すぐに枯れてしまいます。信仰が感情だけにとどまり、深い決断になっていないとき、私たちはこの状態になります。
茨のある心もあります。神の言葉を聞いてはいます。しかし、この世の思い煩い、成功への欲、富への執着、さまざまな不安が、その言葉をふさいでしまいます。神の言葉が弱いのではありません。私たちの中で、他のものが大きくなりすぎているのです。
そして良い土地があります。神の言葉を聞き、受け入れ、心に守り、実行する心です。そこでは福音が実を結びます。
けれども、ここで注意しなければなりません。この四つの土地は、四種類の人間を分類しているのではありません。「あの人は道端」「あの人は石地」「私は良い土地」などと言うためのたとえではありません。そんな使い方をしたら、たとえの実りはゼロです。
この四つの土地は、私たち一人ひとりの中にあります。
私の中にも、固くなった部分があります。すぐに熱中して、すぐ冷める部分があります。思い煩いや欲によって、神の言葉をふさいでしまう部分があります。しかし同時に、私の中にも、神の言葉を受け入れる良い土地があります。
だから、絶望する必要はありません。
どれほど罪に固まった人の中にも、神の言葉を受け入れる肥沃な土地は存在しています。どれほど失敗を重ねた人の中にも、まだ福音の種が芽を出す場所があります。どれほど心が荒れているように見えても、神の言葉が届けば、そこに命が始まる可能性があります。
ですから、私たちは二つのことを心に留めたいと思います。
第一に、神の言葉を信頼することです。すぐに結果が見えなくても、神の言葉は空しく戻りません。雨や雪のように、静かに、深く、確実に働きます。
第二に、自分の心を耕すことです。神の言葉をただ聞き流すのではなく、受け入れ、心に守り、実行することです。聖書において「聞く」とは、単に情報を受け取ることではありません。神に信頼して、その言葉に自分を委ねることです。
今日、主はまた私たちの心に種を蒔いておられます。
その種は小さく見えるかもしれません。弱く見えるかもしれません。すぐには何も変わらないように見えるかもしれません。しかし、その種の中には、神の命があります。
私たちは、良い土地だけを自分の中に見つけようとして焦る必要はありません。むしろ、道端も、石も、茨もあるこの心を、そのまま主の前に差し出せばよいのです。そして願いましょう。
主よ、私の心を耕してください。固くなったところを砕いてください。浅いところに深さを与えてください。茨にふさがれたところを清めてください。あなたの言葉が、私の中で実を結びますように。
神の言葉は、決してむなしく終わりません。今日蒔かれた種も、必ずいつの日か、私たちの中に、教会の中に、この世界の中に、豊かな穂を実らせるのです。
