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18. 奉献文②―叙唱
奉献文の叙唱は、ミサの中心 「感謝の祭儀」 へ入る大切な入口です。 司祭と会衆の三つの対句― 「主はみなさんとともに」 「心をこめて(心を上に)」 「(私たちの主に)賛美と感謝を捧げましょう」 ―によって、共同体全体は、これから行われる聖なる神秘に心を整えます。 これは単なる形式的な挨拶ではなく、少なくとも3世紀以来、教会が受け継いできた古い典礼の形です。 第一の対句 「主はみなさんとともに」 は、奉献文というミサの最も神聖な部分を始める前に、司祭と会衆がともに主の現存と助けを必要としていることを示しています。 この挨拶は、聖書において重大な使命を受けた人々に向けられた言葉 「主はあなたとともにおられる」 でもあります。ミサにおいても司祭だけが神秘に入るのではありません。会衆全体がキリストの生贄に与るため主の恵みを必要としている主体なのです。 第二の対句 「心を込めて=心を上に Sursum corda 」 は、信者全てに対して、日常の心配、雑念、地上の関心から離れ、心を神へ向けるように促す言葉です。聖書では 「心」 は単なる感情ではなく
17. 奉献文①―総論
現在のカトリック教会には主に、5世紀頃からローマ典礼の奉献文(Canon Romanus)として約1500年近く用いられてきた奉献文に依拠した第1奉献文をはじめ、第二バチカン公会議後に新たにカトリック教会が公認した第2、第3、第4奉献文、および2つのゆるしの奉献文、その他の種々の機会の奉献文があります。 第2奉献文は、3世紀初頭のローマのヒッポリトスの 『使徒伝承』 に記されている奉献文に依拠したもの、第3奉献文はローマ・アレクサンドリアの伝統をアンチオキア式に改めたもの、そして第4奉献文はシリア・ビザンチン様式の奉献文、現在でも東方教会で用いられている聖ワシリー(バシレイオス)の奉献文をモデルに起草されたものと言われています。 このように現在のカトリック教会の典礼は、初代教会の様々な伝統を尊重し、それらに依拠した豊かさを享受していると言えます。そのため司祭は、必要最小限で短時間に済ませられるという理由だけで、単一の奉献文だけを延々と用いるべきではなく、教会の典礼的伝統の多様性を適切に活かすように努める必要があるでしょう。奉献文の主な構成要素
16. 奉納③―司祭の手の清めと祈り
奉納の終わりの司祭の手の浄めと、「皆さん、ともにささげるこのいけにえを全能の神が受けれて下さるよう祈りましょう…」 という招きの意味を聖書と典礼の伝統に沿って考えてみましょう。 まず、司祭が手を洗う所作は、旧約の祭司たちの清めの儀式に由来します。幕屋や祭壇に近づく前に手と足を洗ったのは、単なる外面的な清潔のためではなく、神の前に立つための内的な清めを表していました。詩編24編が語るように、「汚れのない手」と「清い心」 は結びついており、神の臨在に近づくには心の清めが必要なのです。ミサにおいて司祭が祭壇の前で手を洗うのも、まさにこの意味を持ちます。司祭はいま、旧約の幕屋や神殿を超える聖なる場に近づこうとしてい ます。なぜなら祭壇の上で、パンとぶどう酒はキリストの御体と御血となり、神はご自分の民のもとに最も親しい姿で来られるからです。そこで司祭は、「主よ、わたしの汚れを洗い、罪から清めてください」 と祈り、自分もまた神のあわれみを必要とする者として、聖なる務めに備えます。そのため司祭は、続けて「皆さん、ともにささげるこのいけにえを…」 と会衆に呼
15. 奉納②―葡萄酒と水の混合
奉納の際の供物の準備の際に行われるぶどう酒と水の混合は、ミサの中ではあまり注目されない所作の一つかもしれません。しかし実際は非常に深い神学的意味を持っています。 まず、ぶどう酒に少量の水を加える儀式は、古代世界では日常的な慣習でしたが、教会はそこに象徴的意義を見いだしました。伝統的解釈では、ぶどう酒はキリストの神性、水は私たちの人間性を表します。 この両者が混ざり合うことは、神の子が人となられた受肉の神秘を示すと同時に、私たち人間がキリストを通して神の命にあずかるよう招かれていることを表しています。司祭が 「この水とぶどう酒の神秘によって…」 と祈るとき、そこには人間が神に結ばれるという救いの神秘が凝縮されています。 続いて、パンとぶどう酒の奉納の祈りは、ユダヤ教の食卓の祝福(ベラカ)に由来しつつキリスト教的意味を帯びたものとなっています。パンは 「命の糧」、ぶどう酒は 「救いの杯」 (直訳だと、「霊的飲み物」)とされ、神から受けた大地の恵みと人間の労働の実りが、神への感謝のうちに捧げられます。しかしここで重要なのは捧げられるのが単なる物で
14. 奉納①―供えものの準備
ミサ後半の 「感謝の典礼」 では、司祭が最後の晩餐でイエスがなさったことを記念し、パンとぶどう酒を聖別して、キリストの御体と御血として現存させます。この部分は、①供えものの準備、②奉献文・感謝の祈り、③交わりの儀、の三つに分けて考えることができます。 このうち 「供えものの準備」 は、初代教会の実践に起源があります。 信者たちはパンとぶどう酒だけでなく、油、蜂蜜、果実、羊毛なども祭壇に運びました。それらは典礼のためだけでなく、司祭の生活を支えたり、貧しい人々を助けたりするためにも用いられました。したがって奉納とは、単に物を差し出す行為ではなく、自分自身の生活や労働の実りを神にささげる行為だといえます。 パンとぶどう酒には、聖書における深い意味があります。パンは人間の命を支える基本的な食物であり、旧約において神への供えものとして用いられてきました。ぶどう酒もまた、日常の食卓や祝祭に欠かせないものであり、献酒として神にささげられました。したがって、これらをささげることは、物そのものを差し出すだけでなく、自分自身を神に奉献することを象徴していま
13. 共同祈願 (oratio fidelium/oratio universalis)
共同祈願は、「ことばの典礼の頂点をなす大切な祈りです。これはミサの比較的後代の付加ではなく、教会のごく初期から存在していた古い伝統に属します。 2世紀の殉教者ユスティノスは、聖書朗読と説教の後に、共同体全体が起立し、自分たちのためだけでなく、至るところにいるすべての人のために祈っていたことを証言しています。また、その源はさらに新約聖書にまでさかのぼります。ペトロが投獄されたとき、教会は彼のために熱心に祈り(使12:1-7)、パウロもまた、すべての人、とくに為政者のための執り成しを勧めました(1テモ2:1-4, 1テサ1:2-3, 2コリ1:11)。つまり共同祈願は、初代教会以来、教会共同体が世界のために神の前に立つ祈りとして受け継がれてきたのです。 この共同祈願の大きな意味は、信者がここで自らの祭司的務めを実行することにあります。『ローマ・ミサ典礼書の総則』(69-70項)が示すように、この祈りにおいて信者は、叙階された奉仕者だけでなく、修道者も信徒も含めて、神の民としての祭司職を具体的に表します。 キリスト者は、キリストによって「王の祭司
12. 信仰宣言
主日や祭日のミサで、福音朗読と説教の後、私たちは立ち上がって声を合わせて 「私は信じます」 と告白します。つまり私たちに「みことば」を語りかけ、信仰を新たにし、生きる決意を新たにした主なる神に、あらためて信頼の証を示す行為がそれです。 その言葉は定式化され習慣的に唱えているのでよく考えもせずに口にしているかもしれませんが、本来これは非常に重みのある言葉です。これは私たち自身の立場表明であり、人生の決意を示す宣言なのです。 信条はもともと洗礼式で唱えられた信仰告白でした。洗礼志願者は、教会が受け継いできた信仰を自分のものとして受け入れ、「私は信じます」 と公に宣言しました。これが使徒信条の形式とつながっています。 やがて信仰告白は、教会の正しい教えを守り、異端から信仰を守るための規準ともなりました。第一ニケヤ公会議(325年)の決議に基づくニケア・コンスタンチノープル信条がそれで、聖書全体の内容を凝縮した要約となっています。天地創造からキリストの受肉、十字架と復活、聖霊の働き、教会の歩み、そして永遠の命に至るまで、救いの歴史全体を受け止め信じま
11. 説教(ホミリア)について
典礼における説教は、みことばの朗読に続いてその意味を解き明かし、信者がそれを生活に生かす道を示す重要な教会の宣教的な任務です。 この実践は教会の初期から存在し、主日の典礼では司教が説教を担うことが一般的でした。しかし聖書朗読の後に説明をするという習慣自体は、すでに古代ユダヤ教に起源があります。エズラの時代には律法が朗読されるだけでなく、翻訳されその意味が解説され人々が理解できるように導かれていました。またシナゴーグでも同様の慣習があり、イエス自身もナザレの会堂で聖書を朗読し、それを説明しています。 このように説教は、神のことばを理解し、それを具体的な生活へ適用するための不可欠な手段として受け継がれてきた信仰の営みです。第二バチカン公会議も、説教は信仰教育の中で特別な位置を占めるべきものであり、秘跡を受けるための最良の準備となると教えています。説教は単なる解説や知識の伝達ではなく、信仰を生きるように信者を導く働きを持つからです。説教を行うことができるのは、叙階された聖職者、すなわち助祭、司祭、司教に限られています。 東方教会では助祭は伝統的に説
10. アレルヤ唱と福音朗読
第二バチカン公会議は、聖書全体が霊感を受けていることを前提としつつ、とりわけ福音朗読が、受肉したみことばであるキリストの生涯と教えについての最も優れた証言であり、かつキリストが私たちに語りかける現存的理解から、典礼における卓越した瞬間であると教えています。 この神学的理解は、典礼の具体的な所作に反映されています。まず福音朗読の前に会衆が起立するのは、今まさに語られる主を迎える姿勢を示すためであり、ネヘミヤ記において律法の朗読を聞く民が立った姿と通じています。またアレルヤ唱は 「主を賛美せよ」(ハレルヤ)という喜びの叫びであり、詩編や黙示録に見られる天上の賛美に連なるもので、福音において私たちのもとに来られるキリストを歓迎する意味を持ちます(四旬節には詠唱に置き換えられる)。さらに朗読福音書はろうそくや香を伴う行列のうちに朗読台へ運ばれその荘厳さが強調されます。この行列は東方教会では 「小聖入」(キリストの行進)と呼ばれます。朗読者である司祭や助祭は、福音をふさわしく宣べ伝えるために心と口の清めを祈りますが、これはイザヤが預言職に先立って天使か
9. 対句 ~神のみことば−神に感謝~
ラテン語規範版のミサ式次第では、すべての聖書朗読の最後に、朗読奉仕者は 「Verbum Domini=主のみことば」 と宣言します。 日本語の新しい式文では福音書でこの言葉を用い、それ以外の聖書朗読では 「神のみことば」 と言います。それは今朗読されたことばが、他でもない「これこそ神が今、私たちに語られたことば」 なのだという宣言なのです。それゆえ 「神のみことば」 と言う言葉は高らかに告げられるべき驚くべき宣言です。その事実に私たちは畏敬の念をもって心の底から 「Deo gratias=神に感謝」 と答えるのです。神が語りかけるということは実に驚くべきことです。それゆえこれらの言葉は、典礼の場で、付け足しのように小声で言うような対句ではありません。 そもそも神に感謝をささげるとは、歴史の中で神が示された慈しみと驚くべきみ業のゆえに神に感謝の気持ちを表す信仰者の基本的姿勢です。旧約から新約に至るまで神に感謝することは聖書における礼拝の基本・共通点です。 「神に感謝」 という独特なことばは、直接的には、罪と死から解放して下さった神に感謝するた
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