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8. 聖書朗読
朗読奉仕とは、ミサの中で単に聖書を読み上げる作業ではなく、神ご自身が今ここで私たちに語りかけるために、人の声を用いられるという、きわめて重みのある奉仕です。語っておられるのは常に神であり、朗読奉仕者は自らの声を「神に差し出す」者として朗読台に立ちます。この点を取り違えると、朗読は自己表現や朗読技術の披露に堕してしまいます。 ミサでの聖書朗読は過去の出来事の追想ではなく、救いの出来事が典礼の中で現実に起きる場です。霊感を受けて記された聖書の言葉は、ミサにおいて再び「生きた神のことば」として響きます。そのため朗読奉仕者は、自分を出すのではなく、神の語りかけを人々に示すのです。この奉仕のためには適切な準備と内的態度が要求されます。朗読箇所を事前に祈りの心で読み、文脈と主題を理解し、言葉一つひとつを大切に扱う、丁寧に発声することは最低限のマナーです。ただただ慌ただしい、あるいは騒々しい読み方や、発声が明瞭でなく聞き取れないといった聴く人に声が明確に届かない読み方は、共同体のみならず神のことばへの敬意を損なうものです。 朗読奉仕において最も重要なのは単
7. ことばの典礼
ミサの開祭の儀は、神との深遠な出会いへの重要な準備です。かつてイスラエルの民がシナイ山で神と出会う前に、深い畏れの念のうちに3日かけて自らを清めて備えたようにキリスト者も入祭の祈り、十字架のしるし、回心の祈り、あわれみの賛歌、栄光の賛歌を通して神の前に自らを謙らせ心を整えます。それはシナイ山での神秘をはるかに超える神との出会いへの備えなのです。キリスト者は、二つの食卓と呼ばれてきたように、神が聖書のことばを通して語り霊的な力を与え(ことばの典礼)、さらに聖体の秘跡(感謝の典礼)において自らの命を与えられるという比類ない神との交わりに参与します。聖体の秘跡はキリスト信者の生活の「源泉であり頂点」ですが、聖書のみことばは、その聖体に現存されるイエス・キリストとのより深い交わりへと私たちを導く役割を果たします。そのためこの二つの食卓のどちらか一方だけにあずかることは本来あり得ません。入祭の準備もせず、みことばを聞いて祈ることなしに聖体だけに与る行為は、秘跡や典礼を形式主義化、空洞化することにつながる危険があります。キリスト者は、霊感を受けた聖書の神のこ
6. 典礼の公式祈願と聖書朗読配分
ミサは基本的に同じ構造をもってはいるものの、待降節、降誕節、四旬節、復活節、年間(34週)、その他種々の機会のすべてのミサには、それぞれのミサのための公式祈願と聖書朗読が教会によって割り当てられていて、一つとして同じものはありません。 ただし、典礼暦に沿った日々のミサの公式祈願や聖書および詩編の箇所、さらに典礼色は、ローマ・カトリック教会に属する全世界の教会に共通なものとなっています。多少の翻訳の違いはあれ、同じ主日の聖書箇所や祈願は、全世界で一致した同じ内容のものが捧げられています。そしてこれらは個人の好みで勝手に変更することはできません。 公式祈願とは、それぞれの日ごとの福音的主題に基づくミサの意向を反映する教会が定めた集会祈願、奉納祈願、拝領祈願および入祭唱、拝領唱からなる祈りです。初めの三つの祈願は司祭が共同体を代表して祈りますが、入祭唱と拝領唱は、共同体全体(ないし先唱者)が唱えるか同じ内容の歌を歌うことが可能です。いずれにしても公式祈願は、共同体として心を合わせて共に祈るもので一定のその日の典礼の意義を示す秩序をもった祈りです。..
5. 栄光の讃歌―グローリア
グローリアは、キリエにおける 「いつくしみを求める叫び」 に対して神が応答してくださるかのように始まります。典礼の流れは、悔い改めの陰影から一気に喜びの賛美へと転じ、冒頭の 「天には神に栄光、地には御心にかなう人に平和」 という言葉は、キリスト誕生の夜に天使が羊飼いたちへ告げた賛歌そのものです。この一句を日曜日のミサで歌うとき、私たちは聖堂にいながら、あのベツレヘムの野に招き戻されることになります。 グローリア全体は聖書の多様な呼称や賛美句を組み合わせた“聖書的モザイク”であり、これを祈る者は、天使や聖人たちの賛美に現実的に参与することになります。祈りはまず御父への賛美から始まります。「全能の神」「天の王」 という呼称は旧約聖書に深く根ざしており、神が天と地を支配する王であることを示すものです。しかしグローリアは、単なる支配力としての“全能”ではなく、「父としての全能」 としてこの力を理解するよう私たちを導きます。つまり神は、力を誇示するために全能であるのではなく、子どもたちに善を与えたいがために全能であられるのです。 こうした理解に基づき、私
4. いつくしみの讃歌―キリエ
典礼で唱えられる三重のあわれみの祈り 「主よいつくしみを(キリエ・エレイソン)」 は、回心の祈りで自らの罪を三度認める行為(mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa)と呼応しており、さらに後に歌われる 「聖なるかな・サンクトゥス」 や 「神の子羊・アニュスデイ」 の三重の祈りとも対応しています。信者はこの祈りを通して、天使と聖人が永遠に神の聖性を讃える天上の礼拝に加わり、神の臨在に近づく典礼の中で、畏れとへりくだりをもって神のいつくしみと救いを求めます。 この祈りは、キリスト者の生き方の基本姿勢です。福音書には、自分自身のためだけでなく、愛する者のために神のあわれみを求めてイエスのもとに来た人々が描かれています。カナンの女が娘のために叫び、父親がてんかんの息子のために訴えたように、私たちもミサでキリエを唱えるとき、大切な人々を神に委ねて祈ることができます。職を失った友人、病の隣人、信仰から離れた家族など、誰のためにも祈ることが許されています。 この祈りがギリシア語のまま残されているのは、教会の起源への敬意と伝
3. 典礼的挨拶
ミサなど典礼における挨拶、「主はみなさんとともに」 は、単なる挨拶や儀礼的な形式ではなく、聖書の中で神が選ばれた人々に向けて語られた、使命と同伴の約束の言葉です。 アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセなどの義人たちは、重大な使命を前に 「主はあなたとともにいる」 という励ましを受けました。彼らはいずれも自分の力ではなく、神がともにおられることへの信頼によって、その困難を乗り越えました。特にモーセは、自らの能力の限界を感じながらも、「わたしはあなたとともにいる」 という神の言葉に支えられ、神の力が自らの弱さを補うことを体験したのです。同様に、私たちもそれぞれの生活の中で、家庭や職場、信仰生活において神から託された使命を担っています。時にその重さに圧倒され、無力さを感じることがあるでしょう。しかし典礼の冒頭で司祭が宣言する 「主はみなさんとともに」 という言葉は、まさにそのような私たちに向けられた神の励ましであり、どんな状況でも神がともにいてくださるという確信を新たにするものなのです。 この挨拶によって、私たちはモーセと同じように、神の助けに信頼し、
2. 十字架のしるし
カトリック信者は祈りの初めに「父と子と聖霊の御名によって」と唱えながら十字架のしるしを行います。初代教会では日常のあらゆる場面で十字を切る習慣があり、それこそ信仰の証であり悪に対する守りと考えられていました。教父チリロはこの印を「忠実のしるし」であり「悪魔への脅威」と述べ、信者はそれを常に自らの上に印すよう勧めていました。旧約のエゼキエルは、額に「十字のようなしるし」を受けた正しい人々が神の裁きから守られたと述べており新約の黙示録もこれを継承し信者が神に属する者として区別される象徴としていました。現代の信者も十字架のしるしによって、世俗的考えや価値観から離れ神の保護を願いキリストの愛と正義に基づく生き方を選ぶ決意を新たにするのです。また「父と子と聖霊の御名によって」という言葉は、単なる祈りの形式ではなく「神の御名のうちに」祈るという深い意味を持っています。聖書では御名は神の本質と力を表すため、御名によって祈るとは神の臨在を招きその力に頼ることを意味します。新約聖書はイエスの名には癒しと赦し、悪を退ける力があると証言し、主の名において集うところにキ
1. ミサとは
わたしたちは、ミサにただ習慣として参加し、意味を理解しないまま定型の言葉や動作を繰り返していないでしょうか。 もしそうなら、信仰は生活から切り離され、祈りは力を失い、福音の喜びも失われてしまいます。しかし、ミサは決して退屈な義務的な儀式ではありません。そこには目に見えない神秘の力があり、神と出会い、教会と交わるかけがえのない信仰体験が隠されています。 その神秘に気づき、御言葉を心から味わうとき、たとえ困難の中にあっても、私たちは神に導かれて歩み続けることができるのです。 ミサの祈りの言葉も、動作も、祭具も、すべて聖書に根ざしています。「主はみなさんとともに」「神に感謝」「神の子羊」――それらは単なる言葉ではなく、聖書の出来事を今ここで再現する響きです。ろうそくの光も、香の煙も、座ることも立つことも、お辞儀をしたり跪いたりする所作も、すべて御言葉の神秘を目に見える形にしています。 ミサにあずかるとは、その御言葉に生き、神との交わりに生きる民の一員として、自分自身の信仰を新たにし続けることなのです。 福音宣教とは、知識の伝達や形式的な活動では
2026年7月26日 年間第17主日
A年 第17主日 みことばのメッセージ 私たちは皆、何かしら自分にとっての「宝」を求めて生きています。 考古学者ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見した時のことです。小さな穴からろうそくを差し入れ、中をのぞいた彼は、しばらく言葉を失いました。あまりの驚きに、身動きもできなかったと言われます。仲間たちが「何が見えるのか」と尋ねると、彼はようやくこう答えました。「すばらしいもの、すばらしいものだ」。 人は、本当に価値あるものに出会うと、言葉を失います。そして、その宝が人生の見方を変えてしまうことがあります。 今日のみことばの中心にも、「宝」があります。 第一朗読では、若きソロモンが登場します。彼は王となりましたが、自分の未熟さをよく知っていました。大きな民を治める責任の前で、自分の力だけでは足りないことを知っていたのです。神は彼に言われます。「あなたに何を与えればよいか、願いなさい」。 もし私たちが同じように問われたら、何を願うでしょうか。健康でしょうか。長寿でしょうか。財産でしょうか。成功でしょうか。ライバルに勝つことでしょうか。なかなか本
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