2026年10月11日 年間第28主日
更新日:10月8日
A年 年間第28主日 みことばのメッセージ
今日の聖書朗読を一つに結んでいるのは、「宴」というイメージです。
宴というものは、どの文化でも、単に食事をする場ではありません。結婚式を考えればよく分かります。そこでは、喜びを一人で味わうのではなく、家族や友人、多くの人々と分かち合います。食卓を囲むことによって、友情や親しさ、交わりが生まれます。
今日の聖書が私たちに示している神も、そのような方です。神は御自分の喜びを人間と分かち合おうとされる。だから私たちを宴へと招かれるのです。その究極的なものが神の子羊の婚宴なのです。
第一朗読でイザヤは、シオンの山で神が盛大な宴を準備される姿を描いています。しかも、そこに招かれるのは一部の特別な人ではありません。「すべての民」です。その宴では、人間の顔を覆っている悲しみの覆いが取り除かれ、神はすべての顔から涙をぬぐわれます。そしてついには、「死を永久に滅ぼされる」と言われます。
ですから、この宴とは単なる食事ではありません。神が人間を御自分との交わりへ招き、悲しみも涙も、そして死さえも乗り越えてくださるという、救いそのものの姿なのです。
ところが今日の福音では、この素晴らしい宴への招待を断る人々が登場します。王は息子の婚宴を準備し、招いておいた人々を呼びます。しかし彼らは来ようとしません。王はもう一度使いを送り、「すべて準備ができた。婚宴に来てください」と頼みます。
それでも彼らは気にも留めません。ある者は畑へ行き、ある者は商売へ行ってしまいます。
ここには、人間の生活の非常に現実的な問題があります。
畑も仕事も商売も、それ自体が悪いわけではありません。しかし、それらが大きくなりすぎると、もっと大切なものを押しのけてしまうことがあります。仕事のために家族を失う。忙しさのために人との関係を失う。目の前の利益に夢中になって、自分自身を見つめる時間も、神との関係も失っていく。
そしていつの間にか、神の招きそのものが「どうでもよいもの」になってしまう。主日のミサも同じようなものになってしまうかもしれません。
福音の最初の客たちの問題は、単に宴会を欠席したことではありません。王との関係そのものを軽く扱ったことにあります。
マタイはこのたとえを、救いの歴史を映し出す物語として語っています。神は預言者たちを通して人々を御自分との契約へ招いてこられました。しかし、その招きは何度も拒まれました。それでも神はあきらめません。
王は僕たちに言います。「大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に招きなさい。」そこで今度は、道端にいた人々が集められます。「善人も悪人も」です。
ここに福音の大切な点があります。神の招きは、資格のある人への賞のようなものではありません。神の国は、選ばれたエリートだけのものではない。神の招きは、すべての人に向けられた無償の恵みなのです。
初代教会もこの言葉を、自分たちの経験として理解しました。福音は一つの民族、一つの社会階層にとどまらず、異邦人にも広がっていきました。水と霊によって洗礼を受けた人々は、みことばと聖体の食卓へ招かれ、新しい神の民となっていきました。
しかし、今日の福音はここで終わりません。宴会場に入った一人の人が、「婚礼の礼服」を着ていなかったために外へ出されます。ここだけを読むと、不思議に思います。道端から突然呼ばれた人に、どうして礼服を要求できるのでしょうか。
しかしマタイが言いたいのは、服装のことではありません。聖書では「衣」は、その人の生き方を表します。イザヤは「救いの衣」を語り、パウロは洗礼を受けた人について、「キリストを着た」と言います。つまり婚礼の礼服とは、神の招きに応えて新しく生きること、私たちが受けた霊的な尊厳なのです。神の招きは無償です。しかし、無償だから何をしてもよいということではありません。主人からの問いかけを無視していてはいけないのです。洗礼を受けた、教会に属している、ミサに来ている。それだけで終わるのではない。神から与えられた恵みに、自分の生き方をもって応えていく必要があります。
神はすべての人を宴へ招かれます。しかし、人間の側には、その招きを受け入れる自由があります。そして受け入れたなら、その喜びにふさわしく生きようとする応答が求められます。
だから最後の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という言葉も、「救われる人はほとんどいない」という悲観的な宣言ではありません。
このたとえの宴会場は、実際には大勢の人でいっぱいになっています。問題は、神が人を救いたくないことではありません。神は「すべての人が救われることを望んでおられる」とパウロは言います。問題は、私たちがその招きをどう受け止めるかです。救いの招きを自ら退けているのかどうかです。
そして第二朗読のパウロは、その招きに応えて生きる人の姿を示しています。貧しくても豊かでも、満腹でも空腹でも、パウロは言います。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」そして、自分を助けてくれたフィリピの人々に感謝します。
神からすべてをいただいていることを知る人は、状況に振り回されず、与えられたものに感謝し、それを他者と分かち合うことができます。
今日、神は私たちにも言っておられます。「すべて用意ができた。さあ、宴に来なさい。」
私たちはすでに招かれています。大切なのは、その招きを忙しさの中で聞き流さないこと。そして神の恵みを当然のものと思わず、「キリストを着る」者として、感謝と愛をもって「隣人と共に神の婚宴の食卓の恵みを分かち合う」生きることです。
神は独りで幸福であることを望まれません。私たちを御自分の幸福に招き、その喜びをともに分かち合いたいと願っておられるのです。
第一朗読 イザヤの預言 25章6-10a
第二朗読 フィリピの教会への手紙 4章12-14、19-20
福音朗読 マタイによる福音 22章1-14、または22章1-10
A年 年間第28主日 説教案
今日の聖書を理解するための一つの大切な言葉があります。それは「宴」です。
第一朗読のイザヤ書で、神はすべての民のために豊かな宴を用意されます。そこでは良いぶどう酒と豊かな食べ物が振る舞われ、神は人々の顔から涙をぬぐい、死さえも滅ぼされると言われます。つまり、聖書が描く救いとは、単に罪を罰せられずに済むということではありません。神とともに食卓を囲み、喜び、語り合い、いのちを分かち合うことです。神の国とは、本来、宴なのです。私たちは時々、信仰を少し暗いもの、厳しいものにしてしまいます。日曜日だからミサに行かなければならない。これをしてはいけない。あれを守らなければならない。もちろん、信仰には責任があります。しかし、それだけなら、キリスト教は義務の一覧表になってしまいます。
イエスが語る神の国はそうではありません。福音書の中でも、イエスは何度も人々と食事をされました。徴税人や罪人とも食卓を囲みました。そして最後の晩餐では、パンとぶどう酒を通して御自分自身を弟子たちに与えられました。ミサも同じです。神が私たちに言っておられるのは、まず、「わたしのところへ来なさい。食卓はもう用意してある」ということなのです。これは神の恵みが常に私たちの思い、言葉、行いに先んじていることを示しています。
ところが今日の福音では、不思議なことが起こります。王が王子の婚宴を準備して人々を招くのに、招待された人々が来ようとしません。ある人は畑へ行き、ある人は商売へ行きます。
これは私たちもよく分かることではないでしょうか。神を憎み嫌っているわけではありません。しかし、ほかにやることがある。仕事がある。予定がある。自分の楽しみがある。今はあの人と関わっていられない・・・。そうして神の招きは、いつの間にか人生の後回しになります。「もう少し時間ができたら」「落ち着いたら」「年を取ってから」「あの人がいなければ」。こうして何もかも、人間関係もいつの間にか上っ面のもの希薄な関係しか残らなくなっていく危険があります。しかし福音は、神の国の喜びを人生の最後まで延期するバカはいない、と言っています。神の国は死んだ後にだけ始まるものではありません。神を信頼し、福音を受け入れ、愛すること、ゆるすこと、分かち合うことを始めるとき、神の国、天の宴は今ここで始まります。だから、本当にすばらしい神の国が宴だと知った人は、「できるだけ遅く入ろう」などと考えません。むしろ、一刻も早く入りたいと思います。この喜びを一日でも失いたくないからです。自分の楽しみしか見ずに生きていると、そのうち気づいたら天の門が閉ざされてしまっているかもしれません。いや、自分が閉ざしているのです。
今日の福音には、もう一つ大切なことがあります。最初に招かれた人々が来なかったので、王は家来たちに言います。「大通りに出て、見つけた人はだれでも連れて来なさい。」そこで、良い人も悪い人も集められ、婚宴の広間はいっぱいになります。
ここに神の愛のすばらしさがあります。神は、立派な人だけを招いているのではありません。
罪のない人だけでもありません。弱い人、傷ついた人、失敗した人、自分はふさわしくないと思っている人も招かれています。教会とは、本来そういう場所です。完全な人が集まる場所ではありません。貧しい人、弱い人、社会から疎外されている人が、「ここでは自分は受け入れられている、居場所がある」と感じることのできる場所でなければなりません。
だから私たちも、人を簡単に「ふさわしい人」「ふさわしくない人」と分けてはいけないのです。ところが福音の最後には、「婚礼の礼服」を着ていない人が登場します。これは、招かれたらそれで終わりではない、ということを教えています。問題はその人が主人の問いを無視している態度なのです。洗礼を受けた。お恵みをいただいた。それだけで十分ではありません。教会に所属している。それだけでも十分ではありません。
洗礼によって与えられた新しいいのちにふさわしく、自分自身も少しずつ変わっていかなければならないのです。自分の生き方をのものを信仰・希望・愛によって美しく装っていくこと、それが「婚礼の礼服」の意味です。古い生き方の上に、キリスト教という小さな継ぎ布を当てるだけではありません。人を憎みながら、怒りや敵対心、偽善や不誠実さを心にいだきながら、真の意味で信仰・希望・愛を語ることはできません。不正を続けながら「主よ、主よ」と言うだけでは足りません。
福音を受け入れるとは、自分の人生そのものを、少しずつキリストの生き方に合わせていくことです。もちろん、私たちはすぐに完全にはなれません。だからこそ、神は何度でも私たちを招いてくださいます。パウロは言います。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」そして、自分を助けてくれたフィリピの人々に感謝します。神からすべてをいただいていることを知る人は、状況に振り回されず、与えられたものに感謝し、それを他者と分かち合うことができます。
今日、このミサにおいても、神は食卓を用意してくださっています。
御言葉の食卓、そして御聖体の食卓です。神は今日も言われます。「すべての準備はできている。来なさい。」神はもう招かれています。問題は、私たちがその招きを本当に喜んで受け入れるかどうかです。神の国は、嫌々入る場所ではありません。
神と神の愛する隣人とともに生きる喜びの宴です。だから今日、ためらわずにその招きに応えましょう。
そして、ただ宴の席に座るだけでなく、洗礼によっていただいた新しい衣を身につけ、福音にふさわしい新しい生き方を、今日心新たに始めようではありませんか。
