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2026年5月24日 聖霊降臨の主日
聖霊降臨の主日聖書のメッセージ 「恐れから使命へ――聖霊は教会を動かす」 みことばを読むために 聖霊は教会を「新しい契約の民」として生かし、多様な賜物を一致へ導く神の力であるということです。 第一に、五旬祭はもともと農耕祭でした。初穂と収穫を祝う祭りでしたが、イスラエルはそれを救いの歴史の中に位置づけ、神と民との契約を記念する祭りとして理解するようになりました。さらにクムラン共同体では、五旬祭はエレミヤが預言した「新しい契約」の祭りとされ、清められた新しい民に神の霊が注がれる時として考えられていました。 第二に、聖霊の象徴として重要なのは「風」と「火」です。ヘブライ語では「霊」と「風」は同じ語で表されます。そのため、イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言う場面は、新しい創造を表しています。創世記で神が人に命の息を吹き入れたように、復活したキリストは弟子たちに聖霊を与え、新しい人間、新しい神の民を生み出します。 第三に、「火」「轟音」は神の顕現の象徴です。シナイ山やエリヤの物語において、火は神の力と超越性を示します。火は人間が
2026年5月17日 主の昇天
主の昇天 聖書のメッセージ 主の昇天によって、地上の弟子たちのあいだでは何が変わったのでしょうか。外から見れば、何も変わりませんでした。人々はそれまでと同じように、働き、食べ、旅をし、泣き、喜び、日々の生活を続けていました。使徒たちも、信仰をえたからといって、人生の苦しみや不安から免除されたわけではありません。 しかし、決定的に新しいことが起こりました。人間の存在の上に、新しい光が注がれたのです。霧の日に太陽が現れると、山も海も木々も花も鳥の声も、それ自体は変わりません。しかし、それらを見る目が変わります。同じように、昇天されたキリストを信じる者は、世界を新しい目で見るようになります。不幸、苦しみ、人間の過ちの向こうにも、主が御自分の国を築いておられることを見つめることができるようになるのです。 使徒言行録では、弟子たちが天を見上げていると、白い衣を着た二人が現れて言います。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」この言葉は、弟子たちだけでなく、私たちにも向けられています。信仰とは、ただ天を眺め、この世の問題から逃げることではあ
2026年5月10日復活節第6主日
復活節第6主日A年 聖書のメッセージ「聖霊は、私たちを一人にしない」 今日の福音で、イエスは弟子たちに言われます。 「わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。」 弟子たちは、イエスが去って行かれることを感じ、不安になっていました。これから誰が自分たちを導いてくれるのか。困難や迫害の中で、どうすればよいのか。その弟子たちに、イエスは「もう一人の弁護者」、すなわち聖霊の到来を約束されます。 聖霊は、遠くにいる抽象的、ただ不思議な力ではありません。聖書において、聖霊は神の「息」「風」「力」、つまり神のいのちの息吹です。私たちを内側から動かし、支え、福音に従って生きる力、救いの恵みを与えてくださる方です。 人間には、正しい道を知っていても、その道を歩けない弱さがあります。律法は道を示します。しかし、道を示すだけでは人は目的地に着けません。道路標識があっても、車を動かす力、燃料がなければ進めないのと同じです。イエスは道を教えただけではありません。その道を歩む力、聖霊を与えてくださいます。 第一朗読では、フィリポがサマリアで福音を告げ知らせます。サマリア
2026年5月3日復活節第5主日
復活節第五主日A年 聖書のメッセージ 今日の福音でイエスは弟子たちに言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。弟子たちは、イエスがご自分の死を告げられたことで、不安と恐れの中にいました。これから何が起こるのか、自分たちはどうなるのか分からない。そのような弟子たちに、イエスはまず「信じなさい」と言われます。 この言葉は、今日の私たちにも向けられています。私たちも、病気、死、将来への不安、人間関係の悩み、教会や社会の問題の中で、心を騒がせることがあります。しかしイエスは、その不安のただ中で、「わたしを信頼しなさい」と招いておられます。信仰とは、ただ教えを知っていることではありません。自分の人生をキリストにゆだね、自分の生き方をキリストの上に築くことです。 第一朗読には、初代教会の中に起こった問題が描かれています。ギリシア語を話す信者たちのやもめが、日々の配給で軽んじられているという不満が起こりました。つまり、初代教会にも不満や対立があったのです。教会は、問題がまったく起こらない場所ではありません。人が集まるところに
2026年4月26日復活節第4主日
復活説A年第4主日 福音のメッセージ 今日の福音は、イエスご自身が「羊飼い」と「門」として語られる箇所です。これは当時の人々にとって、とても身近な情景でした。夕方になると羊飼いたちは羊を囲いに入れ、朝になると、それぞれの羊飼いが自分の羊を呼びます。羊たちはその声を知っていて、その羊飼いについて行きます。イエスはこのよく知られた光景を通して、御自分がどのようなお方であるかを教えてくださるのです。 まずイエスは、まことの羊飼いは盗人とは違う、と言われます。盗人は羊を利用し、奪い、傷つけます。しかし、まことの羊飼いは、羊のために生き、羊のために自分を与えます。ここに、イエスの姿があります。イエスは人々を支配するために来られたのではなく、救うために来られました。御自分の利益のためではなく、私たちの命のために来られました。そして最後には、十字架の上で御自分のすべてを差し出されました。良い羊飼いとは、羊を思い、自分を与える方です。キリストはまさにそのようなお方です。 しかし今日の福音は、イエスが羊飼いであるだけでなく、「門」であるとも語ります。これは大切です
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