2026年9月13日 年間第24主日
更新日:4 日前
A年・年間第24主日
今日の典礼を貫いている一つの言葉があります。それは「ゆるし」です。
第一朗読のシラ書は言います。「隣人の不正をゆるせ。そうすれば、あなたが祈るとき、あなたの罪もゆるされる。」答唱詩編では、「主はあなたの罪をことごとくゆるし、私たちの罪に応じてあしらわれることはない」と歌います。
そして福音の最後でイエスは、「あなたがた一人一人が、心から兄弟をゆるさないなら、天の父もあなたがたに同じようになさる」と言われます。
さらに私たちは毎日のように、主の祈りの中で、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈っています。
つまり今日、聖書が私たちに問いかけているのは、とてもはっきりしています。私たちは、神からゆるされている者として、人をゆるしているだろうか、ということです。
第一朗読のシラ書は、紀元前二世紀ごろに書かれた知恵文学です。そこには、非常に現実的な人間理解があります。人に対する恨みや怒りを心に抱えながら、神に向かって「私をゆるしてください」と祈る。そのこと自体に矛盾がある、とシラ書は言うのです。恨みというものは、ただ相手との関係を壊すだけではありません。それは、私たちと神との間にも壁を作ります。相手をゆるせないという思いに心が占領されてしまうと、祈っていても、その心は自由ではありません。だからシラ書は、「隣人をゆるしなさい」と言います。
これは単なる人間関係の知恵ではありません。人をゆるすことは、神との関係にもかかわる、信仰の問題なのです。
そして今日の福音で、ペトロはイエスに尋ねます。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。七回までですか。」おそらくペトロは、自分ではかなり寛大なことを言っているつもりだったのでしょう。当時の考え方の中では、三回程度までゆるすという発想もありました。それをペトロは「七回」と言ったのです。ところがイエスは答えます。「七回どころか、七の七十倍までも。」これは、「490回まではゆるして、491回目からはゆるさなくてよい」という意味ではありません。
イエスは、そもそも「何回まで」という計算そのものをやめなさいと言っておられるのです。
実はこの言葉の背景には、創世記に出てくるレメクの言葉があります。レメクは、自分が傷つけられたなら何倍にもして復讐する、と宣言しました。暴力に暴力で答える。傷に、さらに大きな傷で答える。人類の歴史は、何度もその繰り返しを経験してきました。
しかしイエスは、その論理を完全に逆転させます。「七の七十倍まで復讐する」のではなく、「七の七十倍までゆるしなさい」。つまり、暴力の連鎖を断ち切るのは、さらに強い暴力ではなく、ゆるしなのだということです。そしてイエスは、有名な「仲間をゆるさない家来」のたとえを語られます。ある家来が王に、一万タラントンという途方もない借金を負っていました。到底返すことのできない額です。家来はひれ伏して、「どうか待ってください。必ず返します」と願います。
すると王は、待ってやるどころか、借金を全部帳消しにしてしまいました。家来の願いをはるかに超えることをしたのです。これが神の憐れみです。私たちが「少し待ってください」と願うと、神は「もうよい。すべてゆるす」と言ってくださる。私たちが想像するよりも、神の憐れみは大きいのです。そして私たちにとって、この神の憐れみは、イエスの十字架の贖いの中にある、私たちすべてが背負う負債をゆるす愛なのではないでしょうか。
ところがその家来は外へ出ると、自分に百デナリオンを借りている仲間に出会います。
そしてその人の首を締め、「借金を返せ」と迫ります。仲間も同じように、「どうか待ってくれ」と願います。しかし彼はゆるしません。ここに、このたとえの大きな対比があります。
自分は、到底返せないほどの借金をゆるしてもらった。ところが、自分に対する小さな借金は決してゆるさない。イエスが問題にしているのは、この矛盾です。もちろん、人から受ける傷がすべて小さいと言っているのではありません。人から受けた言葉や行為によって、長い間苦しむこともあります。簡単に忘れることのできない傷もあります。
しかしイエスが私たちに求めておられるのは、まず、自分が神からどれほど大きな憐れみを受けているかを思い出すことです。私たちは皆、「ゆるした者」である以前に、「ゆるされた者」なのです。聖アウグスティヌスは、簡潔にこう言いました。「ゆるされた者として、私たちもゆるそう。」これが今日の福音の核心でしょう。
キリスト者が人をゆるすのは、自分が立派だからではありません。心が広いからでもありません。自分自身が、まず神からゆるされたからです。神から受けた憐れみを、自分のところで止めずに、次の人へ渡してゆく。それがキリスト者のゆるしです。
そして第二朗読で、パウロはさらにその根本にあるものを示します。「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ。」なぜならキリストは、「死んで、そして再び生きられた」方だからです。つまり、私たちのゆるしの根源には、キリストの十字架と復活があります。キリストは、私たちが罪人であったときに、私たちのために命を与えてくださいました。十字架とは、罪に対して罪で答えず、暴力に暴力で答えず、人間の拒絶に対して最後まで愛で答えた出来事です。そして復活によって、その愛こそが最後には勝つのだということを、神は示されました。
ですから、人をゆるすということは、単に「いい人になる」ということではありません。
キリストの十字架と復活の生き方に参加することなのです。もちろん、ゆるすことは簡単ではありません。「今日から全部忘れます」と言って、心の傷がすぐ消えるわけでもありません。また、ゆるすことは、不正を正当化することでもありません。必要な責任を求めることと、ゆるすことは両立します。しかし少なくとも、相手への憎しみに自分自身を支配させないこと。受けた傷によって、自分の人生全部を決めさせないこと。そしていつか、その人を神の憐れみに委ねることのできる心を願うこと。そこから、ゆるしは始まるのだと思います。
私たちはこの後、主の祈りを唱えます。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」今日は、この言葉をいつもより少しゆっくり、心に留めながら祈りたいと思います。
神よ、あなたが私をゆるしてくださったように、私も人をゆるすことができますように。
私の中で、あなたの憐れみを止めてしまうことがありませんように。そして、恨みの連鎖ではなく、ゆるしの連鎖を、この世界の中に始める者となることができますように。
第一朗読 シラ書 27章30~28章7
第二朗読 ローマの教会への手紙 14章7-9
福音朗読 マタイによる福音 18章21-35
年間第24主日 説教案
今日の福音のテーマは「ゆるし」です。しかし、ゆるしほど、語るのは簡単で、実行するのが難しいものはありません。誰かに傷つけられたとき、私たちの中に自然に起こるのは、ゆるしではありません。腹が立つ。距離を取りたくなる。もう信じたくないと思う。場合によっては、仕返しをしたいとさえ思います。ですから、ある意味で、ゆるすことは自然ではありません。
イエスが求めておられるゆるしは、私たちの本能や常識を越えていくものなのです。
今日、ペトロはイエスに尋ねます。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。七回までですか。」当時、三回ほどゆるせば十分だという考えもありました。ですからペトロは、「七回」と言えば、かなり寛大だと思ったのでしょう。
ところがイエスは、「七回どころか、七の七十倍までも」と言われます。これは7の70乗倍まで数えなさいという意味ではありません。この計算の答えは数字ではなく、「いつでも」です。
ここでイエスは、創世記に登場するレメクの言葉を逆転させています。レメクは、自分が傷つけられたなら、「七の七十倍まで復讐する」と誇りました。傷つけられたら、もっと傷つける。悪を受けたら、もっと大きな悪を返す。これが人間の古い論理です。
しかしイエスは、それを完全に逆転させます。
七の七十倍まで復讐するのではなく、七の七十倍までゆるしなさい。ここに福音の革命があります。憎しみに憎しみを返せば、憎しみは終わりません。どこかで誰かが、「この悪の連鎖を、私のところで終わらせよう」と決めなければならない。それが、イエスの言われるゆるしなのです。では、なぜそこまでゆるさなければならないのでしょうか。
イエスは、一万タラントンの借金をした家来のたとえを語られます。これは、何千年働いても返すことのできない途方もない金額です。家来は王の前にひれ伏して、「どうか待ってください。必ず返します」と願います。しかし、返せるはずがありません。
ところが王は、その家来を「憐れに思い」、借金をすべて帳消しにします。ここで使われている「憐れに思う」という言葉は、単なる同情ではありません。心の奥底から揺さぶられるような深い愛を表す言葉・スプランクニゾマイです。つまり、この王は神を表しています。
神は、「仕方がないから、今回だけゆるしてやろう」とゆるす方ではありません。私たちが自由になり、もう一度生きることを、心の底から望んでくださる方です。それも御子が十字架の上でご自身を捧げ、世のあらゆる負債を贖うことをよしとされた方です。ところが、そのゆるされた家来は外へ出ると、自分に百デナリオンを借りている仲間に出会います。
その仲間も、彼自身が王にしたのとまったく同じように、「どうか待ってくれ」と願います。しかし彼は、ゆるしません。ここに、このたとえの核心があります。
自分は大きな憐れみを受けたのに、その憐れみを自分のところで止めてしまったのです。ある意味で彼は、「愛の循環を断ち切り、霊的な心筋梗塞を起こした」のだと言えます。心臓では、血液が流れなくなれば、その部分は死んでしまいます。神の愛も同じです。
神から私へ。私から隣人へ。そして、その人からまた別の人へ。愛は流れてこそ、生きたものになります。ところが、「神さま、私はゆるしてください。でも、あの人だけは絶対にゆるしません」と言うなら、神の愛の流れを、自分のところで止めてしまうのです。
ですから、この福音の最も大切な言葉は、「私たちがゆるすのは、私たちがまずゆるされたから」ということなのです。相手がゆるすに値するからではありません。まず神が、私をゆるしてくださった。それが出発点なのです。
もちろん、ゆるしは簡単ではありません。完全にゆるすことができるのは、神だけです。
私たちは「ゆるした」と思っても、記憶が残ります。心に錆のようなものが残ることもあります。そして、ゆるすとは、悪をなかったことにすることではありません。忘れることでもありません。不正を「たいしたことではなかった」と言い換えることでもありません。
ゆるしとは、その悪が、これから先も自分の人生を支配し続けることを許さないことです。憎しみに、自分の心の主人にならせないことです。だから、ゆるしは敗北ではありません。ゆるしは解放です。ゆるしは再生です。もう一度始める可能性を開くことです。
第一朗読のシラ書は、「自分の終わりを思い、憎しみをやめよ」と言います。
厳しい言葉ですが、非常に現実的です。私たちは永遠にこの世に生きるわけではありません。いつまでも誰かを憎み続けるほど、私たちの人生は長くありません。すべてには終わりがあります。ならば、その終わりが良いものであるようにしたい。何より、その終わりが神のうちにあるものとなるようにしたいと思います。
そして第二朗読でパウロは、「私たちは、生きるとすれば主のために生きる」と言います。ローマの教会にも、考え方の違う人々がいて、互いに裁き、軽蔑していました。
そこでパウロは、互いに受け入れなさいと言います。なぜなら、自分も、自分が受け入れにくいと思っているその人も、同じキリストによって受け入れられているからです。
今日の三つの朗読は、結局、一つのことを語っています。
神が私を受け入れてくださった。神が私を憐れんでくださった。神が私をゆるしてくださった。だから、私も人を受け入れ、憐れみ、ゆるしていく。ゆるしは、人間の常識から見れば、確かに少し「非論理的」です。しかし、それこそが十字架の論理です。十字架の上でイエスは、自分を十字架につけた人々のために、「父よ、彼らをおゆるしください」
と祈られました。
そのキリストが今日、私たちにも言われます。「私があなたをゆるしたように、あなたもゆるしなさい。」神から受けた愛を、自分のところで止めない。憎しみの連鎖ではなく、ゆるしの連鎖を始める。その恵みを、このミサの中で願いたいと思います。
