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2026年9月20日 年間第25主日
A年 年間第25主日 みことばのメッセージ 今日の第一朗読で、預言者イザヤは非常に印象的な言葉を語っています。 「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、あなたたちの道は、わたしの道とは異なる。」この言葉が、今日の福音を理解するための鍵になります。 福音では、ぶどう園の主人が、朝早くから何度も広場へ出て行き、働く人々を雇います。朝から働いた人、九時から働いた人、正午から、午後三時から、そして夕方五時になってようやく雇われた人もいました。ところが夕方、主人は全員に同じ一デナリオンを支払います。 すると朝から働いていた人たちは不平を言います。 「最後に来たこの人たちは一時間しか働かなかったのに、一日中、暑さの中で働いた私たちと同じ扱いをするのですか。」 私たちにも、その気持ちはよく分かります。普通に考えれば、確かに不公平に見えます。 しかし、このたとえは賃金制度について教えているのではありません。イエスが語っておられるのは、神の国、そして神の恵みについてです。主人は最初の人たちに約束した一デナリオンをきちんと支払っています。ですから、彼らが
2026年9月13日 年間第24主日
A年・年間第24主日 今日の典礼を貫いている一つの言葉があります。それは「ゆるし」です。 第一朗読のシラ書は言います。「隣人の不正をゆるせ。そうすれば、あなたが祈るとき、あなたの罪もゆるされる。」答唱詩編では、「主はあなたの罪をことごとくゆるし、私たちの罪に応じてあしらわれることはない」と歌います。 そして福音の最後でイエスは、「あなたがた一人一人が、心から兄弟をゆるさないなら、天の父もあなたがたに同じようになさる」と言われます。 さらに私たちは毎日のように、主の祈りの中で、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈っています。 つまり今日、聖書が私たちに問いかけているのは、とてもはっきりしています。私たちは、神からゆるされている者として、人をゆるしているだろうか、ということです。 第一朗読のシラ書は、紀元前二世紀ごろに書かれた知恵文学です。そこには、非常に現実的な人間理解があります。人に対する恨みや怒りを心に抱えながら、神に向かって「私をゆるしてください」と祈る。そのこと自体に矛盾がある、とシラ書は言うのです。恨みとい
2026年9月6日 年間第23主日
A年年間第23主日 みことばのメッセージ 今日の教会は、福音を現代の世界に伝えることの難しさを感じています。 多くの人々は、福音を正面から拒んでいるわけではありません。しかし、さまざまな情報や関心、安心や快適さを求める生活の中で、福音の声が埋もれてしまっています。そのため教会は、「新しい福音宣教」、すなわちキリスト教的な生き方を改めて築き直す必要を語っています。 しかし、福音によって変わらなければならないのは、教会の外にいる人々だけではありません。教会共同体そのものも、絶えず回心する必要があります。 教会の中にも、疲れや諦めがあります。健全な多様性がある一方で、互いを排除する派閥意識も生まれます。未来へ進もうとする人と、過去へ戻ろうとする人との間に、対立が起こることもあります。 教会は、弱さや罪から免れた、完全な人々の集まりではありません。罪は人と人との関係を壊し、共同体に分裂をもたらします。 今日の福音で、イエスはこの分裂を癒やすための具体的な治療法を示されます。それが「兄弟的矯正」です。 イエスは言われます。「兄弟が罪を犯したなら、行って、二
2026年8月30日 年間第22主日
A年 第22主日 みことばのメッセージ 今日の福音で、イエスは初めてご自分の受難を弟子たちに予告されます。 その直前、ペトロはイエスに向かって、 「あなたはメシア、生ける神の子です」と、すばらしい信仰告白をしました。しかし、そのイエスが、エルサレムで苦しみを受け、殺されると語られると、ペトロはそれを受け入れることができません。ペトロはイエスを脇へ連れて行き、いさめます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 ペトロが望んでいたのは、栄光に満ちたメシアでした。人々に認められ、敵に勝利し、力をもって神の国を実現するメシアです。しかしイエスが示されたのは、屈辱を受け、苦しみ、命をささげるメシアの道でした。ペトロは、イエスの栄光は望みましたが、その栄光に至る十字架の道は受け入れることができなかったのです。 そこでイエスは、ペトロに厳しく言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 なぜ、愛する弟子に対してこれほど厳しい言葉を言われたのでしょうか。それは、ペトロの言葉が、イエスを神の御心
26. 感謝の祭儀 交わりの儀②―主の祈りの副文
ミサの 「主の祈り」 に続いて、司祭はこう祈ります。 「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、世界に平和をお与えください」。 ここで願われる平和とは、単に争いがない状態ではなく、罪と苦悩から解放され、神への信頼のうちに生きる心の平和です。神の掟は、私たちを幸福へ導く道です。しかし我欲、高慢、嫉妬、色欲、貪欲に支配されると、心は落ち着きを失います。より多くの富や評価、快楽を求めながら、今あるものを失うことを恐れ続けるからです。 キリスト者もまた、仕事、小教区、家族、将来、経済状態、人からの評価などに不安を覚えます。責任を果たすことは必要ですが、心配が心全体を支配し、平和を奪うならば、それは神への信頼が弱まっているしるしです。 そこで司祭は、私たちを不安から解放し、キリストが与える深い平和を味わわせてくださるよう祈ります。そして、この世の試練の中でも、「救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望む」 という希望へと私たちを導きます。 これに対して会衆は、「国と力と栄光は、永遠にあなたのもの」 と答えます。この言葉は、イエスが教え
25. 感謝の祭儀 交わりの儀①―主の祈り
主の祈りは、イエスご自身が弟子たちに明確に教えた祈りであり、初代教会以来、大切に唱えられてきた祈りです。 初代教会の文献 『ディダケー』 によれば、初期キリスト者は一日に三度この祈りを唱えていたとされます。しかし、あまりに身近な祈りであるため、習慣的・形式的に、その意味も考えず単に唱えてしまう危険があります。 ミサの中で司祭が 「主の教えを守り、みことばに従い、つつしんで主の祈りを唱えましょう」 と招くのは、そのためです。この 「つつしんで唱えましょう」 は、ラテン語の audemus dicere に由来し、「畏れながらも、あえて言いましょう」 という意味を持ちます。注目すべきことに、この表現は東方教会の聖体礼儀(ミサ典礼)においても同じ表現となっています。 つまり主の祈りは軽々しく唱える定型句のようなものではなく、神に向かって大胆に、しかし畏れをもって語りかける心からの祈りなのです。というのも、この祈りの核心が、神を 「父」 と呼ぶことにあるからです。 古代ユダヤ教にも、神をイスラエルの父と考える伝統はありましたが、個人が神を親しく
24. 奉献文⑧―大いなる栄唱とアーメン
奉献文は、ミサの中心にある感謝と賛美の祈りです。 その結びで司祭は 「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに」 と唱え、御父にすべての誉れと栄光をささげます。これに対して会衆は 「アーメン」 と応えます。この応答は単なる返事ではなく、教父達が教えたように奉献文全体への信仰者の同意であり、神への賛美に自らも加わるしるしです。「アーメン」 はヘブライ語に由来し、「そのとおりです」 「まことに確かです」 という意味を持ちます。 聖書では、神の言葉や賛美に対する確かな信仰の同意を表す言葉として用いられてきました。旧約では民が神への祝福に 「アーメン」 と応え、共同体全体でその祈りを自分たちのものとしました。使徒パウロも、神への賛美の結びにこの言葉を用いています。黙示録にも、天使たちや聖なる者たちが神の前で賛美を捧げ 「アーメン」 と応える姿が描かれています。 彼らは神の玉座の前で、賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、権威が神にあるようにと礼拝します。したがってミサで唱える 「アーメン」 は、地上の会衆だけの声ではなく、天上の礼拝と結ばれ
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