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2026年10月11日 年間第28主日
A年 年間第28主日 みことばのメッセージ 今日の聖書朗読を一つに結んでいるのは、「宴」というイメージです。 宴というものは、どの文化でも、単に食事をする場ではありません。結婚式を考えればよく分かります。そこでは、喜びを一人で味わうのではなく、家族や友人、多くの人々と分かち合います。食卓を囲むことによって、友情や親しさ、交わりが生まれます。 今日の聖書が私たちに示している神も、そのような方です。神は御自分の喜びを人間と分かち合おうとされる。だから私たちを宴へと招かれるのです。その究極的なものが神の子羊の婚宴なのです。 第一朗読でイザヤは、シオンの山で神が盛大な宴を準備される姿を描いています。しかも、そこに招かれるのは一部の特別な人ではありません。「すべての民」です。その宴では、人間の顔を覆っている悲しみの覆いが取り除かれ、神はすべての顔から涙をぬぐわれます。そしてついには、「死を永久に滅ぼされる」と言われます。 ですから、この宴とは単なる食事ではありません。神が人間を御自分との交わりへ招き、悲しみも涙も、そして死さえも乗り越えてくださるという、
2026年10月4日 年間第27主日
A年 年間第27主日 みことばのメッセージ 今日の聖書には、「信仰の実を結ぶ」という一つの大きなテーマがあります。 私たちは「実を結ぶ」と聞くと、何か立派なことをしなければならない、もっと働かなければならない、もっと人の役に立たなければならない、と考えがちです。もちろん、人のために働くこと、善い行いをすることは大切です。 しかし今日の御言葉は、その前にもっと根本的なことを問いかけています。それは、私たちが誰と結ばれて生きているのかということです。 第一朗読のイザヤ書には、ぶどう畑の歌が登場します。主人は肥沃な土地を選び、石を取り除き、良いぶどうを植え、塔を建て、搾り場まで用意しました。できることはすべてしたのです。ところが、主人が良いぶどうを期待したのに、実ったのは酸っぱいぶどうでした。 このぶどう畑とはイスラエルの民です。 神はイスラエルを選び、守り、導かれました。しかし神が期待された「正義」の代わりに流血があり、「公正」の代わりに虐げられた人々の叫びがあった、とイザヤは語ります。 問題は、神から何も与えられなかったことではありません。むしろ反
2026年9月27日 年間第26主日
A年 年間第26主日 みことばのメッセージ 今日の福音でイエスは、二人の息子のたとえを語られます。 父親が最初の息子に、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言います。息子は「はい、お父さん」と答えました。しかし、実際には行きませんでした。もう一人の息子は、「行きたくありません」と答えます。しかし後で考え直して、ぶどう園へ行きました。 そこでイエスは尋ねます。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」 答えは明らかです。最初は拒んだけれども、後で考え直して実際に行動した息子です。 今日の聖書が私たちに問いかけているのは、「あなたは何と言っているか」ではなく、「あなたは実際にどう生きているか」ということです。 私たちキリスト者は、神に「はい」と答えることに慣れています。幼稚園の子供でさえもそうです。ミサの中でも「アーメン」と答えます。神を信じます、隣人を愛します、ゆるします、仕えます、と言います。しかし問題は、その「はい」が実際の生活の中で本当の「はい」になっているかどうかです。 口では神を信じると言いながら、自分の都合だけを優
2026年9月20日 年間第25主日
A年 年間第25主日 みことばのメッセージ 今日の第一朗読で、預言者イザヤは非常に印象的な言葉を語っています。 「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、あなたたちの道は、わたしの道とは異なる。」この言葉が、今日の福音を理解するための鍵になります。 福音では、ぶどう園の主人が、朝早くから何度も広場へ出て行き、働く人々を雇います。朝から働いた人、九時から働いた人、正午から、午後三時から、そして夕方五時になってようやく雇われた人もいました。ところが夕方、主人は全員に同じ一デナリオンを支払います。 すると朝から働いていた人たちは不平を言います。 「最後に来たこの人たちは一時間しか働かなかったのに、一日中、暑さの中で働いた私たちと同じ扱いをするのですか。」 私たちにも、その気持ちはよく分かります。普通に考えれば、確かに不公平に見えます。 しかし、このたとえは賃金制度について教えているのではありません。イエスが語っておられるのは、神の国、そして神の恵みについてです。主人は最初の人たちに約束した一デナリオンをきちんと支払っています。ですから、彼らが
2026年9月13日 年間第24主日
A年・年間第24主日 今日の典礼を貫いている一つの言葉があります。それは「ゆるし」です。 第一朗読のシラ書は言います。「隣人の不正をゆるせ。そうすれば、あなたが祈るとき、あなたの罪もゆるされる。」答唱詩編では、「主はあなたの罪をことごとくゆるし、私たちの罪に応じてあしらわれることはない」と歌います。 そして福音の最後でイエスは、「あなたがた一人一人が、心から兄弟をゆるさないなら、天の父もあなたがたに同じようになさる」と言われます。 さらに私たちは毎日のように、主の祈りの中で、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈っています。 つまり今日、聖書が私たちに問いかけているのは、とてもはっきりしています。私たちは、神からゆるされている者として、人をゆるしているだろうか、ということです。 第一朗読のシラ書は、紀元前二世紀ごろに書かれた知恵文学です。そこには、非常に現実的な人間理解があります。人に対する恨みや怒りを心に抱えながら、神に向かって「私をゆるしてください」と祈る。そのこと自体に矛盾がある、とシラ書は言うのです。恨みとい
2026年9月6日 年間第23主日
A年年間第23主日 みことばのメッセージ 今日の教会は、福音を現代の世界に伝えることの難しさを感じています。 多くの人々は、福音を正面から拒んでいるわけではありません。しかし、さまざまな情報や関心、安心や快適さを求める生活の中で、福音の声が埋もれてしまっています。そのため教会は、「新しい福音宣教」、すなわちキリスト教的な生き方を改めて築き直す必要を語っています。 しかし、福音によって変わらなければならないのは、教会の外にいる人々だけではありません。教会共同体そのものも、絶えず回心する必要があります。 教会の中にも、疲れや諦めがあります。健全な多様性がある一方で、互いを排除する派閥意識も生まれます。未来へ進もうとする人と、過去へ戻ろうとする人との間に、対立が起こることもあります。 教会は、弱さや罪から免れた、完全な人々の集まりではありません。罪は人と人との関係を壊し、共同体に分裂をもたらします。 今日の福音で、イエスはこの分裂を癒やすための具体的な治療法を示されます。それが「兄弟的矯正」です。 イエスは言われます。「兄弟が罪を犯したなら、行って、二
2026年8月30日 年間第22主日
A年 第22主日 みことばのメッセージ 今日の福音で、イエスは初めてご自分の受難を弟子たちに予告されます。 その直前、ペトロはイエスに向かって、 「あなたはメシア、生ける神の子です」と、すばらしい信仰告白をしました。しかし、そのイエスが、エルサレムで苦しみを受け、殺されると語られると、ペトロはそれを受け入れることができません。ペトロはイエスを脇へ連れて行き、いさめます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 ペトロが望んでいたのは、栄光に満ちたメシアでした。人々に認められ、敵に勝利し、力をもって神の国を実現するメシアです。しかしイエスが示されたのは、屈辱を受け、苦しみ、命をささげるメシアの道でした。ペトロは、イエスの栄光は望みましたが、その栄光に至る十字架の道は受け入れることができなかったのです。 そこでイエスは、ペトロに厳しく言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 なぜ、愛する弟子に対してこれほど厳しい言葉を言われたのでしょうか。それは、ペトロの言葉が、イエスを神の御心
2026年8月23日 年間第21主日
A年・年間21主日 聖書のメッセージ 私たちは毎日の生活の中で、さまざまな鍵を使っています。家の鍵、車の鍵、金庫の鍵。鍵は小さなものですが、扉を開き、また閉じる大切な働きをします。 そして、誰かに鍵を渡すことは、その人を信頼し、大切なものを委ねることを意味します。家の鍵は、誰にでも渡すものではありません。 今日の三つの朗読を結びつけているのも、この「鍵」です。 第一朗読では、宮廷をつかさどっていたシェブナが職を解かれ、代わってエルヤキムが選ばれます。神は言われます。「彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開けば閉じる者はなく、彼が閉じれば開く者はない。」当時、宮廷の鍵を持つことは、王に代わって宮殿を管理する権限を委ねられることでした。誰を王の前に通すのか、王の財産をどのように管理するのか。その大きな責任が託されたのです。 しかし、鍵を預けられた人は、宮殿の主人ではありません。主人の意志に従って家を管理する奉仕者です。権威は自分のためではなく、委ねられた人々のために用いられなければなりません。 今日の福音では、この鍵がイエスによってペトロに委ねられます
2026年8月16日 年間第20主日
年間第20主日 みことばのメッセージ「境界を越えていく神の憐れみ」 皆さん、私たちの生活の中には、さまざまな境界線があります。国と国との間には国境があります。社会には法律があり、してよいこととしてはならないことの境界があります。人間関係においても、互いの人格や生活を守るために、適切な距離や資格が必要です。 境界線そのものが悪いわけではありません。しかし、その境界線が、自分を守るためではなく、他者を見下し、排除し、自分たちの優越性を主張するために使われるとき、境界線は壁となります。壁は人を隔て、疑いを生み、ついには敵意を育てます。 今日のみことばは、そのような人間の造った壁を、神の憐れみが越えていくことを示しています。 福音の初めに、イエスはティルスとシドンの地方へ行かれます。そこはイスラエルの外、異邦人の住む地域です。イエスご自身が、まず国境を越えています。当時のユダヤ人は、異邦人と接触することによって宗教的に汚れることを恐れていました。しかしイエスは、異なる民族、異なる文化、異なる宗教を持つ人々の土地へ入ることを恐れません。...
2026年8月15日 聖母マリアの被昇天
聖母マリアの被昇天(8月15日・日中のミサ) みことばのメッセージ 今日は聖母マリアの被昇天の祭日です。 この祭日は、ともすると、マリアが空の彼方へ上っていったという、神話的な物語のように受け取られかねません。しかし、教会が今日祝っているのは、そのような単純な空間移動ではありません。被昇天とは、マリアの全存在が、魂だけでなく体も含めて、完全に神との交わりの中へと受け入れられたという信仰です。 今日の第二朗読で、聖パウロは復活について語っています。「最初に、初穂であるキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち。」キリストは、死者の中から復活された「初穂」です。そして、キリストに属する者たちもまた、キリストに続いて命へと導かれます。さらに最後には、すべてが神のもとに集められ、「神がすべてにおいてすべてとなられる」とパウロは語ります。 つまり、神の救いの目的は、人間だけをこの世界から切り離して救うことではありません。人間と被造物のすべてを、光と命と喜びに満ちた神のうちへと導くことです。 そのためには、人間と世界の中にあ
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