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2026年10・11月号 巻頭言
『 復活のいのち 』 主任司祭 使徒ヨハネ 田中 昇 ≪カタコンベに見る復活への希望≫ 皆さんは、ローマにあるカタコンベをご存じでしょうか。カタコンベは、アッピア街道沿いだけでなく、ローマ市内の古い聖堂の周辺などにも存在しています。ローマには、旧市街地区を除いても63か所ものカタコンベがあるといわれています。カタコンベとは、一般に 「地下墓地」 を意味する言葉です。実は、こうした地下墓地はキリスト教徒だけのものではありません。ユダヤ教徒や異教徒の墓地も存在し、互いに隣接している場合もあります。しかし、墓地を表す言葉には興味深い違いがあります。古代の墓地は、ギリシア語で 「ネクロポリス」(死者の町) と呼ばれることがありますが、キリスト教徒は墓地を 「コイメテリオン」 (眠る場所)とも呼びました。この言葉は、英語の cemetery やイタリア語の cimitero など、現代の言葉にも受け継
2026年10月11日 年間第28主日
A年 年間第28主日 みことばのメッセージ 今日の聖書朗読を一つに結んでいるのは、「宴」というイメージです。 宴というものは、どの文化でも、単に食事をする場ではありません。結婚式を考えればよく分かります。そこでは、喜びを一人で味わうのではなく、家族や友人、多くの人々と分かち合います。食卓を囲むことによって、友情や親しさ、交わりが生まれます。 今日の聖書が私たちに示している神も、そのような方です。神は御自分の喜びを人間と分かち合おうとされる。だから私たちを宴へと招かれるのです。その究極的なものが神の子羊の婚宴なのです。 第一朗読でイザヤは、シオンの山で神が盛大な宴を準備される姿を描いています。しかも、そこに招かれるのは一部の特別な人ではありません。「すべての民」です。その宴では、人間の顔を覆っている悲しみの覆いが取り除かれ、神はすべての顔から涙をぬぐわれます。そしてついには、「死を永久に滅ぼされる」と言われます。 ですから、この宴とは単なる食事ではありません。神が人間を御自分との交わりへ招き、悲しみも涙も、そして死さえも乗り越えてくださるという、
☘️シャムロックの丘第4弾「土曜学校」(2026年10月4日)
「土曜学校」の紹介です。


土曜学校
土曜学校は、聖パトリック幼稚園の先生が、未信者の子どもたちが卒園してからも神様のことを学ぶ機会があると良いのではないかと考えて始められたと聞いています。当初は少なかった参加者も年々人数が増え、現在では、小学校1年生から中学生、高校生、大学生、社会人まで約100名が在籍しています。中学生以上の皆さんはリーダーとして活躍しています。 田中神父の話を聞く子供たち 開校日は、基本的に毎月第2、第4土曜日です。午後2時から4時までの時間を3コマに分け、神様のお話の時間、心のお話の時間、遊びとおやつの時間としています。田中昇神父様はじめ幼稚園の園長・教職員、時には教会の信徒の方々が先生・講師となり、それぞれの時間を受け持ちます。神様のお話の時間では、1年生から3年生までは“子どもの新約聖書”を使って神様のことを学びます。4年生以上は大人の聖書を通読し、6年生の終わりになると聖書の中で一番心に残った箇所を一人ずつ、友達や保護者にスピーチしています。あるお子さんは、マタイによる福音書5章の『地の塩、世の光』を挙げて「私も世の光になりたい」と話していました。子
2026年10月4日 年間第27主日
A年 年間第27主日 みことばのメッセージ 今日の聖書には、「信仰の実を結ぶ」という一つの大きなテーマがあります。 私たちは「実を結ぶ」と聞くと、何か立派なことをしなければならない、もっと働かなければならない、もっと人の役に立たなければならない、と考えがちです。もちろん、人のために働くこと、善い行いをすることは大切です。 しかし今日の御言葉は、その前にもっと根本的なことを問いかけています。それは、私たちが誰と結ばれて生きているのかということです。 第一朗読のイザヤ書には、ぶどう畑の歌が登場します。主人は肥沃な土地を選び、石を取り除き、良いぶどうを植え、塔を建て、搾り場まで用意しました。できることはすべてしたのです。ところが、主人が良いぶどうを期待したのに、実ったのは酸っぱいぶどうでした。 このぶどう畑とはイスラエルの民です。 神はイスラエルを選び、守り、導かれました。しかし神が期待された「正義」の代わりに流血があり、「公正」の代わりに虐げられた人々の叫びがあった、とイザヤは語ります。 問題は、神から何も与えられなかったことではありません。むしろ反
29. 感謝の祭儀 交わりの儀⑤―聖体拝領「キリストとの一致」
みなさんは、ミサを 「婚宴」 だと考えたことがあるでしょうか。 ミサについて私たちは、「典礼」 「交わり」 「キリストの現存」 「いけにえ」 といった言葉を思い浮かべます。 しかし教会は古くから、聖体拝領を、花婿であるキリストと花嫁である教会との親密な一致として理解してきました。 ヨハネの黙示録19章では、天の大群衆が 「ハレルヤ」 と神を賛美し、「小羊の婚宴の日が来て、花嫁は支度を整えた」 と歌います。そして天使は、「小羊の婚礼の晩餐に招かれている者は幸いだ」(黙19・9)と宣言します。この 「小羊」 とは、世の罪を取り除くためにご自身をささげられたキリストであり、「花嫁」 とは教会です。 したがって小羊の婚宴とは、キリストと教会とが完全に結ばれる終末の喜びを表しています。この黙示録の言葉は、そのままミサの中に響いています。聖体拝領の直前、司祭は 「神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」 と告げます。これは黙示録19章9節の 「小羊の婚礼の晩餐」 への招きを、今ここで私たちに告げているのです。 つまり、ミサと天上の婚宴とは別々のものではあ
28. 感謝の祭儀 交わりの儀④―平和の賛歌(Agnus Dei)
聖体拝領の直前には、パンを裂くこと、御体と御血の混合、「神の小羊」 の唱和という三つの儀式があります。 まず司祭が聖体となったパンを裂く 「パンを裂くこと」 です。これはもともとユダヤ人の食事において、家長がパンを取り、祝福し、裂いて人々に分け与える行為でした。イエスも福音書の中で、パンの増加の奇跡、最後の晩餐、エマオの弟子たちとの食事においてパンを裂いておられます。 とりわけ福音書は 「パンを取る、賛美の祈りを唱える、裂く、与える」 という一連の動作を、パンの増加と最後の晩餐の双方に用いています。パンの増加が多くの人を養ったように、聖体においてキリストは、御自身を「命のパン」 として、あらゆる時代の人々に与えてくださるのです。 このため初代教会では、聖体祭儀そのものが 「パンを裂くこと」 と呼ばれました。使徒言行録は、キリスト者たちが日曜日に集まり、「パンを裂いていた」 と伝えています。またパウロは、「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体である」 と述べ、同じパンを分かち合うことの中に、キリストに結ばれた教会の一致を見ています。..
27. 感謝の祭儀 交わりの儀③―平和の挨拶
聖体拝領の前に司祭は次のように祈ります。 「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。『わたしは平和を残し、わたしの平和をあなたがたに与える。』 主よ、わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、おことばのとおり教会に平和と一致をお与えください。」 最後の晩餐でイエスが約束したことを思い起こす必要があります。イエスが与える平和は 「世が与えるような」 平和ではありません。 健康、仕事、財産、周囲の評価など、外的な条件に依存する平和は、状況が変われば失われてしまいます。しかしイエスの平和は試練や苦しみのただ中においても失われない、深い内的、霊的な平和です。イエスを人生の土台とし、信仰、希望、愛に生きるとき、私たちは困難に耐える力と喜びを与えられます。 この平和こそが、家庭、共同体、小教区、さらには社会の中に真の一致を築くものです。司祭は、個人の心の安定だけでなく、教会全体の平和と一致を願っているのです。この平和は、信者個人の功ではなく 「教会の信仰」 そのものに基づいて与えられることを式文は明言しています。 このことは、イエスの約束
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