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2026年8月30日 年間第22主日

8月25日
読了時間: 9分

更新日:8月26日

A年 第22主日 みことばのメッセージ


今日の福音で、イエスは初めてご自分の受難を弟子たちに予告されます。

その直前、ペトロはイエスに向かって、

「あなたはメシア、生ける神の子です」と、すばらしい信仰告白をしました。しかし、そのイエスが、エルサレムで苦しみを受け、殺されると語られると、ペトロはそれを受け入れることができません。ペトロはイエスを脇へ連れて行き、いさめます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

ペトロが望んでいたのは、栄光に満ちたメシアでした。人々に認められ、敵に勝利し、力をもって神の国を実現するメシアです。しかしイエスが示されたのは、屈辱を受け、苦しみ、命をささげるメシアの道でした。ペトロは、イエスの栄光は望みましたが、その栄光に至る十字架の道は受け入れることができなかったのです。

そこでイエスは、ペトロに厳しく言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

なぜ、愛する弟子に対してこれほど厳しい言葉を言われたのでしょうか。それは、ペトロの言葉が、イエスを神の御心から遠ざけようとする誘惑になったからです。

悪の誘惑は、必ずしも明らかに悪い者の姿で現れるとは限りません。

「苦しみを避けなさい。」「損をしてはいけない。」「自分の安全を第一にしなさい。」これらは荒れ野の誘惑の時に語られた悪魔の提案でした。

こうした、一見もっともらしい考えによって、私たちが愛することや、責任を果たすことから逃げるなら、それは神の道ではなく、人間的な自己保身の道となります。

第一朗読の預言者エレミヤも、同じような葛藤を経験しました。

エレミヤは神から召され、神の言葉を伝えました。しかし、人々が聞きたがる耳障りの良い慰めの言葉ではなく、暴力、不正、抑圧を告発する言葉を語らなければなりませんでした。そのため、彼は毎日嘲られ、笑いものにされました。ついにエレミヤは神に訴えます。「主よ、あなたはわたしを誘惑し、わたしは誘惑されました。」神に従った結果が、なぜこれほどの苦しみなのか。エレミヤは使命を捨て、もう神の名によって語るまいと考えます。しかし、黙ることはできませんでした。神の言葉が、彼の心の中で燃える火となったからです。それは骨の中に閉じ込められた炎のようで、抑えようとしても抑えることができません。

神に従うことは、いつも成功や安心をもたらすとは限りません。むしろ、誠実に生きようとするために、誤解されたり、孤独になったりすることがあります。それでも神の言葉を本当に受け入れた人は、苦しいからという理由だけで、その言葉を捨てることはできません。

イエスは弟子たちに言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」自分を捨てるとは、自分を憎んだり、自分の命を粗末にしたりすることではありません。自分だけを人生の中心に置くことをやめることです。

自分の利益、自分の評価、自分の快適さ、自分の都合の良い考えだけを求めるのではなく、神と隣人への愛、御心を中心にして生きることです。また、十字架を背負うとは、すべての苦しみをただ黙って我慢することではありません。苦しみそのものを求めることでもありません。キリスト者の十字架とは、愛するために引き受ける困難、自分を捨てる重荷です。

家族を支えるための忍耐、真実を語るために受ける反対、誰かを赦すための痛み、弱い人に寄り添うために使う時間、与えられた責任から逃げずに果たす努力です。愛を選ぶために引き受けるもの、それが私たちの十字架です。

イエスはさらに言われます。「自分の命を救おうとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。」これは一見、矛盾しているように聞こえます。しかし、私たちの経験にも当てはまります。自分の幸福だけを追い求める人は、かえって幸福を失います。自分の利益だけを守ろうとすれば、人との信頼や愛を失ってしまいます。

反対に、愛のために自分の時間や力を差し出すとき、私たちは深い喜びを経験します。なぜなら、私たちは自分のためだけではなく、愛するために造られているからです。愛である神は、私たちをご自分の愛にあずからせるために造られました。

第二朗読で、パウロは言います。「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとしてささげなさい。」キリスト者のいけにえとは、命を否定することではありません。自分の体、時間、能力、仕事、日々の生活を、愛のために用いることです。そしてパウロは、「この世に倣ってはなりません」と語ります。この世は、快楽、金銭、権力、自分の満足を手に入れれば幸福になれると教えます。しかし、それらを自分のためだけに追い求めるなら、心は満たされません。

私たちは、心を新たにして変えられ、何が神の御心であるかを見分けるよう招かれています。

神の御心は、私たちが愛のうちに生きることです。

今日、私たちも自分に問いかけたいと思います。

私は、何を失うことを恐れているでしょうか。自分を守るために、愛することから逃げてはいないでしょうか。神は今、私にどのような十字架を、愛のうちに引き受けるよう求めておられるでしょうか。

神の喜びは愛することにあります。そして神の栄光は、ご自分を惜しみなく与えることにあります。

私たちもキリストに従い、自分だけを守る生き方を越えて、愛のために自分を与える者となりたいと思います。

そのとき、私たちは命を失うのではありません。むしろ、神のうちに本当の命と、誰にも奪うことのできない喜びを見いだすのです。


第一朗読 エレミヤの預言 20章7-9

第二朗読 ローマの教会への手紙 12章1-2

福音朗読 マタイによる福音 16章21-27


A年 第22主日 説教案


今日の福音で、イエスは弟子たちに、ご自分がエルサレムで苦しみを受け、殺され、三日目に復活することを初めて明らかにされます。

その直前、ペトロはイエスに向かって、「あなたはメシア、生ける神の子です」と、すばらしい信仰告白をしました。しかし、そのメシアが苦しみ、殺されると聞いた途端、ペトロはイエスを脇へ連れて行き、いさめます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロは、イエスの栄光を信じていました。しかし、十字架を通って栄光に至るという道は、受け入れることができませんでした。当時の人々は、メシアが現れれば、敵を打ち倒し、平和と豊かさに満ちた国を築くと期待していました。弟子たちもまた、イエスに従えば成功と栄光にあずかれると考えていたのでしょう。

ところがイエスは、勝利への近道ではなく、苦しみと死を通る道を示されます。もちろん、イエスが予告されたのは死だけではありません。受難、死、そして復活という過越の神秘です。十字架が最後なのではありません。しかし、復活に至る道から、十字架だけを取り除くことはできないのです。

そこでイエスは、ペトロに厳しく言われます。「サタン、わたしの後ろに退け。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」ここで「わたしの後ろに退け」とは、単に「あちらへ行け」という意味ではありません。「もう一度、わたしの後ろに来なさい」という意味です。

ペトロは弟子であるのに、いつの間にかイエスの前に立ち、イエスに進むべき道を教えようとしていました。しかし、弟子の務めは、師の前に立って道を決めることではありません。師の後ろを歩くことです。

私たちも同じ過ちを犯します。神の御心を求めているつもりで、実際には神に、自分の計画を承認してもらおうとすることがあります。苦しみのない信仰、犠牲のない愛、十字架のない自分に都合のよい栄光を望みます。しかしイエスは、そのような近道を示されません。

第一朗読のエレミヤも、神に従うことの苦しみを経験しました。

エレミヤは神から召され、人々に悔い改めを求めました。しかし彼が語らなければならなかったのは、人々が聞きたい心地よい言葉ではありません。「暴力だ、抑圧だ」と、社会の不正と罪を告発する言葉でした。そのため、エレミヤは嘲られ、迫害され、ついには神に向かって叫びます。「主よ、あなたはわたしを誘惑し、わたしは誘惑されました。」

神に従ったのに、なぜ苦しみばかりなのか。なぜ自分は召命に応えてしまったのか。エレミヤは、もう神の名によって語るまいと決心します。しかし、黙ることができません。神の言葉が、彼の心の中で燃える火となったからです。語れば嘲られる。しかし黙れば、心の中の火に焼かれる。エレミヤはこの葛藤の中で、それでも使命にとどまり続けます。

神に従う道は、必ずしも成功や安心を保証する道ではありません。誠実に生きようとすれば、誤解されることがあります。真実を語れば、反対されることがあります。愛を選べば、犠牲を求められることがあります。

しかし、今日の福音は、苦しみそのものを美化しているのではありません。イエスは「苦しみを探しなさい」とは言われません。「自分の十字架を背負いなさい」と言われます。キリスト者が求めるのは苦しみではなく、愛です。十字架は、愛と完全な自己奉献のしるしです。家族を支えるために忍耐すること、誰かを赦すために自分の痛みを乗り越えること、弱い人のために時間を使うこと、真実と正義を守るために不利益を引き受けること。善を行い、誰かを幸せにするために自分を差し出す人は、キリストとともに十字架を背負っています。

イエスは言われます。「自分の命を救おうとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。」これは、福音の不思議な逆説です。

一粒の麦を手の中に握り締めていれば、そのまま一粒で終わります。しかし、土の中に落とせば、外からは失われたように見えても、多くの実を結びます。

私たちの命も同じです。自分の利益、安全、評価、立場だけを守ろうとするなら、人生は次第に狭くなります。反対に、愛のために自分の時間や力を与えるとき、命は豊かになります。

命は、抱え込むことによってではなく、与えることによって見いだされるのです。

第二朗読でパウロは言います。「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとしてささげなさい。」

キリスト者の礼拝は、教会の中の儀式だけではありません。自分の体、時間、能力、仕事、苦しみ、喜び、その生活全体を愛のために神にささげることです。どれほど荘厳に典礼を行っても、それが愛の生活につながっていなければ、外面的な形式に終わってしまいます。ミサで神に自分をささげた私たちは、日常生活の中でも、自分を兄弟姉妹のためにささげるよう招かれています。人生の終わりに、私たちは何を神の前に差し出すことができるでしょうか。

蓄えた財産でも、得た地位でも、受けた称賛でもありません。最後に残るのは、私たちが行った愛の業です。この世的な輝きがすべて消えるとき、神の光の中で、一人ひとりの人生の本当の価値が明らかになります。今日、私たちは自分に問いかけたいと思います。

私はイエスの後ろを歩いているでしょうか。それとも、自分が先に立ち、神に自分の道を歩ませようとしているでしょうか。十字架のない栄光を求めるのではなく、愛のために自分を与えたイエスに従いましょう。

愛のためにささげられた命は、決して失われません。それは神のうちに、多くの実を結び、永遠の命として取り戻されるのです。



 
 
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