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2026年4・5月号 巻頭言
『 復活祭に寄せて 』 使徒ヨハネ 田中 昇 復活祭は、十字架にかけられて死なれた主イエス・キリストが、父なる神の力によって復活 されたことを祝う、教会の典礼年の頂点です。この出来事は、キリスト者の信仰の中心であり、すべての希望の源です。 今日の福音で弟子たちが最初に見たのは、復活した主のお姿そのものではなく、取りのけられた石、空になった墓、そして残された亜麻布でした。その中で、主に愛された弟子だけが 「見て、信じた」 と記されています。 ここに、私たちの信仰の姿があります。私たちもまた、復活した主を直接この目で見るのではなく、信仰の目によって主が生きておられることを知り、受け入れるのです。 復活とは、単なる過去の奇跡ではありません。死が人間にとって最後の現実ではなく、罪と死と絶望が最終的な力ではないことを示す出来事です。キリストの復活によって、神は私たちに新しい命への道を開いてくださいました。ですから復活祭は、ただ 「主は復活された」 と祝うだけの日ではなく、私たち自身が復活の希望のうちに生きるよう招かれる日です。古い罪の自
2026年4月5日 復活の主日
復活の主日 説教「見て、信じた」 皆さん復活祭おめでとうございます。今日、私たちは教会の一年の典礼の頂点、主イエス・キリストの復活を祝っています。十字架につけられて死なれた主が、父なる神の力によって復活された。この出来事こそ、私たちの信仰の中心であり、希望の源です。 今日の福音で、弟子たちが最初に見たのは、復活した主のお姿そのものではありませんでした。彼らが見たのは、取りのけられた石、空になった墓、そして残されていた亜麻布でした。その中で福音は静かに、しかし決定的に語ります。主に愛された弟子だけは「見て、信じた。」ここに、私たちの信仰の姿があります。私たちもまた、復活した主をこの目で直接見るわけではありません。けれども、信仰の眼で見ます。主が生きておられることを知り、感じ取る信仰の感覚のです。復活とは、単に過去に起こった驚くべき奇跡ではありません。それは、死が人間にとって最後の事柄ではないということです。罪と死が人類に対する最終の力ではないということです。絶望が人間の究極の運命ではないということです。キリストが復活されたことによって、神は私たちに
2026年4月4日 復活徹夜祭
復活徹夜祭 説教「恐れることはない。ガリラヤへ行きなさい」 今日の福音で、墓に向かった女性たちは、思いがけない知らせを受けます。「恐れることはない。あのかたは復活された。」そして天使も、復活されたイエスご自身も、弟子たちにこう告げます。「ガリラヤへ行きなさい。」この福音で心に残る言葉は、二つです。「恐れることはない。」そして、「ガリラヤへ行きなさい。」 弟子たちは、主の十字架の死によって、希望を失っていました。自分たちの信仰も歩みも、すべて終わってしまったように感じていたことでしょう。しかも彼らの心には、主を見捨てて逃げたという後悔もあったはずです。さらに、自分たちもまた危険な目に遭うかもしれないという恐れの中にいました。その弟子たちに向かって、主はまず言われます。「恐れることはない。」 それはイエスの復活は、絶望と死が私たちの最後ではないということです。罪も、失敗も、人間の弱さも、主の命、愛より強くはないということです。主のいのちは、死を超える力をもっています。だから主は、「恐れるな」と言われるのです。そしてもう一つ、主は言われます。「ガリラヤ
2026年4月3日 聖金曜日
聖金曜日 説教 兄弟姉妹の皆さん、私たちは今日、主の受難と死の神秘の前に立っています。 人は生涯のうちに、自分のために命をかけてくれた人のことを忘れることはできません。ある人にとって、それは実の親であり、あるいは育ての親、また真実な友であるかもしれません。しかし、私たちキリスト者にとって、何より深く心に刻まれるべきお方は、私たちの主イエス・キリストです。主は、私たちのために死んでくださいました。これこそ、私たちの信仰の中心にある真理です。もちろん、主の復活は決定的な勝利です。けれども本日、聖金曜日にあって、教会はまず私たちを十字架のもとへ導きます。私たちは今日、主の十字架の神秘を、沈黙と畏れのうちに黙想しなければなりません。 主イエスは、私たちを悪の誘惑から、罪の束縛から、死の暗闇の力から解き放つために、ご自分のいのちをささげてくださいました。私たちの汚れを清め、神の真理と慈しみのうちに生きることができるようにしてくださったのです。私たちの救いは、神の子が命をかけて成し遂げてくださった出来事です。 主は、十字架から降りることもおできになったはずで
2026年4月2日 聖木曜日
聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ 説教 今夜、主イエスは弟子たちを通して教会に、ご自分の救いの業を記念するよう、聖体の神秘を託されました。それは、単に過去の出来事を思い出すためではありません。主の愛が、教会の中にいつも生きた現実としてとどまり続けるためです。 イエスは今も聖体のうちに現存し、私たちを愛し、ご自分のいのちを与え続けてくださいます。赦し、慰め、癒し、そして立ち上がらせてくださいます。ですから、今夜の聖体祭儀は、最後の晩餐をただ追想するだけではなく、その同じ主の愛の現実に、私たちが今ここであずかる出来事なのです。 しかし、最後の晩餐にはユダもいました。またその後、主を裏切り見捨てて逃げ去った弟子たちも皆いました。私たちも同じです。罪に弱く、自己正当化や利得、愚かさを抱えて生きています。けれども、まさにそのような私たちだからこそイエスは洗い清めたいのであり、主はご自分のいのちを与えたいと思う、極みまで愛しておられるのです。 主は、聖体を与える際、まず弟子たちの足を洗われました。私たちはペトロと同じように、イエスがしてくださることの意味を、初
2026年3月29日 受難の主日 (枝の主日)
受難の主日A年 説教「十字架は敗北ではなく、愛の勝利である」 今日、私たちは枝を手にして、主のエルサレム入城を記念しました。けれどもすぐに、典礼は華やかな場面から受難物語へと進みます。歓声から悲痛な叫びへ。これが、受難の主日の大きな特徴です。 なぜ教会は、こんなにも急に、栄光から苦しみへと私たちを導くのでしょうか。それは、イエスの栄光が、この世の権力や成功の形では現れなかったからです。イエスは、軍隊を率いる王としてエルサレムに入られたのではなく、柔和でへりくだった王として、ご自分をささげるために入城されたのです。 第一朗読の「主の僕」は、苦しみを受け、辱めを受けながらも、神に信頼し続ける姿を示しています。その苦しみは、見捨てられたしるしではなく、むしろ神の使命を担う者の道として描かれています。苦しみは、もはや拒絶のしるしではなく、選びの場となるのです。 そして第二朗読のフィリピ書は、キリストの道をはっきり示します。主は低くなられ、へりくだり、死に至るまで従われた。けれどもまさにそのへりくだりのゆえに、神はキリストを高く上げられました。つまり十字架
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