2026年8・9月号 巻頭言
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『 平和を実現する人は幸い(マタ5:9) 』
主任司祭 使徒ヨハネ 田中 昇
いつも夏になると、皆が 「平和、平和」 と言い始める。戦争反対、憲法九条、核兵器廃絶。さまざまな主張が飛び交うが、冷静に聞いていると、それぞれの言う平和が、どこか腑に落ちないことばかりだ。人間は立場も利害も正義も違う。平和という言葉は、政治や思想によって色づけられ、自分の立場を正当化する便利な標語にもなり得る。
しかし、私たちにはみことばがある。聖書で平和を表すヘブライ語の 「シャローム」、ギリシア語の 「エイレネー」は、単に戦争や争いがない状態を意味しない。壊れた関係が回復され、欠けていたものが満たされ、神と人、人と人との間に正しい秩序と調和が取り戻された、完全で健全な状態を指す。たとえ困難のただ中にあっても、神の義と慈しみが満ちている時、聖書は平和という言葉を使っている。
イエスは 「平和を実現する人々は、幸いである」 と言われる。平和について議論する人ではなく、自ら平和を作り出す人を幸いと言われる。平和は単なる標語でも思想でもない。隣人との具体的な関わりの中で、積極的に築くものである。第二バチカン公会議も、平和は単に戦争がないことではなく、正義によって絶えず築かれるべきものだと教えた。ヨハネ・パウロ二世や歴代の教皇たちも、平和は可能であるだけでなく私たちの義務であると述べている。
そのためには、まず自分の内実を見なければならない。自分だけが正しいと思う傲慢さ、真実を見ようとせず、相手の話を聞けない頑なさを。平和を叫びながら、家庭や共同体で隣人を赦せない、理解し合えないなら、教会、キリスト信者と言えど、そこにキリストの平和はない。ひいては神の子とも呼ばれない。
キリストの平和は、問題を隠して静かにさせることでもない。欺瞞の上に成り立つ静けさや、弱い者を黙らせて保たれる秩序は平和ではない。真実を明らかにし、傷ついた者を癒やし、罪を犯した者を回心へと招き、共に歩むことが必要である。
復活したイエスは、御自分を見捨てた弟子たちに 「あなたがたに平和があるように」 と言われた。傷をなかったことにせず、その傷を赦しと新しい使命へと変えられた。これこそキリストの平和である。
平和とは、自分に都合のよい静穏さではない。その場に神の義と慈しみが満ち、すべての人の尊厳が認められ守られる正義が成立する生き生きとした場である。私たちは平和を語るだけでなく、今日、自分の生きる場所で平和を実現する者、神の子となるよう招かれている。
