1. ミサとは
- 7月25日
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更新日:22 時間前
わたしたちは、ミサにただ習慣として参加し、意味を理解しないまま定型の言葉や動作を繰り返していないでしょうか。
もしそうなら、信仰は生活から切り離され、祈りは力を失い、福音の喜びも失われてしまいます。しかし、ミサは決して退屈な義務的な儀式ではありません。そこには目に見えない神秘の力があり、神と出会い、教会と交わるかけがえのない信仰体験が隠されています。
その神秘に気づき、御言葉を心から味わうとき、たとえ困難の中にあっても、私たちは神に導かれて歩み続けることができるのです。
ミサの祈りの言葉も、動作も、祭具も、すべて聖書に根ざしています。「主はみなさんとともに」「神に感謝」「神の子羊」――それらは単なる言葉ではなく、聖書の出来事を今ここで再現する響きです。ろうそくの光も、香の煙も、座ることも立つことも、お辞儀をしたり跪いたりする所作も、すべて御言葉の神秘を目に見える形にしています。
ミサにあずかるとは、その御言葉に生き、神との交わりに生きる民の一員として、自分自身の信仰を新たにし続けることなのです。
福音宣教とは、知識の伝達や形式的な活動ではありません。神を知る恵みと、その愛に生きる喜びが自然にあふれ出て、周りの人々に伝わっていくことです。その源泉はまさにミサにあります。
ミサを単なる儀式としてではなく、教会活動付属物でもなく、神との交わりの体験として深く生きるとき、私たち自身が福音の証し人へと変えられていくのです。――だからこそ、今一度、ミサの意味を考えてみましょう。それは義務ではなく、退屈でもなく、神がわたしたちを招き、喜びと力に満ちた新しい生き方へと導く神秘の体験なのです。
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ミサとは、イエス・キリストが最後の晩餐で定められた「神の愛の記念」であり、イエスを贖いの捧げ物とした「新しい契約」の祭儀です。イエスは私たちの罪のゆるしのために自らを犠牲として捧げ、その愛の業がミサにおいて現実とされるのです。ミサの「記念」(anamnesis)とは単なる思い出ではなく、旧約の感覚から言うと、キリストの犠牲を「今ここで生きる者として受け取ること」を意味します。ミサは「天の国の祝宴」の予表であり、聖体拝領(communimo:交わり)を通してキリストと一致し、花婿であるキリストと花嫁である教会(信者である我々)が一つに結ばれる「神の婚宴」の神秘に参与する行為である。地上の典礼は、天上の礼拝と一体となる「天国の体験」でもあります。さらにミサは、「神の民全体の業」であり、司祭だけでなく信者一人ひとりがそれぞれの賜物をもって愛の奉仕にあずかる場です。典礼(liturgia)は「民の奉仕」を意味しており、信仰共同体全体による神への応答と言えるものです。ミサは、教会の「信仰の源泉であり頂点」であり、ここからすべての宣教の力が生まれるところのものです。信者はミサを通して神の愛に触れ、その感謝と感動に生きることで自然と福音を証しする者となるのです。ラテン語の「Missa(ミサ)」が示す通り、ミサの最後の言葉「ite, missa est(行きなさい、派遣です/ミサは終わりました)」という言葉は、信者が世へ出ていってキリストの愛を伝える使命を受けることを意味しているのです。この恵みを十全にいただくためにはどうしたらいいでしょうか。それは私たち一人一人の信仰における応答が不可欠なのです。もし自分が福音の招きに心打たれていない、宣教や愛の奉仕、共同体的な交わりに生きることができていないと感じるなら、自らの信仰の内実をまず確かにすること、祈りの生活を見直すことから始めたら良いと思います。
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典礼という言葉は本来 「民の奉仕」 という意味を持ち、信者が集まって共に神に仕えるという教会全体の生きた行為そのものを指します。
それゆえ典礼は司祭だけが主体的に行為し信者は静かに見物するショーではありません。ミサは信者個人の内的な祈りの場ではなく神の民として一つに集まることから始まります。ミサを祝うのは聖堂に参列する者だけではなく、教会全体つまり地上の信者と、天上の聖人・殉教者・天使たち全体であり、普遍的な教会がミサの中で一つの礼拝を捧げるのです。
そのためミサは一つの聖堂に集う人々の礼拝ではなく天と地が同時につながって神を賛美している神の民の礼拝の現場なのです。まずミサの初めに十字架を先頭に、蝋燭の灯りに囲まれ、白い衣を身に着けた奉仕者や司祭が祭壇へ進み、香が焚かれる──この典礼の光景は単なる伝統的な宗教的飾りではありません。これらは黙示録が描く天上の礼拝の姿を、今ここで見える形で示す現実です。白い衣は洗礼によってキリストを身にまとう者とされたしるしであり、ろうそくの光は聖霊の働きと神の臨在を示し、香は私たちの祈りが神の前に捧げられることを表します。
こうして私たちはミサにおいて地上の教会堂にいながら天上の礼拝に共に参与し歌い祈っているのです。その中心にいるのは主キリストです。典礼の真の主役はキリストであり司祭はそのかたどりです。
本来、典礼は 「神の民」 全体の交わり、互いに仕え合う共同体の業として理解され、すべての信者がそれぞれの賜物と務めを生かしてともに奉仕することが求められています。だからミサに与るというのは、ただ形式的に 「聖体を受けること」 ではなく、同じキリストの体と血を受けた者として互いに一つに結ばれ、キリストの体を現実に形づくって生きるよう招かれています。
