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2026年9月20日 年間第25主日

10 分前
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A年    年間第25主日 みことばのメッセージ


今日の第一朗読で、預言者イザヤは非常に印象的な言葉を語っています。

「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、あなたたちの道は、わたしの道とは異なる。」この言葉が、今日の福音を理解するための鍵になります。

福音では、ぶどう園の主人が、朝早くから何度も広場へ出て行き、働く人々を雇います。朝から働いた人、九時から働いた人、正午から、午後三時から、そして夕方五時になってようやく雇われた人もいました。ところが夕方、主人は全員に同じ一デナリオンを支払います。

すると朝から働いていた人たちは不平を言います。

「最後に来たこの人たちは一時間しか働かなかったのに、一日中、暑さの中で働いた私たちと同じ扱いをするのですか。」

私たちにも、その気持ちはよく分かります。普通に考えれば、確かに不公平に見えます。

しかし、このたとえは賃金制度について教えているのではありません。イエスが語っておられるのは、神の国、そして神の恵みについてです。主人は最初の人たちに約束した一デナリオンをきちんと支払っています。ですから、彼らが不当に扱われたわけではありません。

むしろ問題は、彼らが自分の賃金以上に、最後に来た人が自分と「同じように扱われた」ことに腹を立てたことです。

ここに、このたとえの大切なポイントがあります。イエスの時代にも、自分たちは神の掟を守っている、正しい人間である、と考えていた人々がいました。特にファリサイ派の人々は、イエスが罪人や徴税人と食事をし、彼らにも神の救いを語ることに反発しました。「私たちはずっと神に仕えてきた。それなのに、なぜ罪人が私たちと同じように神の恵みを受けるのか。」

これはまさに、朝から働いた人たちの不満です。福音では、彼らが「つぶやいた」と記されています。聖書において「つぶやく」という言葉は、単なる不平ではありません。荒れ野でイスラエルの民が神に不平を言ったように、神のなさり方を信頼できない心を表しています。そして私たちの中にも、この「つぶやき」があります。「あの人より自分のほうが長く教会に来ている。」「私はこれだけ奉仕してきた。」「私は真面目に信仰生活を送っている。」

そう考えること自体が悪いわけではありません。

しかし、そこから、「だから私は、あの人より神から多くいただいて当然だ」となったとき、信仰がいつの間にか神との取引になってしまいます。けれども救いは、私たちが働いて獲得する給料ではありません。神の国は報酬ではなく、恵みです。

だから主人は言います。「私は、この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」ここに神の自由があります。そして神の自由とは、気まぐれではありません。それは、限りない憐れみの自由です。

第一朗読が「神の思いは人間の思いを超えている」と語るのも、そのことです。神は私たちから遠く離れているから偉大なのではありません。神の偉大さは、私たちには到底できないほど大きく赦し、大きく憐れむことに現れます。「主は豊かに赦してくださる。」それが神の偉大さです。人間は、「この人は赦されるに値するか」と考えます。神は、「この人をどうすれば救うことができるか」と考えられます。人間は、先に来た者、後に来た者と区別します。神は、すべての人をぶどう園へ招き続けます。

実際、この主人は一日中、何度も外へ出ています。朝だけではありません。九時にも、正午にも、三時にも、そして夕方五時にも出て行きます。神は人間を探し続ける方なのです。ある人は幼いときから信仰を生きるかもしれません。ある人は人生の途中で神と出会います。ある人は人生の最後になって、ようやく神に心を開くかもしれません。しかし神は、「もう遅い」とは言われません。

最後の一時間になっても、「あなたも私のぶどう園へきなさい」と招いてくださいます。

そしてマタイの教会にとって、この福音にはもう一つ大切な意味がありました。

最初のキリスト者の多くはユダヤ人でした。しかしやがて異邦人も次々と教会に入ってきました。そこで、「昔から神の民であった私たちと、後から来た異邦人が同じなのか」という問題が起こりました。

福音の答えは明確です。神の救いは、ある民族や、ある集団の所有物ではありません。

ユダヤ人にも異邦人にも、正しい人にも罪人にも、神は救いを差し出されます。だから、「後の者が先になり、先の者が後になる」のです。

これは、先に来た人を排除する言葉ではありません。「自分は先だから特別だ」という考えを捨てなさい、という招きです。

第二朗読のパウロも、この神の恵みに生きています。パウロは牢獄の中で、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と語ります。

死ねば、愛するキリストと完全に結ばれることができる。しかし同時に、まだ自分を必要としている人々がいる。そこでパウロは、自分の願いだけでなく、兄弟姉妹のために生きることを選びます。キリストと共にいたいという願いと、この地上で福音のために働くことは、矛盾していません。むしろ、キリストと結ばれているからこそ、他者のために生きることができるのです。

私たちも今日、この神の命の食卓に招かれています。ここに集まっている私たちは、「朝から働いた者」だから招かれているのではありません。私たちは皆、神から呼ばれた労働者です。そして何より、私たち自身が、働きに対する報酬ではなく、恵みによって救われる者です。だから、他の人にも神の恵みが注がれることを喜ぶことができるはずです。「あの人が救われるのはおかしい」ではなく、「あの人も神に見いだされたのだ」と喜ぶ。

「あの人は後から来た」ではなく、「神があの人をも招いてくださった」と喜ぶ。

今日、主は私たちに問いかけておられます。

神の恵みを、自分だけの特権として受け取るのか。それとも、すべての人に開かれた神の憐れみとして喜ぶのか。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なる。」私たちの狭い計算を超えて、誰一人失うことを望まれない神の広い心を、このエウカリスチアを通して私たちにも与えていただきましょう。





A年 年間第25主日 説教案


今日の福音に出てくるぶどう園の主人の行動は、私たちには少し不公平に見えます。

朝早くから一日中働いた人も、夕方五時になって一時間しか働かなかった人も、同じ一デナリオンを受け取るからです。朝から働いた人たちは当然、不満を言います。「最後に来たこの人たちは一時間しか働かなかったのに、一日中、暑い中で働いた私たちと同じ扱いをするのですか。」私たちも、「それはおかしい」と思うかもしれません。

しかし、イエスはここで労働賃金の制度について教えておられるのではありません。神と人間との関係について教えておられます。

そのことを理解する鍵が、第一朗読の言葉です。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、あなたたちの道は、わたしの道とは異なる。」私たちはどうしても、神との関係さえも計算で考えてしまいます。これだけ祈った。これだけ奉仕した。これだけ戒めを守った。だから、それだけ神から報われるはずだ。反対に、あの人はあまり真面目に生きてこなかったのだから、自分と同じように神から祝福されるのはおかしい。

しかし今日の福音は、そのような考え方を根本から問い直します。神の愛は、私たちの功績に対する給料ではありません。主人は、朝から働いた人を不当に扱ったわけではありません。約束した一デナリオンをきちんと支払っています。しかし最後に来た人にも、同じ一デナリオンを与えます。なぜでしょうか。

主人は、その人が「どれだけ働いたか」だけではなく、「何を必要としているか」を見ているからです。当時の日雇い労働者にとって、一デナリオンはその日の生活を支えるための賃金でした。夕方五時まで雇ってもらえなかった人たちは、怠けていたとは限りません。

主人が尋ねると、彼らは答えています。「だれも私たちを雇ってくれないのです。」

彼らも、その日の生活のためには一デナリオンが必要でした。だから主人は、功績だけではなく、その人の必要を見て与えます。これが神の正義です。

人間は、「どれだけしたか」を測ります。神は、「この人には何が必要か」をご覧になります。

人間は、功績を数えます。神は、憐れみを注がれます。

第一朗読で、「神の思いは人間の思いを超えている」と言われるのも、このことです。

神の偉大さは、単に私たちより力が強いということではありません。私たちには真似できないほど大きく赦し、大きく憐れみ、大きく愛される。そこに神の偉大さがあります。

ところが、朝から働いた人たちは、この主人の善意を喜ぶことができませんでした。

自分が一デナリオンをもらったことよりも、他の人も一デナリオンをもらったことが気になるのです。私たちにも、同じ心がないでしょうか。「あの人より私のほうが長く教会に来ている。」「私はこんなに奉仕している。」「あの人は人生の最後に信仰を持っただけなのに。」

こうして信仰生活まで、比較や競争になってしまうことがあります。

しかし福音は、ここで非常に大切なことを教えています。

早くからぶどう園に入った人は、本当に損をしたのでしょうか。決してそうではありません。

朝から主人と共に働くことができた。長い時間、ぶどう園の中にいることができた。それ自体が恵みなのです。

幼いころから神を知り、祈り、みことばを聞き、聖体祭儀にあずかりながら生きてきたなら、それ自体がすでに大きな恵みです。神と共に生きることは、天国に入るために我慢して耐える苦役ではありません。「長く我慢したから、最後にご褒美をください」というものではないのです。神と共に生きることそのものが、すでに喜びなのです。ですから、人生の最後になって神に出会った人を見て、「あの人は得をした」と考えるのは間違っています。

その人は赦しを受けました。救いにも招かれました。それは大きな恵みです。しかし同時に、それまで神との交わりの中で味わうことのできた多くの喜びを知らずに過ごしてきたとも言えるでしょう。神は、その人を罰したいのではありません。むしろ、「もっと早く私のところへ来てくれたなら、もっと長くこの喜びを分かち合えたのに」と思っておられるのです。

そして、このたとえには、教会共同体への大切な教えもあります。

ぶどう園の主人は神です。私たちは皆、労働者です。誰もぶどう園の主人ではありません。

「私は昔からいるから偉い。」「私はあの人より信仰が深い。」「私はこれだけ奉仕している。」

そのような競争は、神のぶどう園には必要ありません。

先に来た人も、後から来た人も、信仰の強い人も、弱い人も、皆、同じ主人から招かれた兄弟姉妹です。

そして何より、私たち自身が、神の前では恵みを必要としている者です。

今日の福音の最後で、主人は問いかけます。「私が善い者だから、あなたはねたむのか。」

福音は、あえてその後の労働者たちの反応を語りません。彼らは主人の言葉を受け入れたのでしょうか。それとも、なお不平を言い続けたのでしょうか。

その答えを出すのは、私たち自身だからです。神が自分以外の人にも寛大であることを、私たちは喜ぶことができるでしょうか。罪人が赦されることを喜べるでしょうか。遠くにいた人が神のもとに帰ってくることを喜べるでしょうか。

私たちが今祝っているミサ、エウカリスチアという言葉も、「恵み」「感謝」に結びつく言葉です。私たちは、自分の功績への報酬としてここに招かれているのではありません。まず神から法外な恵みとして無償に愛され、赦され、養われている者としてここにいます。

だから私たちも、神との関係を損得や計算から解放し、神の善意を喜び、他の人に注がれる恵みをも共に喜ぶ者となりたいと思います。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なる。」私たちの狭い計算を超えて、惜しみなく赦し、惜しみなく与える神の心を、このミサ聖祭を通して、私たちの心にも与えていただきましょう。


 
 
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