5.栄光の讃歌―グローリア
- 7月26日
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グローリアは、キリエにおける 「いつくしみを求める叫び」 に対して神が応答してくださるかのように始まります。典礼の流れは、悔い改めの陰影から一気に喜びの賛美へと転じ、冒頭の 「天には神に栄光、地には御心にかなう人に平和」 という言葉は、キリスト誕生の夜に天使が羊飼いたちへ告げた賛歌そのものです。この一句を日曜日のミサで歌うとき、私たちは聖堂にいながら、あのベツレヘムの野に招き戻されることになります。
グローリア全体は聖書の多様な呼称や賛美句を組み合わせた“聖書的モザイク”であり、これを祈る者は、天使や聖人たちの賛美に現実的に参与することになります。祈りはまず御父への賛美から始まります。「全能の神」「天の王」 という呼称は旧約聖書に深く根ざしており、神が天と地を支配する王であることを示すものです。しかしグローリアは、単なる支配力としての“全能”ではなく、「父としての全能」 としてこの力を理解するよう私たちを導きます。つまり神は、力を誇示するために全能であるのではなく、子どもたちに善を与えたいがために全能であられるのです。
こうした理解に基づき、私たちは 「主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の栄光のゆえに感謝する」 と繰り返すことで、神が“神であるがゆえに”賛美されるにふさわしい方であると告白します。ここには、神の恵みそのものではなく、神の善性ゆえに神を愛し、礼拝するという純粋な信仰の姿が表されています。続く部分では、キリストの救いの使命が三幕の物語のように描かれます。第一に、イエスは 「御ひとり子」 「父のみ子」 と呼ばれ、ヨハネ福音書が告げるように、受肉した永遠の神の言(ロゴス)として賛美されます。第二に、イエスは 「神の小羊」 として示され、世の罪を取り除くために献げられた新しい過越の小羊であることが告げられます。黙示録に描かれた“小羊の勝利”の情景が響き、祈りを唱える者は天上の礼拝に加わることになります。そして第三に、イエスは 「父の右に座しておられる方」 として称えられ、復活と昇天によって全権を与えられた主として現れます。このように、受肉から贖い、昇天に至るキリストの全使命が、グローリアの短い祈りの中に凝縮されています。
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栄光の讃歌の中盤では、キリストの救いの使命が、三幕の物語のように描かれます。第一に、イエスは 「御ひとり子」 「父のみ子」 と呼ばれ、ヨハネ福音書が告げるように、受肉した永遠の神の言(ロゴス)として賛美されます。第二に、イエスは 「神の小羊」 として示され、世の罪を取り除くために献げられた新しい過越の小羊であることが告げられます。黙示録に描かれた 「小羊の勝利」 のビジョンが響き、祈る者は天上の礼拝に加わることになります。そして第三に、イエスは 「父の右に座しておられる方」 として称えられ、復活と昇天によって全権を与えられた主として現れます。
このように、受肉から贖い、昇天に至るキリストの全使命が、グローリアの短い祈りの中に凝縮されています。グローリアはさらに踏み込んで、イエスを 「唯一の聖なる方 solus Sanctus」 「唯一の主 solus Dominus」 「唯一のいと高き方 solus Altissimus」 と宣言します。これらはいずれも旧約聖書でイスラエルの神を指す称号であり、イエスの神性を率直に告白するものです。とりわけ「主」はギリシア語で 「キュリオス」 と呼ばれ、本来ローマ皇帝の称号でしたから、「イエスこそ唯一の主である」 という宣言は、古代世界においては極めて反体制的で勇気の伴う信仰告白でした。
多くの初代教会のキリスト者が命をかけて 「皇帝ではなくイエスこそ主である」 と語り続けた背景にはこの信条があります。グローリアは今日の私たちにも、仕事や財産、名誉や個人的な満足といったもの以上にイエスを唯一の主として生きる覚悟を問いかけています。この祈りは、「聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに」 キリストを称える一句で結ばれ、三位一体への礼拝の頂点に達します。続いて司式者は会衆を 「集会祈願」 へと導き、ミサに集う人々の祈りの意向を一つにまとめ、聖霊の交わりの中で御子を通して御父へと捧げ、開祭の儀を締めくくります。
私たちが主日のミサでグローリアを歌うのは、クリスマスに天使たちが歌った賛歌を繰り返しているのと同じことですが、それはいうなればミサそのものが 「毎回の小さな降誕祭」 だからです。神はかつてベツレヘムの幼子イエスにおいてご自身を示されたように、今も聖別の瞬間に祭壇上で秘跡的に現存してくださいます。そのため、私たちは天使の賛歌を繰り返し歌いながら、再臨される主を迎える心を整えていくのです。
