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2026年7月26日 年間第17主日
A年 第17主日 みことばのメッセージ 私たちは皆、何かしら自分にとっての「宝」を求めて生きています。 考古学者ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見した時のことです。小さな穴からろうそくを差し入れ、中をのぞいた彼は、しばらく言葉を失いました。あまりの驚きに、身動きもできなかったと言われます。仲間たちが「何が見えるのか」と尋ねると、彼はようやくこう答えました。「すばらしいもの、すばらしいものだ」。 人は、本当に価値あるものに出会うと、言葉を失います。そして、その宝が人生の見方を変えてしまうことがあります。 今日のみことばの中心にも、「宝」があります。 第一朗読では、若きソロモンが登場します。彼は王となりましたが、自分の未熟さをよく知っていました。大きな民を治める責任の前で、自分の力だけでは足りないことを知っていたのです。神は彼に言われます。「あなたに何を与えればよいか、願いなさい」。 もし私たちが同じように問われたら、何を願うでしょうか。健康でしょうか。長寿でしょうか。財産でしょうか。成功でしょうか。ライバルに勝つことでしょうか。なかなか本
2026年7月19日 年間第16主日
A年 年間第16主日、 みことばのメッセージ 皆さん、今日のみことばは、私たちに「忍耐」を教えています。 けれども、この忍耐は、ただ我慢することではありません。何もしないで黙っていることでもありません。今日のみことばが語る忍耐は、神を信頼する力です。そして、愛の中核にあるものです。聖カタリナは、「忍耐は愛の核心である」と言いました。これはとても深い言葉です。なぜなら、愛するということは、相手をすぐに裁かないこと、すぐに見捨てないこと、すぐに結果を求めないことだからです。愛は待つことができます。愛は信じることができます。愛は希望することができます。 今日の福音で、イエスは三つのたとえを語られます。毒麦のたとえ、からし種のたとえ、そしてパン種のたとえです。どれも、神の国がどのように成長するかを教えています。 まず、毒麦のたとえです。ある人が自分の畑に良い種をまきました。ところが、人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦をまいていきます。やがて芽が出て実を結び始めると、良い麦と毒麦が一緒に生えていることが分かります。 僕たちは主人に言います。「ご主人
2026年7月12日 年間第15主日
年間第15主日 説教案 今日の福音は、マタイ福音書13章の「種をまく人」のたとえです。この13章の「たとえによる説教」は、「山上の説教」、「宣教についての説教」に続く、マタイ福音書全体を支える大きな柱の一つです。 マタイはこの箇所を、よく考えられた構成でまとめています。まず「種をまく人」のたとえがあり、次に、なぜイエスがたとえで語られるのかが説明され、さらにそのたとえの解釈が続きます。その後、「毒麦のたとえ」においても、同じように、たとえ、たとえの目的、たとえの説明が続きます。 今日、特に大切なのは、イエスがなぜたとえで語られるのかという点です。イエスは預言者イザヤの言葉を引用されます。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。」 これは、神が人々にわざと分からないようにしている、という意味ではありません。問題は、聞く側の心にあります。たとえが群衆には不明瞭なまま残るのは、彼らに神の言葉を受け入れる備え、頭と心の柔らかさ、心と良心の開きが欠けているからです。 だから今日の福音で中心となるのは、「聞いて理解する」
2026年7月5日 年間第14主日
A年 年間第十四主日 みことばのメッセージ 今日の福音で、イエスは父に向かってこう祈られます。 「父よ、天地の主よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを知恵ある者や賢い者には隠し、小さな者たちにお示しになりました。」 この言葉は、私たちに大切なことを教えています。神の神秘は、複雑な理屈を積み重ねた人、自分の知識や正しさに閉じこもる人にではなく、小さな者、単純な者、へりくだった者に示されるということです。 私たちは、すべてを大きく、特別に、立派に、自分こそ正しいものとして見せようとする時代に生きています。普通であること、単純で全てのことに敬意を持つ謙遜さが、まるで価値のないことのように扱われることがあります。しかし、信仰において本当に大切なのは、複雑で難しい議論を展開することではありません。むしろ、本質へ戻ること、無垢な簡素さです。 単純な人とは、何も考えない人ではありません。浅はかな人でもありません。単純な人とは、多くの複雑なものの中から、本当に大切なものを見分ける純粋な眼差しをもつ人です。余計な飾りやこだわりを捨てて、神の前で本質に
2026年6月28日 年間第13主日
年間第13主日 みことばのメッセージ 今日のみことばは、私たちに問いかけます。 あなたは、何をいちばん大切にして生きていますか。 福音の中で、イエスは言われます。 「父や母をわたしよりも愛する者は、わたしにふさわしくない。息子や娘をわたしよりも愛する者も、わたしにふさわしくない。」 これは、家族への愛を否定する言葉ではありません。父母を敬い、家族を愛することは、聖書が大切に教えていることです。しかしイエスは、すべての愛の中心にキリストを置きなさい、と言われます。 キリストは、ほかの大切なものと並ぶ一つの価値ではありません。キリストは、すべての価値を照らし、清め、正しく整える中心です。だから、キリストを第一にする人は、家族を粗末にする人ではなく、むしろ家族をより深く、より自由に愛することができる人です。 イエスはさらに言われます。 「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」 十字架を担うとは、苦しみを好むことではありません。福音に忠実に生きようとするときに避けられない重さを、逃げずに担うことです。 正直に生きること。 人
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