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2026年9月6日 年間第23主日

9月2日
読了時間: 9分

更新日:9月3日

A年年間第23主日 みことばのメッセージ


今日の教会は、福音を現代の世界に伝えることの難しさを感じています。

多くの人々は、福音を正面から拒んでいるわけではありません。しかし、さまざまな情報や関心、安心や快適さを求める生活の中で、福音の声が埋もれてしまっています。そのため教会は、「新しい福音宣教」、すなわちキリスト教的な生き方を改めて築き直す必要を語っています。

しかし、福音によって変わらなければならないのは、教会の外にいる人々だけではありません。教会共同体そのものも、絶えず回心する必要があります。

教会の中にも、疲れや諦めがあります。健全な多様性がある一方で、互いを排除する派閥意識も生まれます。未来へ進もうとする人と、過去へ戻ろうとする人との間に、対立が起こることもあります。

教会は、弱さや罪から免れた、完全な人々の集まりではありません。罪は人と人との関係を壊し、共同体に分裂をもたらします。

今日の福音で、イエスはこの分裂を癒やすための具体的な治療法を示されます。それが「兄弟的矯正」です。

イエスは言われます。「兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。」

ここで大切なのは、「兄弟」という言葉です。

過ちを犯した人も、なお兄弟です。罪を犯したからといって、兄弟としての絆が消えるわけではありません。だからこそ、その人の過ちに無関心でいることも、その人を簡単に切り捨てることもできません。

兄弟的矯正の目的は、相手を非難したり、恥をかかせたりすることではありません。相手が自分の誤りに気づき、回心できるように助けることです。

イエスは、「聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言われます。

つまり目的は、裁きに勝つことではなく、兄弟を取り戻すことです。

そのため、最初の働きかけは、二人だけのところで行われます。相手の過ちを周囲に言い広めるのではありません。人前で辱めるのでもありません。本人と直接、顔と顔を合わせて語ります。

これは決して簡単なことではありません。本人と向き合うより、ほかの人に話す方が楽だからです。また、正しい内容を語っていても、言葉の選び方を誤れば、相手を深く傷つけ、心を閉ざさせてしまいます。

だから兄弟的矯正には、慎重さと忍耐、そして何よりも愛が必要です。最初の働きかけが成功しないなら、一人か二人の人に助けてもらいます。彼らは相手を裁くための証人ではありません。罪を犯した人が自分の誤りを認め、正しい道へ戻ることができるように、働きかけを支える人々です。

それでも聞き入れない場合には、最後に共同体全体が関わります。これも、罪人を追放するためではなく、その人を取り戻すための最後の試みです。

では、「異邦人か徴税人のように見なしなさい」という厳しい言葉は、どう理解すればよいのでしょうか。

これは、罪人を完全に拒絶せよという意味ではありません。イエスご自身が「徴税人や罪人の友」と呼ばれた方だからです。また、この福音の直前には、迷った一匹の羊を捜す羊飼いのたとえがあります。天の父は、小さな者が一人でも滅びることを望んでおられません。

したがって、罪と罪人を区別する必要があります。

キリスト者は、罪からは明確に距離を置かなければなりません。悪を悪ではないかのように扱うことはできません。しかし、罪を犯した人との関係を完全に断ち切ってはなりません。

罪を認めるよう求めながらも、なおその人を兄弟として見つめ、立ち帰りを待ち続けるのです。希望は、最後まで失われてはなりません。

今日の第一朗読では、神がエゼキエルをイスラエルの「見張り」として立てられます。

見張りは、危険が近づいていることを知ったなら、警告しなければなりません。黙っていれば、その責任を問われます。しかし、警告したにもかかわらず、相手が聞き入れなかったなら、見張りは自分の務めを果たしたことになります。

預言者の敵は、外から攻めてくる軍隊だけではありません。神の言葉に対する無関心、契約を忘れること、神が示された道から離れることも、人を滅びへ導く敵です。

エゼキエルは、民を見捨てず、最後まで警告し続けます。愛は、困難に直面しても諦めないからです。この見張りの使命は、預言者だけのものではありません。すべてのキリスト者は、兄弟に対して責任を負っています。

私たちはカインのように、「わたしは兄弟の番人でしょうか」と言うことはできません。相手が誰であっても、その人は私の兄弟です。だから私は、その人の歩みに関心を持たなければなりません。

しかし、この責任を正しく果たすための基準は何でしょうか。

今日の第二朗読で、聖パウロは言います。

「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても何の借りもあってはなりません。」

私たちが互いに負っている唯一の負債は、愛です。愛は律法の一部ではありません。すべての掟をまとめ、すべてを一つにする、律法の完成です。愛があるなら、相手に悪を行いません。しかし愛は、ただ黙って見ていることでもありません。相手が誤った道を歩んでいるなら、その人の善を願って声をかけます。必要な真実を、忍耐と慎重さをもって伝えます。

福音の最後で、イエスは、心を合わせて祈る共同体の中に、ご自分が現存すると約束されます。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」

分裂した共同体にとって、最後のよりどころは祈りです。祈りは人々を一つにし、考えと心の間に調和を生み出します。

兄弟的矯正とは、相手を裁くための手段ではありません。分裂によって傷ついた共同体を癒やし、兄弟を再び交わりへと取り戻すための、愛に基づく司牧的な働きです。

私たちも、人の過ちを言い広めるのではなく、本人と誠実に向き合うことができますように。罪に対しては曖昧にならず、しかし罪人を見捨てることもありませんように。

そして、私たちの共同体が、互いに忠告し、赦し合い、ともに祈ることによって、地上に天の調和を映し出す共同体となりますように。


第一朗読 エゼキエルの預言 33章7-9

第二朗読 ローマの教会への手紙 13章8-10

福音朗読 マタイによる福音 18章15-20


A年         年間第23主日 説教案


今日のみことばの典礼では、共同体の中で人間関係が傷ついたとき、私たちはどうすればよいのかを聖書が教えています。

教会は、完全な人だけが集まる場所ではありません。さまざまな考えや性格を持ち、弱さや欠点を抱えた人々の共同体です。そのため、誤解が生じたり、言葉や行動によって誰かが傷つけられたりすることもあります。そのようなとき、私たちはどのような態度を取るでしょうか。

一つは、仕返しをすることです。自分が受けた痛みを、相手にも味わわせようとします。しかし、復讐によって関係が回復することはありません。傷がさらに深くなるだけです。

もう一つは、何も言わずに我慢することです。もちろん、ささいなことを受け流す寛容さは必要です。しかし、深く傷ついているのに黙り続けると、その痛みが心の中に残り、やがて怒りや憎しみに変わったり、病気になってしまったりすることがあります。表面上は平静を装っていても、心の中では相手との関係が壊れていきます。

第一朗読で、神は預言者エゼキエルを「見張り」として立てられます。見張りは、危険を知りながら黙っていてはなりません。相手を救うために、勇気をもって警告する責任があります。

今日の福音で、イエスも言われます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。」イエスは、ただ黙って耐えなさいとは言われません。しかし、相手を人々の前で非難しなさいとも言われません。まず本人と、二人だけで話すように求めておられます。私たちは傷つけられたとき、本人と話すより先に、別の人にその出来事を話してしまうことがあります。そして、いつの間にか相談が悪口となり、相手の評判を落とすことになってしまいます。

しかし、イエスが示される道は違います。相手の尊厳を守りながら、直接、誠実に話すのです。その目的は、自分の正しさを証明することでも、相手を言い負かすことでもありません。イエスは、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言われます。つまり、忠告の目的は、失われかけた兄弟を取り戻すことです。傷ついた関係を修復し、もう一度、兄弟として歩めるようにすることです。

もちろん、一度話しただけでは、相手が理解してくれないこともあります。その場合、イエスは一人か二人の人を連れて、もう一度話すように勧められます。これは相手を多数で責めるためではありません。感情や思い込みを避け、公正に事実を確かめながら、和解を助けてもらうためです。

それでも解決しないなら、共同体に助けを求めます。イエスは、慎重に、忍耐強く、最後まで和解の可能性を探るよう求めておられるのです。

ただし、和解は一方の努力だけでは成立しません。どれほど誠実に働きかけても、相手が過ちを認めず、関係の回復を拒むこともあります。その場合には、無理に親しい関係を続けることはできません。

福音が求める赦しとは、相手の行為を正しいことにすることでも、何事もなかったかのように振る舞うことでもありません。また、危険な関係の中にとどまり続けることでもありません。赦しながらも、必要な距離を置き、共同体や弱い立場の人を守ることが必要な場合もあります。

そのうえで、イエスは共同体の祈りについて語られます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」ここで言う「集まる」とは、単に同じ場所にいることではありません。互いに傷つけ合いながら表面だけ一緒にいるのではなく、和解を求め、心を合わせて祈ることです。共同体の祈りが力を持つのは、人数が多いからではありません。互いに赦し合い、一致を求める人々の中に、キリストご自身が現存してくださるからです。

第二朗読で、聖パウロは言います。「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。」金銭の負債は、支払い終えればなくなります。しかし、愛の負債だけは、決して払い終えることがありません。私たちは、生涯にわたって互いに愛し続けるよう招かれているからです。

パウロはさらに、「愛は律法を全うするものです」と語ります。

愛する人は、相手を傷つけません。しかし、愛は悪を行わないだけではありません。苦しんでいる人を助け、孤立している人に声をかけ、関係が壊れたときには和解のために一歩を踏み出します。愛することは、いつも容易ではありません。特に、自分を傷つけた人を愛することは、人間の力だけでは困難です。

しかし、イエスは十字架の上で、ご自分を裏切り、侮辱し、苦しめた人々をも愛されました。そして今、その愛の力を私たちにも与えてくださいます。

私たちは愛するために造られました。復讐するためでも、憎しみを抱き続けるためでもありません。神に愛され、神とともに隣人を愛するために造られたのです。

傷ついたときに、怒りだけに支配されず、真実を愛のうちに語ることができますように。人を公に辱めるのではなく、その尊厳を守りながら和解を求めることができますように。

そして私たちの共同体が、傷つけ合う場所ではなく、キリストの愛によって人間関係が癒やされ、再び兄弟姉妹として歩み始めることのできる場所となりますように。

 
 
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