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2026年6月21日 年間第12主日
年間第十二主日 聖書のメッセージ 今日の三つの朗読には、共通する一つの流れがあります。それは、闇の中に光が差し込み、苦しみの中に希望が与えられ、恐れの中で神への信頼へと招かれる、という流れです。 今日の福音で、イエスは三度「恐れてはならない」と言われます。 「人々を恐れてはならない。」 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」 「だから、恐れるな。」 この言葉は、多くの殉教者たちを支えてきました。殉教者とは、ただ死を恐れなかった人ではありません。彼らも苦しみや恐れを知っていました。しかし彼らは、体を奪われても、魂までは奪われないことを知っていました。本当に魂を殺すものは、迫害ではなく、罪であり、神を拒むことです。 第一朗読の預言者エレミヤも、恐れと孤独の中に置かれていました。彼は、神の言葉を語ったために、人々から理解されず、憎まれ、同郷の人々からも疑われ、親しい人々からも裏切られました。神に従っているのに、なぜこれほど苦しまなければならないのか。彼はその苦しみを深く味わいました。 しかし、その中でエレミヤは告白します。...
2026年6月14日 年間第11主日
年間第11主日 聖書のメッセージ 今日の福音は、宣教について語っています。イエスが群衆を見て深くあわれまれ、十二人の弟子を選び、彼らを宣教へと遣わされる場面です。 ここでまず大切なのは、宣教の出発点がイエスの心(御心)にある、ということです。宣教は、単に教会の活動を増やすことでも、組織を大きくすることでもありません。すべては、イエスが群衆を見て深くあわれまれたことから始まります。 福音は、群衆が「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれていた」と語ります。イエスは、その人々を見て、深くあわれまれました。この「あわれみ」という言葉は、ただ気の毒に思うという程度のものではありません。聖書の言葉では、はらわたが動かされるような、心の奥底から湧き上がる深いあわれみを意味します。 イエスは、人間の苦しみを遠くから眺める方ではありません。人々の疲れ、迷い、孤独、悲しみ、苦しみ、心身の傷を、ご自分の心の奥深くで受け止める方です。イエスの心は、人間の心でありながら、神の慈愛に満ちた心です。だからこそ、イエスの宣教は冷たい義務や熱狂的な活動ではなく、あわ
2026年6月7日 キリストの聖体
聖体の祭日 メッセージ 私たちは、困ったときには神を思い出します。苦しいとき、行き詰まったとき、自分の力ではどうにもならないとき、人は自然に神に向かって叫びます。 しかし、信仰にとって本当に危険なのは、苦しみだけではありません。むしろ、すべてがうまくいっている時こそ危険です。生活が安定し、食べ物があり、仕事があり、予定があり、便利なものに囲まれている時、人は神を否定するというより、神を忘れてしまうのです。 今日の第一朗読、申命記は、イスラエルにこう呼びかけます。 「あなたは心に留めなさい。主なる神が荒れ野であなたを導かれたことを。」 イスラエルの民は、荒れ野で自分の無力さを知りました。食べ物も水も、自分たちの力では手に入りませんでした。マンナも水も、神から与えられたものでした。荒れ野とは、人間が自分の力だけでは生きられないことを知る場所です。 そこでイスラエルは、決定的な真理を学びました。 「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる。」 もちろん、人間にパンは必要です。食べ物も、仕事も、住まいも、健康も必要です。し
6月はみこころの月
「みこころの月」の根拠は、厳密に言えば“教義上、6月でなければならない”という掟ではありません。しかし、かなり強い典礼的・神学的・信心史的な根拠があります。 1. 神学的根拠:イエスのみこころは「キリストの愛」のしるし まず根本は、『カトリック教会のカテキズム』478番です。そこでは、キリストは受難と死に至るまで一人ひとりを愛し、ご自分を与えられたのであり、イエスの聖心は、すべての人を愛し続ける贖い主の愛の主要なしるし、象徴であると説明されています。 つまり「みこころ」とは、単に「イエスの優しい気持ち」ではありません。受肉した御子が、人間の心をもって、父と人類を愛し抜かれたことを指します。十字架上で貫かれたわき腹、そこから流れた血と水、聖体と洗礼、教会の誕生という神学的連関の中で理解されます。 2. 聖書的根拠:貫かれたキリスト 直接の聖書的根拠としては、ヨハネ福音書19章34節が重要です。兵士の一人が槍でイエスのわき腹を突き刺すと、すぐ血と水とが流れ出た。教会は古くから、この貫かれたわき腹を、キリストの愛、救いの泉、秘跡の源として黙想してきまし
2026年5月31日 三位一体の主日
三位一体の主日の意味 三位一体の主日に大切なのは、テルトゥリアヌスに由来する三位一体と言う概念を単に理解することではありません。三位一体は、信仰生活の中で生きるべき神秘です。 三位一体とは、父と子と聖霊という三つのペルソナにおける唯一の神の神秘です。しかし、それは単なる神学的な定式ではありません。三位一体は、神が孤独な絶対者ではなく、愛と交わりそのものであることを示しています。したがって、三位一体を信じるとは、教義を知識として覚えることにとどまらず、神の愛、赦し、交わり、派遣、救いの中に、自分の人生を置いて生きることを意味します。 まず問われるのは、「人はどのような神を信じているのか」ということです。単に「神を信じている」と言うだけでは十分ではありません。大切なのは、その神をどのような方として信じているかです。 人はしばしば、神を厳しく監視する方、罪を記録して最後に罰する方、遠くにいて人間の苦しみに関心を持たない方、あるいは必要な時だけ頼る対象として考えてしまいます。しかし、聖書が示す神はそのような神ではありません。 第一朗読の出エジプト記で
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