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7.ことばの典礼

  • 7月26日
  • 読了時間: 2分

 ミサの開祭の儀は、神との深遠な出会いへの重要な準備です。かつてイスラエルの民がシナイ山で神と出会う前に、深い畏れの念のうちに3日かけて自らを清めて備えたようにキリスト者も入祭の祈り、十字架のしるし、回心の祈り、あわれみの賛歌、栄光の賛歌を通して神の前に自らを謙らせ心を整えます。それはシナイ山での神秘をはるかに超える神との出会いへの備えなのです。キリスト者は、二つの食卓と呼ばれてきたように、神が聖書のことばを通して語り霊的な力を与え(ことばの典礼)、さらに聖体の秘跡(感謝の典礼)において自らの命を与えられるという比類ない神との交わりに参与します。聖体の秘跡はキリスト信者の生活の「源泉であり頂点」ですが、聖書のみことばは、その聖体に現存されるイエス・キリストとのより深い交わりへと私たちを導く役割を果たします。そのためこの二つの食卓のどちらか一方だけにあずかることは本来あり得ません。入祭の準備もせず、みことばを聞いて祈ることなしに聖体だけに与る行為は、秘跡や典礼を形式主義化、空洞化することにつながる危険があります。キリスト者は、霊感を受けた聖書の神のことばと、聖体の秘跡のうちに現存する受肉した神のみことばの両方によって養われる必要があります。

 キリスト教の伝統には神聖な読書(lectio divina)と呼ばれる、信仰者がみことばに向かう基本的な原則があります。これには4つの柱があります。聖書のみことばの的確な解釈に向かうように読むこと(lectio)、聖書の意味と私たちに語り掛ける神の声を祈りのうちに深く理解すること(meditatio:黙想)、私たちのことばで祈り私たちにみことばを告げ知らせた主に応えること(oratio 祈り)、そして聞いて考え、祈って受けとめたみことばを人生において祝うこと、実践すること(actio 行動)です。キリスト信者は、主のみことばである福音のメッセージを受け取り、それを告げるように招かれているのですから、受け取ったことを信じ、信じたことを宣べ伝え、宣べ伝えたことを自らも何らかの仕方で実行せずにはいられないはずです。

 ミサが終わって聖堂を一歩出たら、その日、神様があなたに語られたことを忘れてしまうような虚しい典礼への参与だけは避けたいものです。

 
 
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