2026年8月23日 年間第21主日
更新日:8月20日
A年・年間21主日 聖書のメッセージ
私たちは毎日の生活の中で、さまざまな鍵を使っています。家の鍵、車の鍵、金庫の鍵。鍵は小さなものですが、扉を開き、また閉じる大切な働きをします。
そして、誰かに鍵を渡すことは、その人を信頼し、大切なものを委ねることを意味します。家の鍵は、誰にでも渡すものではありません。
今日の三つの朗読を結びつけているのも、この「鍵」です。
第一朗読では、宮廷をつかさどっていたシェブナが職を解かれ、代わってエルヤキムが選ばれます。神は言われます。「彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開けば閉じる者はなく、彼が閉じれば開く者はない。」当時、宮廷の鍵を持つことは、王に代わって宮殿を管理する権限を委ねられることでした。誰を王の前に通すのか、王の財産をどのように管理するのか。その大きな責任が託されたのです。
しかし、鍵を預けられた人は、宮殿の主人ではありません。主人の意志に従って家を管理する奉仕者です。権威は自分のためではなく、委ねられた人々のために用いられなければなりません。
今日の福音では、この鍵がイエスによってペトロに委ねられます。
しかし、その前に、イエスは弟子たちに尋ねられます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか。」弟子たちは答えます。「洗礼者ヨハネだと言う人も、エリヤ、エレミヤ、また預言者の一人だと言う人もいます。」人々はイエスを高く評価していました。偉大な預言者、神の言葉を語る人、民を回心へ導く人だと考えていました。
けれども、他人の意見を述べるだけなら、それほど難しくありません。
そこでイエスは、さらに踏み込んで尋ねられます。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」
これは知識を試す質問ではありません。「人々が何と言っているかではなく、あなた自身にとって、わたしは何者なのか」という信仰の問いです。
するとペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」
これは、「あなたは立派な方です」「偉大な宗教家です」という評価ではありません。
「あなたこそ神が遣わされた救い主です。私の人生を委ねるべき方です」という信仰告白です。イエスはペトロに言われます。「あなたにこのことを現したのは、肉と血ではなく、わたしの天の父なのだ。」ペトロの答えは、人間的な知恵だけから生まれたものではありません。天の父が、ペトロの心を開いてくださったのです。
私たちの信仰も同じです。信仰とは、自分の頭だけで神を発見することではありません。神が先に私たちを招き、心を開き、キリストのもとへ引き寄せてくださることです。
そしてイエスは言われます。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる。」教会の究極の土台は、もちろんキリストご自身です。しかしキリストは、目に見える教会の一致を支えるために、ペトロを選ばれました。ペトロは完全な人ではありません。後にはイエスの受難を理解できず、受難の夜には三度もイエスを知らないと言います。
それでもイエスはペトロを選ばれました。教会は、完全な人間によって建てられるのではありません。弱い人間を選び、支え、用いられる神の恵みによって建てられるからです。
続いてイエスは言われます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」
この鍵は、ペトロが自分の好き嫌いによって、人を天の国に入れたり、締め出したりするためのものではありません。ペトロに委ねられた使命は、すべての人にキリストと福音を知らせ、救いの扉を開くことです。教会の権威は、人々の前で扉を閉ざすためではありません。人々がキリストに出会い、神の国へ入る道を見いだすのを助けるためにあります。イエスはまた、ペトロに「つなぐことと解くこと」の権能を委ねられます。これは、教え、判断し、人々を正しい道へ導く責任を表します。しかし、その権限も人々を支配するためではありません。兄弟たちの信仰を支え、教会の一致を守り、人々を救いへ導くための奉仕です。
教会における権威は、支配ではなく、司牧的な愛の奉仕です。イエスご自身が弟子たちの足を洗い、すべての人のために命を与えられました。ペトロに委ねられた使命も、このイエスの愛を受け継ぐものでなければなりません。
今日の第二朗読で、パウロは叫びます。「なんと深いことか、神の富、知恵、知識は。その裁きは究め尽くせず、その道はたどり尽くせない。」パウロは、歴史を読み解くための、もう一つの鍵を私たちに示しています。イスラエルがイエスをメシアとして受け入れなかったことは、人間の目には大きな失敗に見えました。しかし神は、その出来事さえも用いて、福音を異邦人へと広げられました。もちろん、神が人間の罪や拒絶を望まれるのではありません。しかし神は、人間の失敗によって、ご自分の救いの計画を挫折させられることはありません。悪からさえ善を引き出すことがおできになります。
これが、信仰によって歴史を見るための鍵です。
私たちの人生にも、理解できない出来事があります。なぜこのようなことが起こるのか、なぜ神は沈黙しておられるのか、答えが見つからないことがあります。しかし、信仰は教えます。悪が最後の言葉を持つことはありません。人間の失敗が、神の計画を打ち砕くこともありません。神は、私たちには理解できない道を通しても、救いを実現してくださいます。
皆さん、今日イエスは、私たちにも尋ねておられます。
「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」
他人が何と言っているかではありません。教会で習った答えを繰り返すだけでもありません。私自身にとって、イエスは何者なのか。そのことが問われています。
私たちもペトロと共に答えたいと思います。「あなたはメシア、生ける神の子です。」
そして、この信仰告白によって、私たち自身も人々の前に扉を開く者となりたいと思います。
人を排除するのではなく迎え入れ、失望させるのではなく励まし、支配するのではなく奉仕する。そのようにして、キリストの愛と救いへの道を開くことができますように。
また、理解できない出来事の中でも、神の知恵と憐れみに信頼し、悪は決して最後の言葉を持たないと信じ続けることができますように。
第一朗読 イザヤの預言 22章19-23
第二朗読 ローマの教会への手紙 11章33-36
福音朗読 マタイによる福音 16章13-20
