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2026年6月14日 年間第11主日
年間第11主日 聖書のメッセージ 今日の福音は、宣教について語っています。イエスが群衆を見て深くあわれまれ、十二人の弟子を選び、彼らを宣教へと遣わされる場面です。 ここでまず大切なのは、宣教の出発点がイエスの心(御心)にある、ということです。宣教は、単に教会の活動を増やすことでも、組織を大きくすることでもありません。すべては、イエスが群衆を見て深くあわれまれたことから始まります。 福音は、群衆が「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれていた」と語ります。イエスは、その人々を見て、深くあわれまれました。この「あわれみ」という言葉は、ただ気の毒に思うという程度のものではありません。聖書の言葉では、はらわたが動かされるような、心の奥底から湧き上がる深いあわれみを意味します。 イエスは、人間の苦しみを遠くから眺める方ではありません。人々の疲れ、迷い、孤独、悲しみ、苦しみ、心身の傷を、ご自分の心の奥深くで受け止める方です。イエスの心は、人間の心でありながら、神の慈愛に満ちた心です。だからこそ、イエスの宣教は冷たい義務や熱狂的な活動ではなく、あわ
2026年6月7日 キリストの聖体
聖体の祭日 メッセージ 私たちは、困ったときには神を思い出します。苦しいとき、行き詰まったとき、自分の力ではどうにもならないとき、人は自然に神に向かって叫びます。 しかし、信仰にとって本当に危険なのは、苦しみだけではありません。むしろ、すべてがうまくいっている時こそ危険です。生活が安定し、食べ物があり、仕事があり、予定があり、便利なものに囲まれている時、人は神を否定するというより、神を忘れてしまうのです。 今日の第一朗読、申命記は、イスラエルにこう呼びかけます。 「あなたは心に留めなさい。主なる神が荒れ野であなたを導かれたことを。」 イスラエルの民は、荒れ野で自分の無力さを知りました。食べ物も水も、自分たちの力では手に入りませんでした。マンナも水も、神から与えられたものでした。荒れ野とは、人間が自分の力だけでは生きられないことを知る場所です。 そこでイスラエルは、決定的な真理を学びました。 「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる。」 もちろん、人間にパンは必要です。食べ物も、仕事も、住まいも、健康も必要です。し
2026年5月31日 三位一体の主日
三位一体の主日の意味 三位一体の主日に大切なのは、テルトゥリアヌスに由来する三位一体と言う概念を単に理解することではありません。三位一体は、信仰生活の中で生きるべき神秘です。 三位一体とは、父と子と聖霊という三つのペルソナにおける唯一の神の神秘です。しかし、それは単なる神学的な定式ではありません。三位一体は、神が孤独な絶対者ではなく、愛と交わりそのものであることを示しています。したがって、三位一体を信じるとは、教義を知識として覚えることにとどまらず、神の愛、赦し、交わり、派遣、救いの中に、自分の人生を置いて生きることを意味します。 まず問われるのは、「人はどのような神を信じているのか」ということです。単に「神を信じている」と言うだけでは十分ではありません。大切なのは、その神をどのような方として信じているかです。 人はしばしば、神を厳しく監視する方、罪を記録して最後に罰する方、遠くにいて人間の苦しみに関心を持たない方、あるいは必要な時だけ頼る対象として考えてしまいます。しかし、聖書が示す神はそのような神ではありません。 第一朗読の出エジプト記で
2026年5月24日 聖霊降臨の主日
聖霊降臨の主日聖書のメッセージ 「恐れから使命へ――聖霊は教会を動かす」 みことばを読むために 聖霊は教会を「新しい契約の民」として生かし、多様な賜物を一致へ導く神の力であるということです。 第一に、五旬祭はもともと農耕祭でした。初穂と収穫を祝う祭りでしたが、イスラエルはそれを救いの歴史の中に位置づけ、神と民との契約を記念する祭りとして理解するようになりました。さらにクムラン共同体では、五旬祭はエレミヤが預言した「新しい契約」の祭りとされ、清められた新しい民に神の霊が注がれる時として考えられていました。 第二に、聖霊の象徴として重要なのは「風」と「火」です。ヘブライ語では「霊」と「風」は同じ語で表されます。そのため、イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言う場面は、新しい創造を表しています。創世記で神が人に命の息を吹き入れたように、復活したキリストは弟子たちに聖霊を与え、新しい人間、新しい神の民を生み出します。 第三に、「火」「轟音」は神の顕現の象徴です。シナイ山やエリヤの物語において、火は神の力と超越性を示します。火は人間が
2026年5月17日 主の昇天
主の昇天 聖書のメッセージ 主の昇天によって、地上の弟子たちのあいだでは何が変わったのでしょうか。外から見れば、何も変わりませんでした。人々はそれまでと同じように、働き、食べ、旅をし、泣き、喜び、日々の生活を続けていました。使徒たちも、信仰をえたからといって、人生の苦しみや不安から免除されたわけではありません。 しかし、決定的に新しいことが起こりました。人間の存在の上に、新しい光が注がれたのです。霧の日に太陽が現れると、山も海も木々も花も鳥の声も、それ自体は変わりません。しかし、それらを見る目が変わります。同じように、昇天されたキリストを信じる者は、世界を新しい目で見るようになります。不幸、苦しみ、人間の過ちの向こうにも、主が御自分の国を築いておられることを見つめることができるようになるのです。 使徒言行録では、弟子たちが天を見上げていると、白い衣を着た二人が現れて言います。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」この言葉は、弟子たちだけでなく、私たちにも向けられています。信仰とは、ただ天を眺め、この世の問題から逃げることではあ
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