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2026年5月10日復活節第6主日
復活節第6主日A年 聖書のメッセージ「聖霊は、私たちを一人にしない」 今日の福音で、イエスは弟子たちに言われます。 「わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。」 弟子たちは、イエスが去って行かれることを感じ、不安になっていました。これから誰が自分たちを導いてくれるのか。困難や迫害の中で、どうすればよいのか。その弟子たちに、イエスは「もう一人の弁護者」、すなわち聖霊の到来を約束されます。 聖霊は、遠くにいる抽象的、ただ不思議な力ではありません。聖書において、聖霊は神の「息」「風」「力」、つまり神のいのちの息吹です。私たちを内側から動かし、支え、福音に従って生きる力、救いの恵みを与えてくださる方です。 人間には、正しい道を知っていても、その道を歩けない弱さがあります。律法は道を示します。しかし、道を示すだけでは人は目的地に着けません。道路標識があっても、車を動かす力、燃料がなければ進めないのと同じです。イエスは道を教えただけではありません。その道を歩む力、聖霊を与えてくださいます。 第一朗読では、フィリポがサマリアで福音を告げ知らせます。サマリア
2026年5月3日復活節第5主日
復活節第五主日A年 聖書のメッセージ 今日の福音でイエスは弟子たちに言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。弟子たちは、イエスがご自分の死を告げられたことで、不安と恐れの中にいました。これから何が起こるのか、自分たちはどうなるのか分からない。そのような弟子たちに、イエスはまず「信じなさい」と言われます。 この言葉は、今日の私たちにも向けられています。私たちも、病気、死、将来への不安、人間関係の悩み、教会や社会の問題の中で、心を騒がせることがあります。しかしイエスは、その不安のただ中で、「わたしを信頼しなさい」と招いておられます。信仰とは、ただ教えを知っていることではありません。自分の人生をキリストにゆだね、自分の生き方をキリストの上に築くことです。 第一朗読には、初代教会の中に起こった問題が描かれています。ギリシア語を話す信者たちのやもめが、日々の配給で軽んじられているという不満が起こりました。つまり、初代教会にも不満や対立があったのです。教会は、問題がまったく起こらない場所ではありません。人が集まるところに
2026年4月26日復活節第4主日
復活説A年第4主日 福音のメッセージ 今日の福音は、イエスご自身が「羊飼い」と「門」として語られる箇所です。これは当時の人々にとって、とても身近な情景でした。夕方になると羊飼いたちは羊を囲いに入れ、朝になると、それぞれの羊飼いが自分の羊を呼びます。羊たちはその声を知っていて、その羊飼いについて行きます。イエスはこのよく知られた光景を通して、御自分がどのようなお方であるかを教えてくださるのです。 まずイエスは、まことの羊飼いは盗人とは違う、と言われます。盗人は羊を利用し、奪い、傷つけます。しかし、まことの羊飼いは、羊のために生き、羊のために自分を与えます。ここに、イエスの姿があります。イエスは人々を支配するために来られたのではなく、救うために来られました。御自分の利益のためではなく、私たちの命のために来られました。そして最後には、十字架の上で御自分のすべてを差し出されました。良い羊飼いとは、羊を思い、自分を与える方です。キリストはまさにそのようなお方です。 しかし今日の福音は、イエスが羊飼いであるだけでなく、「門」であるとも語ります。これは大切です
2026年4月19日復活節第3主日
復活節A年第三主日「主は生き方を変えてくださる」 今日の第一朗読のペトロの宣言にある通り、教会とはまさに復活された主によって集められ、生かされている共同体です。第二朗読では、その復活の主によって、わたしたちが空しい生き方から救い出されたことが語られます。キリストの尊い血によって贖われ、信仰と希望とを神に向けて生きる者とされた。つまり、復活祭はただイエスに起こった出来事ではありません。わたしたち自身の生き方を変える出来事なのです。復活の主によって生き方を変えられる、それが教会の原点であることが示されています。これが今日のテーマです。 今日の福音には、二つの旅の歩みが出てきます。一つは、エルサレムからエマオへ向かう旅。もう一つは、エマオからエルサレムへ戻る旅です。クレオパとその仲間は、この二つの道のあいだで変えられました。これは、そのまま、わたしたち自身の信仰の姿でもあります。二人の弟子は、失望し、悲しみ、重い足取りで歩いていました。彼らはイエスに望みをかけていた。しかし十字架を見て、その希望は崩れたと思ったのです。だから彼らは、エルサレムから離れて
2026年4月12日 復活節第2主日
復活節第2主日(神のいつくしみの主日)「見ないで信じるのではなく、傷の中に復活の主を見る」 皆さん、今日の福音は、復活されたイエスが弟子たちの真ん中に立たれる場面です。弟子たちは、まだ復活を十分に理解できず、恐れの中にいました。戸に鍵をかけ、外の世界を恐れ、自分たちを守ろうとしていました。けれども、その閉ざされた場所のただ中に、主は入って来られます。そして最初にこう言われます。 「あなたがたに平和があるように。」 復活された主がまずお与えになるのは、平和です。責める言葉ではありません。「なぜ逃げたのか」「なぜ信じなかったのか」でもありません。主はまず、傷ついた弟子たちの心に平和を与えられるのです。 これは私たちにとっても同じです。私たちもまた、不安や恐れの中で心を閉ざしてしまうことがあります。失敗、罪、疲れ、人間関係の悩み、将来への不安。そうしたもののために、自分の心に鍵をかけてしまうことがあります。しかし復活の主は、閉ざされた心の外に立ち尽くす方ではありません。主はそのただ中に来てくださる。そして言われます。 「あなたに平和があるように。」..
2026年4・5月号 巻頭言
『 復活祭に寄せて 』 使徒ヨハネ 田中 昇 復活祭は、十字架にかけられて死なれた主イエス・キリストが、父なる神の力によって復活 されたことを祝う、教会の典礼年の頂点です。この出来事は、キリスト者の信仰の中心であり、すべての希望の源です。 今日の福音で弟子たちが最初に見たのは、復活した主のお姿そのものではなく、取りのけられた石、空になった墓、そして残された亜麻布でした。その中で、主に愛された弟子だけが 「見て、信じた」 と記されています。 ここに、私たちの信仰の姿があります。私たちもまた、復活した主を直接この目で見るのではなく、信仰の目によって主が生きておられることを知り、受け入れるのです。 復活とは、単なる過去の奇跡ではありません。死が人間にとって最後の現実ではなく、罪と死と絶望が最終的な力ではないことを示す出来事です。キリストの復活によって、神は私たちに新しい命への道を開いてくださいました。ですから復活祭は、ただ 「主は復活された」 と祝うだけの日ではなく、私たち自身が復活の希望のうちに生きるよう招かれる日です。古い罪の自
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