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2026年8月9日 年間第19主日

8月8日
読了時間: 9分

A年    年間 第19主日 聖書のことば

 

みことばのメッセージ

今日の御言葉全体は、困難の中で神を見いだし、信仰をもって歩むようにと招いています。

まず、第一朗読では、預言者エリヤがホレブの山で神と出会います。


エリヤは王妃イゼベルに命を狙われ、荒れ野へ逃れ、洞窟に身を隠していました。疲れ果て、恐れと孤独の中にあったエリヤに、主は言われます。「外に出て、山の上で主の前に立ちなさい」。すると、山を裂くほどの激しい風が起こります。しかし、主は風の中にはおられませんでした。地震が起こります。しかし、主は地震の中にもおられませんでした。火が起こります。しかし、主は火の中にもおられませんでした。その後、静かな、かすかな風の音が聞こえます。エリヤは、そこに主がおられることを悟り、外套で顔を覆いました。


神は、時には驚くべき出来事を通して御自身を現されます。しかし多くの場合、神は静けさの中で、私たちの心に語りかけられます。私たちは、目立つ奇跡や劇的な出来事を求めがちです。しかし、神は日々の祈り、聖書の言葉、良心の声、人から受ける小さな親切、困っている人を見て動かされる心の中におられます。

大切なのは、心を静めて、その声に耳を傾けることです。


今日の福音では、イエスが湖の上を歩いて弟子たちのもとへ来られます。5千人にパンを分け、群衆を養われた後、イエスは弟子たちを舟に乗せ、自分だけ祈るために山へ登られました。群衆はイエスを王にしようとしていましたが、イエスは地上の権力を求められませんでした。イエスは人々を支配するためではなく、御自分の命を与えるために来られたからです。


その間、弟子たちの舟は逆風に悩まされていました。暗闇の中、波に揺さぶられ、イエスは遠くにおられるように見えました。

私たちにも、同じような時があります。困難が続き、祈っても答えがなく、神が不在であるように感じることがあります。しかし、イエスは弟子たちを忘れておられませんでした。夜明け前、湖の上を歩いて、彼らのもとへ来られます。弟子たちは幽霊だと思い、恐怖のあまり叫びました。するとイエスは言われます。

「勇気を出しなさい。わたしだ。恐れることはない」。

これは、今日の私たちにも向けられた言葉です。イエスは、風が吹かないから恐れるな、と言われるのではありません。波がなくなるから安心しなさい、とも言われません。風と波のただ中で、「わたしがいるから、恐れることはない」と言われるのです。

ペトロは言います。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてあなたのところへ行かせてください」。


イエスは「来なさい」と言われます。ペトロは舟を降り、水の上を歩き始めました。

ペトロを水の上に立たせていたのは、彼自身の能力ではありません。イエスの言葉への信頼でした。イエスの手は海の下から彼をしっかりと支えていたのです。しかし、ペトロは激しい風を見て恐ろしくなり、沈み始めます。そこで叫びました。「主よ、助けてください」。

するとイエスは、すぐに手を伸ばしてペトロをつかまれました。

私たちも、ペトロと同じです。祈りの中で促され、誰かを助けよう、教会のために働こう、新しい責任を引き受けようと、大事な一歩を踏み出すことがあります。しかし、始めた後で、予想しなかった困難が起こります。理解されず、批判され、自分の力不足を感じ、これでよかったのかと迷います。そのとき私たちは、イエスではなく、風ばかりを見るようになります。そして、恐れの中に沈み始めます。

もちろん、思いついたことを何でも無謀に行えばよいのではありません。キリスト者としては、まず祈り、それが本当に主の御心にかなうものかを見極める必要があります。

しかし、主の促しを受けて始めたことであるなら、困難が起こったというだけで、すぐに投げ出してはなりません。

大きな信頼をもって福音を生きようとすれば、必ず困難は起こります。それは異常なことではありません。人間はそもそも弱く脆いのです。誰かを助けようとすれば、面倒なことも起こります。正義のために立てば、反対も受けます。

大切なのは、イエスから目を離さないことです。

そして沈みそうになったなら、ペトロのように、率直に叫べばよいのです。「主よ、助けてください」と。

主は必ず手を伸ばしてくださいます。

第二朗読では、パウロが、自分の同胞であるイスラエルの民について語ります。

パウロは、「わたしには大きな悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがある」と言います。多くの同胞がキリストを受け入れなかったからです。パウロ自身、同胞から鞭打たれ、迫害され、石を投げつけられました。それでも、彼らを憎み、悪く言うことはありませんでした。むしろ、彼らが受けた恵みを認め、彼らの救いを心から願います。そして、自分が犠牲になってもよいとさえ語ります。

ここに、真の使徒の心があります。


信じない人を批判するだけではなく、その人のために苦しみ、祈り、救いを願う心です。

私たちの社会にも、神を必要としないと考える風潮があります。しかし私たちは、「今の世の中は駄目だ」と裁くだけであってはなりません。神から離れている人、教会から遠ざかっている人、信仰を持たない人、自分が理解できない、あるいは自分を理解できない人のために祈ることが必要です。そして、私たち自身が憐れみと忍耐をもって、その人々に関わらなければなりません。


こうして今日の御言葉は、私たちに三つのことを教えています。

神は、静かなそよ風の中で、私たちの心に語っておられます。

イエスは、人生の逆風の中で、「わたしだ。恐れることはない」と言ってくださいます。

そしてパウロは、信仰を持たない人を裁くのではなく、その救いのために祈るように教えています。


私たちも、静かな神の声に耳を傾けようではありませんか。

困難の中でもイエスから目を離さず、沈みそうになったなら、「主よ、助けてください」と叫んでいいのです。

そして、神から遠ざかっている人々のために祈り、救い主の御心と一つにされることを願いましょう。

 

第一朗読 列王記〈上〉 19章9a、11-13a

第二朗読 ローマの教会への手紙 9章1-5

福音朗読 マタイによる福音 14章22-33

 

説教案

 

私たちは時々、神に対しても自分なりの予定表を作ってしまいます。

神なら、こうしてくださるはずだ。困った時にはすぐ助けてくださるはずだ。正しい人を守り、悪い人を裁いてくださるはずだ、と。

しかし、今日の御言葉が示す神は、必ずしも私たちの期待どおりに行動される方ではありません。


第一朗読で、預言者エリヤは神の山ホレブに立っています。王妃イゼベルに命を狙われ、逃げ続け、心身ともに疲れ果てていました。

そこに激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕きます。しかし、主は風の中にはおられませんでした。地震が起こります。しかし、そこにもおられません。火が起こります。しかし、そこにもおられません。


その後に聞こえたのは、「静かなそよ風のささやき」でした。

エリヤは、この時、神について学び直しました。神は、いつも圧倒的な力で問題を解決し、自分の正しさを証明してくださる方ではありません。むしろ静かに近づき、人の心の奥に語りかけ、その人自身を変えてくださる方なのです。

私たちも、自分に都合のよい神をつくってしまうことがあります。自分の意見に賛成する神、自分の敵を罰する神、自分の計画を保証してくれる神です。

しかし、それは本当の神ではありません。自分自身を大きく映した鏡にすぎません。

本当の神の声を聞くためには、私たちの内側にある騒がしい声――怒り、恐れ、思い込み、「自分だけが正しい」という声――を静める必要があります。

今日の福音では、弟子たちが湖の上で嵐に遭います。夜は暗く、風は逆向きに吹き、波は舟を激しく揺らしています。しかも、イエスは舟の中におられません。

私たちの人生にも、こういう時があります。

一生懸命に生きているのに前へ進まない。祈っても答えがない。神が一緒にいてくださるはずなのに、その姿が見えない。教会や共同体の中でさえ、理解し合えず、信仰の喜びを分かち合えない時があります。


しかし、夜が最も深くなったころ、イエスは湖の上を歩いて来られます。

弟子たちはイエスを見ても、「幽霊だ」と叫びました。恐れに支配されると、救いが近づいていても、それを新しい危険だと思ってしまうことがあります。

そこでイエスは言われます。

「勇気を出しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

大切なのは、「恐れるな」という言葉以上に、「わたしだ」という言葉です。

波がないから恐れなくてよいのではありません。風が弱いから安心できるのでもありません。主がそこにおられるから、恐れる必要がないのです。

ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、あなたのところへ行かせてください」と言います。

イエスは、「来なさい」と言われます。

ペトロは舟から降り、水の上を歩き始めます。しかし、強い風を見た途端に恐ろしくなり、沈み始めました。

ペトロには信仰がなかったのでしょうか。そうではありません。信仰があったから舟から降り歩くことができたのです。イエスの手を荒れた波の底に感じられるほどその信仰は立派ではなかったのです。ペトロの信仰はまだ成長の途中でした。

信仰とは、嵐が起こらないことではありません。恐れを感じなくなることでもありません。人生が順風満帆になる保証でもありません。

信仰とは、嵐の中で、どこを見るかということです。

波を見るのか。風を見るのか。それとも、自分のところまで来てくださるキリストを見るのか。


ペトロは風を見て沈みました。しかし最後に、正しいことをしました。

「主よ、助けてください。」

するとイエスは、すぐに手を伸ばして、彼をつかまれました。

私たちを救うのは、自分の強さでも、自分の正しさでもありません。差し伸べられたキリストの手です。

そして、この舟は古くから教会の象徴とされてきました。

教会もまた、嵐のない場所ではありません。混乱があり、人間の弱さがあり、時には進む方向を見失うことさえあります。

しかし、教会を救うのは、私たちの有能さでも、制度でも、過去の栄光でもありません。舟に乗り、舟を導いてくださるキリストです。


第二朗読で、パウロはキリストを受け入れない同胞イスラエルのために深く悲しみます。しかし、彼らを裁いたり、切り捨てたりはしません。むしろ、自分がキリストから離されてもよいと思うほど、彼らの救いを願います。

本当の信仰は、人を裁く方向ではなく、人の救いを願う方向へ私たちを動かします。

今日、御言葉は私たちに三つのことを教えています。

自分の期待に合わせて神をつくらないこと。

嵐の中で、波ではなくキリストを見ること。

そして、神から離れている人を裁くのではなく、その人の救いを願い、忍耐強く祈ることです。


私たちは皆、まだ信仰の途中にいます。恐れ、疑い、時には沈み始めます。

その時、立派な言葉はいりません。

ペトロのように叫べばよいのです。

「主よ、助けてください。」

その声を聞いて、主は手を伸ばしてくださいます。

そして、その手に支えられながら、私たちも弟子たちと共に告白するのです。

「あなたは本当に神の子です。」

 

 
 
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