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12. 信仰宣言

  • 7月27日
  • 読了時間: 6分

更新日:15 時間前


 主日や祭日のミサで、福音朗読と説教の後、私たちは立ち上がって声を合わせて 「私は信じます」 と告白します。つまり私たちに「みことば」を語りかけ、信仰を新たにし、生きる決意を新たにした主なる神に、あらためて信頼の証を示す行為がそれです。

その言葉は定式化され習慣的に唱えているのでよく考えもせずに口にしているかもしれませんが、本来これは非常に重みのある言葉です。これは私たち自身の立場表明であり、人生の決意を示す宣言なのです。

 信条はもともと洗礼式で唱えられた信仰告白でした。洗礼志願者は、教会が受け継いできた信仰を自分のものとして受け入れ、「私は信じます」 と公に宣言しました。これが使徒信条の形式とつながっています。

 やがて信仰告白は、教会の正しい教えを守り、異端から信仰を守るための規準ともなりました。第一ニケヤ公会議(325年)の決議に基づくニケア・コンスタンチノープル信条がそれで、聖書全体の内容を凝縮した要約となっています。天地創造からキリストの受肉、十字架と復活、聖霊の働き、教会の歩み、そして永遠の命に至るまで、救いの歴史全体を受け止め信じますと宣言しているのです。

 旧約聖書にも信仰宣言の伝統があります。「聞け、イスラエルよ。主は唯一の主である」 というシェマーの祈りです。多くの神々を信じる文化の中で、唯一の神を宣言することは勇気ある行為でした。それは「私はこの神にのみ忠誠を尽くす」という決意表明でした。

同じことが、現代にも言えます。私たちの時代は、相対主義の時代だと言われます。何が正しいかは人それぞれ、真理は一つではない、と考えられがちです。しかし、私たちが 「私は唯一の神を信じます」 と言うとき、それははっきりとした選択を意味します。私の人生の中心は成功でも、富でも、世間の評価や思想でもなく、神であると宣言しているのです。ここで大切なのは、「信じる」 という言葉の意味です。

 信仰宣言では、「私は神を信じます」 と言いますが、これはラテン語のCredo in Deumの翻訳です。しかしこの言葉と一見よく似たCredo Deum, Credo Deoという言い方も 「私は神を信じます」 と訳せます。

しかしその意味は大きく違います。私は神について何某かの事実、あるいは神が存在するということを信じるという場合はこれらの表現でも構いません。しかし教会が宣言するCredoは必ずin Deumという形を取ります。これは神に向かって、神の内へと信頼すること、言い換えれば自らの生を神に対して委ねる全幅の信頼を意味します。

 教会のカテキズムでは信仰には二つの側面があると説明されます。一つは、神が啓示された真理を知的に受け入れることです(fides quae)。しかしもっと根本的な信仰、神に自分自身を委ねるという人格的な信頼があります(fides qua)。前者は 「2+2=4という公理を信じる」、後者は 「あなたを信じています」 と言うのと似ています。前者は真実として認めるという意味があり、後者には信頼と献身が含まれています。

 このように私たちが 「私は神を信じます」 と言うとき、それは単に神が存在すると認めること以上の意味、すなわち 「私はあなたに人生を委ねます」、「御心に信頼して生きます」 と言うことと等しいのです。聖書の世界において、信じることと、愛すること、そしてよく理解することは相互に関係性を持っています。

少なくとも毎週日曜日に私たちは信仰宣言しているのですが、それは夫婦が何度も 「私はあなたを心から愛している」 と言うのと同じように、私たちは変わらぬ愛をもっておられる神への私たちの側の信頼、愛の応答を常に心新たにする必要があるのです。そのように信仰宣言は一度きりの決断ではなく日々更新されねばならない神様と私との関係の確認、決意表明です。

 聖書が語る信仰とは、知識として何かを理解すること以上に、神を愛し信頼し自分自身を託すことを意味します。ですから信条を唱えるとき、私たちは 「私は本当に神を人生の中心にしているだろうか」 「自分の願望や計画ばかりを優先していないだろうか」 「神に任せるべきことまで、自分で握りしめようとしていないだろうか」 と、問い直すよう招かれています。この意味で、信条は毎週の自己点検でもあります。私たちは、仕事や地位、能力、財産など、様々なものに頼って生きようとします。全面的な信頼を置くに相応しいのは神のみです。だから信条は、単なる教理の確認ではなく、「私の主は誰か」 「私は誰を最終的に信頼しているのか」 をはっきりさせる信仰告白なのです。中でも特に大切なのが、「聖霊によって、処女マリアよりからだを受け人となられました」 という箇所です。ここでは、神の御子が単に人間の世界に現れたというだけではなく、本当に人間の肉を取り、私たちと同じ現実の中に入って来られたことが告白されています。

 神は遠くから人間を眺めている方ではありません。私たちの弱さ、苦しみ、貧しさ、限界のただ中に入って来られた方です。この受肉の神秘があるからこそ、私たちは神を信頼することができます。神は人と共にあるため人間の現実を身をもって引き受けられた方だからです。そしてこの箇所でお辞儀をすることには深い意味があります。それは単なる形式や習慣ではありません。神の御子が 「肉を受けて人となられた」 という、私たちの理解を超える大きな愛の神秘に対して、体全体で敬意と驚きを表しているのです。口では信仰を唱えていても体が何の反応もしないなら、信仰はどこか観念的になりがちです。そのため教会は最も重要な神秘の前で身体を低くするよう求めます。お辞儀をすることによって私たちは、「神がこれほどまでに謙って私たちのもとに来られたのなら、私もまた謙ってこの神秘を受け入れます」 と、体で応えているのです。しかもお辞儀は、神の謙りに対する人間の謙りでもあります。神の子は栄光のままではなく、弱さを負う人間となって来られました。その前で頭を下げるのは、神の愛の深さに対する敬意であり、自分の驕り高ぶりを捨てるしるしでもあります。降誕節などに跪くよう指示されることがあるのも、この神秘の大きさをより強く示すためです。さらに信条は、受肉だけで終わりません。主の受難、死、復活へと続きます。イエスは人となられただけでなく、私たちの苦しみを担い、死を通って、復活へと至られました。したがって信条の宣言は、単なる過去の出来事の承認ではなく、今も生きておられるキリストに信頼を表す祈りです。受肉し、苦しみ、死に、復活された主を、自分の人生の主として受け入れ直すことにほかなりません。

 
 
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