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2026年11月1日 年間第31主日

4 日前
読了時間: 12分

更新日:2 日前

年間第31週・諸聖人の祝日(2026年は主日と重なっています)


みことばのメッセージ


今日、私たちは諸聖人を祝います。

この祭日は、単に「昔の立派な聖人たち」を思い出す日ではありません。むしろ、私たち自身が何に招かれているのかを思い起こす日です。

今日のみことばは、聖性について三つの大切なことを教えています。

福音は、聖性とは何を生きることなのかを示します。

第一朗読は、誰が聖なる者となるのかを示します。

そして第二朗読は、なぜ私たちが聖性へと招かれているのかを示します。

その答えを先に言えば、私たちは聖なる神の子どもとしていただいたからです。

聖性とは、特別な人だけのものではありません。神との交わりに招かれているすべての人に開かれています。第二バチカン公会議が「教会における普遍的な聖性への召命」と呼んだのも、そのためです。聖フランシスコ・サレジオの言葉を借りるなら、「聖性は幻にあるのではなく、愛にある」のです。


今日の福音は、真福八端です。

「心の貧しい人々は幸いである。」「悲しむ人々は幸いである。」「柔和な人々は幸いである。」「義に飢え渇く人々は幸いである。」「憐れみ深い人々は幸いである。」「心の清い人々は幸いである。」「平和を実現する人々は幸いである。」「義のために迫害される人々は幸いである。」

この箇所は、マタイ福音書の山上の説教の冒頭に置かれています。いわば、イエスの教え全体の方向を決める言葉です。だからこそ真福八端は、しばしばキリスト教の「マグナ・カルタ」、つまり大憲章と呼ばれてきました。

国家にとって憲法が、すべての法律や制度を方向づける基準であるように、真福八端は、私たちがキリスト者として何を大切にして生きるのかを示す基本的な尺度なのです。

しかし、よく考えると、真福八端は非常に不思議な言葉です。

なぜ、貧しい人が幸いなのでしょうか。なぜ、悲しむ人が幸いなのでしょうか。なぜ、迫害される人が幸いなのでしょうか。普通の感覚からすれば、まったく逆です。

貧しさも、悲しみも、迫害も、誰も求めません。

それでは、イエスは人間の不幸そのものを祝福しているのでしょうか。もちろん、そうではありません。イエスは、貧困そのもの、苦しみそのものを良いと言っているのではありません。もしそうなら、苦しむ人々をそのまま放っておけばよいという話になってしまいます。

真福八端の意味は、そこにはありません。

大切なのは、人生のどのような状況にあっても、神に向かって生きるなら、人間は本当の幸福を失わないということです。

私たちは幸福を、外側の条件に求めがちです。健康であれば幸せ。お金があれば幸せ。仕事がうまくいけば幸せ。人から評価されれば幸せ。もちろん、それらは大切です。

しかし、それだけでは人間は幸せにはなれません。外側にはすべてがそろっていても、心の中が嫉妬や恐れ、怒り、不安でいっぱいなら、決して幸せではありません。

反対に、人生に困難を抱えながらも、神に信頼し、人を愛し、希望を失わない人には、外側の状況だけでは説明できない深い平安があります。

真福八端は、まず私たちの行動を変える前に、幸福についての考え方そのものを変えるように求めています。そして何より重要なのは、イエス自身が、この真福八端を生きているということです。イエスは、ご自分が生きていないことを人に要求されたのではありません。

心の貧しい方であり、柔和な方であり、憐れみに満ちた方であり、平和を作る方であり、

そして義のために迫害された方でした。イエスにおいて、語ることと、行うことと、存在そのものが一致しています。だから、真福八端とは単なる道徳の一覧ではありません。

真福八端とは、キリストご自身の姿なのです。

聖人とは、このキリストの姿を、自分の人生の中に少しずつ映し出していった人たちです。

それでは、そのような聖人は、ごくわずかしかいないのでしょうか。

第一朗読の『ヨハネの黙示録』は、まったく違う光景を示します。まず十四万四千人という数字が出てきます。これは、天国に入れる人数を限定した数字ではありません。十二部族の「十二」、十二使徒の「十二」、そして神的な大きさを表す「千」。この数字を掛け合わせて、神に属する民の大きさ、完全さを象徴しているのです。

そして、その後にはさらに、「誰にも数えきれないほどの大群衆」が現れます。

あらゆる国、民族、言葉の違う人々です。彼らは立っています。生きているからです。

白い衣を着ています。キリストの復活と新しい命にあずかっているからです。手にはしゅろの枝があります。悪に対する勝利のしるしです。この光景が教えていることは明確です。

聖性は、一部の特別な人の特権ではない。数えきれないほど多くの人が神に招かれているのです。しかし同時に、彼らについてこう言われます。「この者たちは、大きな苦難を通って来た者たちである。」

つまり、聖人たちは苦しみを免れた人たちではありません。病気もあった。失敗もあった。迫害もあった。人から理解されないこともあった。死も経験した。

けれども、そのすべての中で、神と小羊であるキリストから離れなかった。

だから彼らの人生は、苦しみや死によって無意味になったのではありません。

神に受け取られ、変容されたのです。ここに、私たちにとって大きな希望があります。

私たちの人生にも、説明のできない苦しみがあります。

なぜこんなことが起こるのか分からないことがあります。しかし信仰は、すべての苦しみに簡単な説明を与えるものではありません。信仰が告げるのは、苦しみも死も最後の言葉ではないということです。最後の言葉を持つのは神です。

そして第二朗読でヨハネは、その希望の根拠をこう語ります。

「御父がどれほど大きな愛をわたしたちに与えてくださったことか。わたしたちが神の子と呼ばれるほどであり、事実また、そのとおりです。」私たちは、立派になったから神の子になるのではありません。

すでに神の子とされているのです。まず神の愛が先にあります。神が私たちを愛し、呼び、子としてくださった。そこから聖性への歩みが始まります。だから聖性とは、自分の力だけで完全な人間になることではありません。

神からいただいた愛に応えることです。そしてヨハネは言います。「御子にこの希望を置いている者は、自分自身を清める。」ここに私たちの責任があります。

神の子という身分は恵みとして与えられています。

しかし、その恵みを毎日の生活の中で生きることは、私たちに委ねられています。

そのために必要なのが、回心です。回心というと、非常に大きな決断を想像するかもしれません。しかし実際には、多くの場合、小さな変化の積み重ねです。

昨日より少し人を赦す。少し自分の考えに固執しない。少し人の痛みに気づく。少し自分の時間を他の人のために使う。少し祈りの中で神の声を聞こうとする。

こうした小さな変化の中で、私たちは少しずつ神の子らしくなっていきます。

ですから、今日の諸聖人の祭日は、私たちを圧倒するための祭日ではありません。

「聖人はあんなに立派なのに、自分は全然だめだ」と落ち込む日でもありません。

むしろ、希望の日です。

あの数えきれない大群衆も、最初から完成していたわけではありません。

神の恵みを受け、失敗しながらも立ち上がり、真福八端の道を歩き続けた人たちです。

そして、その道は私たちにも開かれています。

聖人とは、別の種類の人間ではありません。神の愛を受け取り、その愛を自分の生活の中で少しずつ形にしていった人です。

今日も一つ、憐れみを選ぶ。柔和さを選ぶ。平和を選ぶ。神への信頼を選ぶ。その小さな選択の中に、聖性は始まります。諸聖人の取り次ぎを願いながら、私たちも神の子として、少しずつキリストの姿を映し出す者となれるよう願いたいと思います。


第一朗読 黙示録 7章2-4、9-14

第二朗読 ヨハネの手紙〈一〉 3章1-3

福音朗読 マタイによる福音 5章1-12a


説教案


今日、私たちは諸聖人を祝います。

聖人というと、私たちはすぐに、非常に特別な人、並外れた徳を持った人、あるいは教会によって列聖された人々を思い浮かべます。しかし、今日のみことばが示しているのは、聖性とはごく一部の人のための特別な道ではない、ということです。

第二バチカン公会議はすべてのキリスト者が聖なる者となるように招かれているのです。

では、なぜ私たちは聖なる者となるよう招かれているのでしょうか。

第二朗読でヨハネは、非常に明確に言います。「御父がどれほど大きな愛をわたしたちに与えてくださったことか。わたしたちが神の子と呼ばれるほどであり、事実また、そのとおりです。」ここに聖性の出発点があります。私たちは、努力して立派になった結果、神の子になるのではありません。まず神が私たちを愛し、神の子としてくださったのです。聖性とは、そのいただいた身分を生きることです。つまり、神が聖なる方だから、その子どもである私たちも、その神の姿を少しずつ映し出していくよう招かれているのです。

聖性とは、珍しい幻を見ることでも、特別な能力を持つことでもありません。聖フランシスコ・サレジオの言葉を借りれば、「聖性は幻にあるのではなく、愛にある」のです。

その愛の具体的な姿を示すのが、今日の福音の真福八端です。

真福八端は、マタイ福音書の山上の説教の冒頭に置かれています。ですから、これは単なるイエスの教えの一部分ではありません。いわばキリスト者として生きるための「大憲章」、私たちが何者であり、どの方向に歩むべきかを示す基本原則です。

マタイは、この場面を非常に荘厳に描いています。イエスはモーセのように山に登られ教えられます。しかし彼らが聞くのは、単なる掟や知識ではありません。聞いた後で、それを生きねばならない教えなのです。

ところが、イエスが語る「幸い」は、私たちの普通の感覚からすると非常に奇妙です。「心の貧しい人々は幸いである。」「悲しむ人々は幸いである。」「義のために迫害される人々は幸いである。」普通なら、貧しさも、悲しみも、迫害も、できれば避けたいものです。

では、イエスは貧困や苦しみそのものを良いと言っているのでしょうか。もちろん、そうではありません。苦しみそのものが幸いなのではありません。貧しい状態そのものが神に喜ばれるのでもありません。

真福八端の中心にあるのは、人生の状況ではなく、その状況の中でどこに心を向けて生きるかということです。イエスは、人間の幸福は外的条件だけでは決まらないことを教えています。富があっても、不安や嫉妬や欲望に縛られているなら幸せではありません。反対に、困難の中にあっても、神に信頼し、人を愛し、希望を失わない人には、誰にも奪えない深い幸福があります。

だから真福八端は、私たちの生活だけでなく、まず私たちの考え方そのものを変えるよう求めます。そして何より大切なのは、イエスご自身が、この真福八端を生きたということです。

イエスは語ったことと、生きたことが完全に一致していました。こころの貧しい人つまり霊的に飢え乾く人、父の慈しみにより頼む人でした。そしてイエス自身が、まさに柔和な方でした。憐れみに満ちた方でした。平和を作る方でした。義のために迫害されました。

つまり、真福八端とは単なる道徳的な規則ではなく、キリストご自身の姿を言葉にしたものなのです。

だから聖人とは、結局、真福八端を通してキリストに似た者となっていった人なのです。

では、そのような聖人は、ごくわずかしかいないのでしょうか。

第一朗読の『ヨハネの黙示録』は、まったく逆の光景を示します。そこには十四万四千人という数字が出てきます。しかし、これは天国に入れる人数の上限ではなく、数多のと言う意味をもつ象徴的な数字であり、神に属する民の大きさ、完全さを示しています。さらに続いて、「誰にも数えきれないほどの大群衆」が現れます。あらゆる国民、民族、言葉の違う人々です。彼らは立っています。生きているからです。白い衣を着ています。キリストの復活の命にあずかっているからです。実はキリスト者が典礼で基本的にまとう白衣はそのことを象徴しています。そして、しゅろの枝を持っています。悪に対する勝利のしるしです。しかし彼らについて、もう一つ大切なことが言われます。「この者たちは、大きな苦難を通って来た者たちである。」

聖人たちは、苦しみのなかった人々ではありません。人生には病気があります。失敗があります。裏切りがあります。孤独があります。自分ではどうにもならない苦しみがあります。

それでも、その苦しみの中で神から離れず、キリストとともに歩み続けた。

そこに聖性があります。神は、苦しみそのものを望んでいるのではありません。しかし、神と結ばれて生きるなら、苦しみも人生から切り離された無意味なものではなく、愛と希望の中に受け止め直されることがあります。

キリストご自身、十字架という人間的には完全な敗北を、愛によって救いへと変えられました。だから私たちの人生も、神に委ねられるとき、失敗も苦しみも、最後の言葉ではなくなるのです。

そして第二朗読に戻ると、ヨハネは言います。「わたしたちは今すでに神の子である。しかし、将来どのようになるかはまだ明らかにされていない。」つまり、私たちはまだ途中にいます。すでに神の子ですが、まだ完全に神に似た者になったわけではありません。そこで必要になるのが、日々の回心、愛徳の充満に向けた歩みです。

「御子にこの希望を置いている者は、自分自身を清める。」これは、一度に完璧になれという意味ではありません。少しずつ変わることです。昨日より今日、今日より明日、少しだけ赦せるようになる。少しだけ人の痛みに敏感になる。少しだけ自分中心の考えから自由になる。少しだけ神の御心を優先する。その小さな変化の積み重ねが、聖性への道なのです。

ですから、今日、諸聖人を祝うとき、私たちは遠い世界の英雄たちを眺めているのではありません。彼らは、私たちより先に同じ道を歩いた人たちです。

聖人とは、完璧な人ではなく、神の恵みを受け入れ続けた人です。真福八端の道を、失敗しながらも、何度でも歩き直した人です。そして、その召命は私たちにも与えられています。

私たちはすでに神の子です。だから、聖なる者になる可能性があるだけではありません。

神の子として、聖性へと歩むように招かれているのです。

今日、諸聖人の取り次ぎを願いながら、私たちもそれぞれの生活の中で、キリストの姿を少しずつ映し出す者となれるよう願いたいと思います。

 
 
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