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2026年3月22日 四旬節第5主日
四旬節第5主日A年 説教原稿 「わたしは復活であり、命である」 今日の福音は、ラザロの復活の場面です。けれども、この箇所の中心は、単に死んだ人が生き返ったという奇跡そのものではありません。中心にあるのは、イエスがマルタに語られたこの言葉です。 「わたしは復活であり、命である。」 四旬節のこの時期、教会は少しずつ、イエスとはどなたなのかを、段階を追って私たちに示してきました。 第一主日には、誘惑を受けながらも父に従われるメシアとしてのイエス。 第二主日には、栄光に輝くイエス。 第三主日には、生ける水を与えるイエス。 第四主日には、闇の中にいる人の目を開く光としてのイエス。 そして今日、四旬節の歩みはさらに深まり、イエスが命そのものであることが示されます。 第一朗読で聞いたエゼキエルの幻は、とても印象的です。乾ききった骨が谷に散らばっている。そこにはもう希望がありません。命の気配もありません。しかし、神の霊が吹くと、その骨に筋がつき、肉がつき、ついには生きた者たちとして立ち上がります。 これは単なる不思議な幻ではありません。神は、死のように見えるとこ
2026年3月15日 四旬節第4主日
四旬節第4主日は、伝統的に喜びの主日(Laetare)と呼ばれ、薔薇色の祭服が用いられます。 四旬節第4主日は、伝統的に喜びの主日(Laetare)と呼ばれ、薔薇色の祭服が用いられます。 今日の福音は、生まれつき目の見えない人が、イエスによって見えるようになったという物語です。けれども、この福音の中心は、単なるいやしの奇跡ではありません。大切なのは、この人が、暗闇から光へ、無理解から真理の悟りへ、不信仰から信仰へと導かれ、ついには深い感動のうちにイエスの前にひれ伏して礼拝するに至ることです。つまりこれは、目が開く物語であると同時に、信仰に目覚めていく物語なのです。 四旬節のこの時期に、教会がこの箇所を私たちに示すのは、とても意味深いことです。私たちは今、復活祭に向かって歩んでいます。復活祭は、主が死と復活によって罪と死の闇に勝利されたことを喜びのうちに祝う時です。そして同時に、私たち自身もまた、闇から光へ、新しい命へと招かれていることを思い起こす時でもあります。ですから、今日の福音は、昔のある人の出来事ではなく、私たち一人ひとりの姿でもあるのです
2026年3月8日 四旬節第3主日
四旬節第3主日の福音は、イエスとサマリアの女の出会いを語っています。 水は、古代の人々にとって単なる飲み物ではなく、命そのものでした。とくに乾いた土地に生きる人々にとって、水は生きるために欠かすことのできないものです。水がなければ大地は砂漠となり、命は枯れてしまいます。しかし水が大地に染み込むと、芽が出て緑が広がり、新しい命が生まれます。水は人の渇きを癒し、疲れた旅人に再び歩み出す力を与えます。そのため聖書では、今日の第一朗読にある通り、水はしばしば神の恵みを表す象徴として語られてきました。預言者エレミヤは、神を「生ける水の泉」と呼んでいます。神こそが人間の命の源であり、真の渇きを満たしてくださる方だからです。 イエスがサマリアの女に与えようとしている水は、ヤコブの井戸から汲まれる水ではありません。それは神から来る命の水であり、人の心の奥深くにある渇きを満たす水です。ヨハネ福音書は、十字架の場面でイエスのわき腹から血と水が流れ出たと語っています。教会はこの水を、洗礼と聖霊の恵みのしるしとして理解してきました。つまりイエスご自身が、人間の最も深い渇
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