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23. 奉献文⑦―記念・奉献・取り次ぎの祈り
聖体制定のことばに続く奉献文の後半は、ミサの中で起こっている神秘を、教会があらためて深く受けとめて祈る部分です。 ここでは、キリストの受難・復活・昇天を 「記念」 し、十字架上の唯一のいけにえを御父に 「奉献」し、教会と世界、そして死者のために「取り次ぎの祈り」を捧げます。この 「記念・アナムネーシス」 は、単なる過去の回想ではありません。キリストの救いの出来事が、典礼の中で今ここに現存し、私たちはその恵みに参与します。 そして 「奉献」 において、教会はキリストの犠牲を御父に捧げるだけでなく、自分自身をもキリストに結ばれて捧げるよう招かれます。 ミサは、キリストだけが働かれる場ではなく教会全体がキリストに結ばれて神に向かう祈りでもあるのです。第一奉献文に登場するアベル、アブラハム、メルキゼデクの犠牲は、キリストの完全な奉献を前もって示すものです。アベルは神に最善をささげる姿を、アブラハムは愛するひとり子をささげようとする信仰を、メルキゼデクはパンとぶどう酒による神秘的な奉献を示しています。 これらはすべて、十字架上で御父に完全にささげら
2026年8月23日 年間第21主日
A年・年間21主日 聖書のメッセージ 私たちは毎日の生活の中で、さまざまな鍵を使っています。家の鍵、車の鍵、金庫の鍵。鍵は小さなものですが、扉を開き、また閉じる大切な働きをします。 そして、誰かに鍵を渡すことは、その人を信頼し、大切なものを委ねることを意味します。家の鍵は、誰にでも渡すものではありません。 今日の三つの朗読を結びつけているのも、この「鍵」です。 第一朗読では、宮廷をつかさどっていたシェブナが職を解かれ、代わってエルヤキムが選ばれます。神は言われます。「彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開けば閉じる者はなく、彼が閉じれば開く者はない。」当時、宮廷の鍵を持つことは、王に代わって宮殿を管理する権限を委ねられることでした。誰を王の前に通すのか、王の財産をどのように管理するのか。その大きな責任が託されたのです。 しかし、鍵を預けられた人は、宮殿の主人ではありません。主人の意志に従って家を管理する奉仕者です。権威は自分のためではなく、委ねられた人々のために用いられなければなりません。 今日の福音では、この鍵がイエスによってペトロに委ねられます
2026年8月16日 年間第20主日
年間第20主日 みことばのメッセージ「境界を越えていく神の憐れみ」 皆さん、私たちの生活の中には、さまざまな境界線があります。国と国との間には国境があります。社会には法律があり、してよいこととしてはならないことの境界があります。人間関係においても、互いの人格や生活を守るために、適切な距離や資格が必要です。 境界線そのものが悪いわけではありません。しかし、その境界線が、自分を守るためではなく、他者を見下し、排除し、自分たちの優越性を主張するために使われるとき、境界線は壁となります。壁は人を隔て、疑いを生み、ついには敵意を育てます。 今日のみことばは、そのような人間の造った壁を、神の憐れみが越えていくことを示しています。 福音の初めに、イエスはティルスとシドンの地方へ行かれます。そこはイスラエルの外、異邦人の住む地域です。イエスご自身が、まず国境を越えています。当時のユダヤ人は、異邦人と接触することによって宗教的に汚れることを恐れていました。しかしイエスは、異なる民族、異なる文化、異なる宗教を持つ人々の土地へ入ることを恐れません。...
2026年8月15日 聖母マリアの被昇天
聖母マリアの被昇天(8月15日・日中のミサ) みことばのメッセージ 今日は聖母マリアの被昇天の祭日です。 この祭日は、ともすると、マリアが空の彼方へ上っていったという、神話的な物語のように受け取られかねません。しかし、教会が今日祝っているのは、そのような単純な空間移動ではありません。被昇天とは、マリアの全存在が、魂だけでなく体も含めて、完全に神との交わりの中へと受け入れられたという信仰です。 今日の第二朗読で、聖パウロは復活について語っています。「最初に、初穂であるキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち。」キリストは、死者の中から復活された「初穂」です。そして、キリストに属する者たちもまた、キリストに続いて命へと導かれます。さらに最後には、すべてが神のもとに集められ、「神がすべてにおいてすべてとなられる」とパウロは語ります。 つまり、神の救いの目的は、人間だけをこの世界から切り離して救うことではありません。人間と被造物のすべてを、光と命と喜びに満ちた神のうちへと導くことです。 そのためには、人間と世界の中にあ
2026年8月9日 年間第19主日
A年 年間 第19主日 聖書のことば みことばのメッセージ 今日の御言葉全体は、困難の中で神を見いだし、信仰をもって歩むようにと招いています。 まず、第一朗読では、預言者エリヤがホレブの山で神と出会います。 エリヤは王妃イゼベルに命を狙われ、荒れ野へ逃れ、洞窟に身を隠していました。疲れ果て、恐れと孤独の中にあったエリヤに、主は言われます。「外に出て、山の上で主の前に立ちなさい」。すると、山を裂くほどの激しい風が起こります。しかし、主は風の中にはおられませんでした。地震が起こります。しかし、主は地震の中にもおられませんでした。火が起こります。しかし、主は火の中にもおられませんでした。その後、静かな、かすかな風の音が聞こえます。エリヤは、そこに主がおられることを悟り、外套で顔を覆いました。 神は、時には驚くべき出来事を通して御自身を現されます。しかし多くの場合、神は静けさの中で、私たちの心に語りかけられます。私たちは、目立つ奇跡や劇的な出来事を求めがちです。しかし、神は日々の祈り、聖書の言葉、良心の声、人から受ける小さな親切、困っている人を
2026年8・9月号 巻頭言
『 平和を実現する人は幸い(マタ5:9) 』 主任司祭 使徒ヨハネ 田中 昇 いつも夏になると、皆が 「平和、平和」 と言い始める。戦争反対、憲法九条、核兵器廃絶。さまざまな主張が飛び交うが、冷静に聞いていると、それぞれの言う平和が、どこか腑に落ちないことばかりだ。人間は立場も利害も正義も違う。平和という言葉は、政治や思想によって色づけられ、自分の立場を正当化する便利な標語にもなり得る。 しかし、私たちにはみことばがある。聖書で平和を表すヘブライ語の 「シャローム」、ギリシア語の 「エイレネー」は、単に戦争や争いがない状態を意味しない。壊れた関係が回復され、欠けていたものが満たされ、神と人、人と人との間に正しい秩序と調和が取り戻された、完全で健全な状態を指す。たとえ困難のただ中にあっても、神の義と慈しみが満ちている時、聖書は平和という言葉を使っている。 イエスは 「平和を実現する人々
2026年6・7月号 巻頭言
『 信徒使徒職を考え直すとき 』 主任司祭 使徒ヨハネ 田中 昇 今からちょうど60年前、第二バチカン公会議は、信徒の使命を、司祭や修道者の手伝いとしてではなく、洗礼によって与えられた大切な固有の召命として示しました。信徒は、教会の中だけでなく、家庭、職場、学校、地域社会の中で、キリストを証しするよう招かれています。 日本の教会は、社会の中では小さな群れです。データ上のカトリック信者数は対人口比率で0.3%と非常に小さく(外国籍信徒を含めると0.7%と推計されています)、司祭や修道者も年々減少しています。そのため小教区の歩みは、信徒の皆さんの力なしには成り立ちません。典礼奉仕、信仰教育、福祉活動、宣教広報、財務会計、施設の維持管理、行事の企画準備など、多くの働きが信徒の力によって支えられています。これは単なる 「人手不足の穴埋め」 ではありません。教会を共に担う信徒自身の尊い使命です。 しかし、信徒使徒職の中
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