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2026年6月7日 キリストの聖体
聖体の祭日 メッセージ 私たちは、困ったときには神を思い出します。苦しいとき、行き詰まったとき、自分の力ではどうにもならないとき、人は自然に神に向かって叫びます。 しかし、信仰にとって本当に危険なのは、苦しみだけではありません。むしろ、すべてがうまくいっている時こそ危険です。生活が安定し、食べ物があり、仕事があり、予定があり、便利なものに囲まれている時、人は神を否定するというより、神を忘れてしまうのです。 今日の第一朗読、申命記は、イスラエルにこう呼びかけます。 「あなたは心に留めなさい。主なる神が荒れ野であなたを導かれたことを。」 イスラエルの民は、荒れ野で自分の無力さを知りました。食べ物も水も、自分たちの力では手に入りませんでした。マンナも水も、神から与えられたものでした。荒れ野とは、人間が自分の力だけでは生きられないことを知る場所です。 そこでイスラエルは、決定的な真理を学びました。 「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる。」 もちろん、人間にパンは必要です。食べ物も、仕事も、住まいも、健康も必要です。し
2026年5月31日 三位一体の主日
三位一体の主日の意味 三位一体の主日に大切なのは、テルトゥリアヌスに由来する三位一体と言う概念を単に理解することではありません。三位一体は、信仰生活の中で生きるべき神秘です。 三位一体とは、父と子と聖霊という三つのペルソナにおける唯一の神の神秘です。しかし、それは単なる神学的な定式ではありません。三位一体は、神が孤独な絶対者ではなく、愛と交わりそのものであることを示しています。したがって、三位一体を信じるとは、教義を知識として覚えることにとどまらず、神の愛、赦し、交わり、派遣、救いの中に、自分の人生を置いて生きることを意味します。 まず問われるのは、「人はどのような神を信じているのか」ということです。単に「神を信じている」と言うだけでは十分ではありません。大切なのは、その神をどのような方として信じているかです。 人はしばしば、神を厳しく監視する方、罪を記録して最後に罰する方、遠くにいて人間の苦しみに関心を持たない方、あるいは必要な時だけ頼る対象として考えてしまいます。しかし、聖書が示す神はそのような神ではありません。 第一朗読の出エジプト記で
2026年5月24日 聖霊降臨の主日
聖霊降臨の主日聖書のメッセージ 「恐れから使命へ――聖霊は教会を動かす」 みことばを読むために 聖霊は教会を「新しい契約の民」として生かし、多様な賜物を一致へ導く神の力であるということです。 第一に、五旬祭はもともと農耕祭でした。初穂と収穫を祝う祭りでしたが、イスラエルはそれを救いの歴史の中に位置づけ、神と民との契約を記念する祭りとして理解するようになりました。さらにクムラン共同体では、五旬祭はエレミヤが預言した「新しい契約」の祭りとされ、清められた新しい民に神の霊が注がれる時として考えられていました。 第二に、聖霊の象徴として重要なのは「風」と「火」です。ヘブライ語では「霊」と「風」は同じ語で表されます。そのため、イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言う場面は、新しい創造を表しています。創世記で神が人に命の息を吹き入れたように、復活したキリストは弟子たちに聖霊を与え、新しい人間、新しい神の民を生み出します。 第三に、「火」「轟音」は神の顕現の象徴です。シナイ山やエリヤの物語において、火は神の力と超越性を示します。火は人間が
2026年5月17日 主の昇天
主の昇天 聖書のメッセージ 主の昇天によって、地上の弟子たちのあいだでは何が変わったのでしょうか。外から見れば、何も変わりませんでした。人々はそれまでと同じように、働き、食べ、旅をし、泣き、喜び、日々の生活を続けていました。使徒たちも、信仰をえたからといって、人生の苦しみや不安から免除されたわけではありません。 しかし、決定的に新しいことが起こりました。人間の存在の上に、新しい光が注がれたのです。霧の日に太陽が現れると、山も海も木々も花も鳥の声も、それ自体は変わりません。しかし、それらを見る目が変わります。同じように、昇天されたキリストを信じる者は、世界を新しい目で見るようになります。不幸、苦しみ、人間の過ちの向こうにも、主が御自分の国を築いておられることを見つめることができるようになるのです。 使徒言行録では、弟子たちが天を見上げていると、白い衣を着た二人が現れて言います。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」この言葉は、弟子たちだけでなく、私たちにも向けられています。信仰とは、ただ天を眺め、この世の問題から逃げることではあ
2026年5月10日復活節第6主日
復活節第6主日A年 聖書のメッセージ「聖霊は、私たちを一人にしない」 今日の福音で、イエスは弟子たちに言われます。 「わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。」 弟子たちは、イエスが去って行かれることを感じ、不安になっていました。これから誰が自分たちを導いてくれるのか。困難や迫害の中で、どうすればよいのか。その弟子たちに、イエスは「もう一人の弁護者」、すなわち聖霊の到来を約束されます。 聖霊は、遠くにいる抽象的、ただ不思議な力ではありません。聖書において、聖霊は神の「息」「風」「力」、つまり神のいのちの息吹です。私たちを内側から動かし、支え、福音に従って生きる力、救いの恵みを与えてくださる方です。 人間には、正しい道を知っていても、その道を歩けない弱さがあります。律法は道を示します。しかし、道を示すだけでは人は目的地に着けません。道路標識があっても、車を動かす力、燃料がなければ進めないのと同じです。イエスは道を教えただけではありません。その道を歩む力、聖霊を与えてくださいます。 第一朗読では、フィリポがサマリアで福音を告げ知らせます。サマリア
2026年5月3日復活節第5主日
復活節第五主日A年 聖書のメッセージ 今日の福音でイエスは弟子たちに言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。弟子たちは、イエスがご自分の死を告げられたことで、不安と恐れの中にいました。これから何が起こるのか、自分たちはどうなるのか分からない。そのような弟子たちに、イエスはまず「信じなさい」と言われます。 この言葉は、今日の私たちにも向けられています。私たちも、病気、死、将来への不安、人間関係の悩み、教会や社会の問題の中で、心を騒がせることがあります。しかしイエスは、その不安のただ中で、「わたしを信頼しなさい」と招いておられます。信仰とは、ただ教えを知っていることではありません。自分の人生をキリストにゆだね、自分の生き方をキリストの上に築くことです。 第一朗読には、初代教会の中に起こった問題が描かれています。ギリシア語を話す信者たちのやもめが、日々の配給で軽んじられているという不満が起こりました。つまり、初代教会にも不満や対立があったのです。教会は、問題がまったく起こらない場所ではありません。人が集まるところに
2026年4月26日復活節第4主日
復活説A年第4主日 福音のメッセージ 今日の福音は、イエスご自身が「羊飼い」と「門」として語られる箇所です。これは当時の人々にとって、とても身近な情景でした。夕方になると羊飼いたちは羊を囲いに入れ、朝になると、それぞれの羊飼いが自分の羊を呼びます。羊たちはその声を知っていて、その羊飼いについて行きます。イエスはこのよく知られた光景を通して、御自分がどのようなお方であるかを教えてくださるのです。 まずイエスは、まことの羊飼いは盗人とは違う、と言われます。盗人は羊を利用し、奪い、傷つけます。しかし、まことの羊飼いは、羊のために生き、羊のために自分を与えます。ここに、イエスの姿があります。イエスは人々を支配するために来られたのではなく、救うために来られました。御自分の利益のためではなく、私たちの命のために来られました。そして最後には、十字架の上で御自分のすべてを差し出されました。良い羊飼いとは、羊を思い、自分を与える方です。キリストはまさにそのようなお方です。 しかし今日の福音は、イエスが羊飼いであるだけでなく、「門」であるとも語ります。これは大切です
2026年4月19日復活節第3主日
復活節A年第三主日「主は生き方を変えてくださる」 今日の第一朗読のペトロの宣言にある通り、教会とはまさに復活された主によって集められ、生かされている共同体です。第二朗読では、その復活の主によって、わたしたちが空しい生き方から救い出されたことが語られます。キリストの尊い血によって贖われ、信仰と希望とを神に向けて生きる者とされた。つまり、復活祭はただイエスに起こった出来事ではありません。わたしたち自身の生き方を変える出来事なのです。復活の主によって生き方を変えられる、それが教会の原点であることが示されています。これが今日のテーマです。 今日の福音には、二つの旅の歩みが出てきます。一つは、エルサレムからエマオへ向かう旅。もう一つは、エマオからエルサレムへ戻る旅です。クレオパとその仲間は、この二つの道のあいだで変えられました。これは、そのまま、わたしたち自身の信仰の姿でもあります。二人の弟子は、失望し、悲しみ、重い足取りで歩いていました。彼らはイエスに望みをかけていた。しかし十字架を見て、その希望は崩れたと思ったのです。だから彼らは、エルサレムから離れて
2026年4月12日 復活節第2主日
復活節第2主日(神のいつくしみの主日)「見ないで信じるのではなく、傷の中に復活の主を見る」 皆さん、今日の福音は、復活されたイエスが弟子たちの真ん中に立たれる場面です。弟子たちは、まだ復活を十分に理解できず、恐れの中にいました。戸に鍵をかけ、外の世界を恐れ、自分たちを守ろうとしていました。けれども、その閉ざされた場所のただ中に、主は入って来られます。そして最初にこう言われます。 「あなたがたに平和があるように。」 復活された主がまずお与えになるのは、平和です。責める言葉ではありません。「なぜ逃げたのか」「なぜ信じなかったのか」でもありません。主はまず、傷ついた弟子たちの心に平和を与えられるのです。 これは私たちにとっても同じです。私たちもまた、不安や恐れの中で心を閉ざしてしまうことがあります。失敗、罪、疲れ、人間関係の悩み、将来への不安。そうしたもののために、自分の心に鍵をかけてしまうことがあります。しかし復活の主は、閉ざされた心の外に立ち尽くす方ではありません。主はそのただ中に来てくださる。そして言われます。 「あなたに平和があるように。」..
2026年4月5日 復活の主日
復活の主日 説教「見て、信じた」 皆さん復活祭おめでとうございます。今日、私たちは教会の一年の典礼の頂点、主イエス・キリストの復活を祝っています。十字架につけられて死なれた主が、父なる神の力によって復活された。この出来事こそ、私たちの信仰の中心であり、希望の源です。 今日の福音で、弟子たちが最初に見たのは、復活した主のお姿そのものではありませんでした。彼らが見たのは、取りのけられた石、空になった墓、そして残されていた亜麻布でした。その中で福音は静かに、しかし決定的に語ります。主に愛された弟子だけは「見て、信じた。」ここに、私たちの信仰の姿があります。私たちもまた、復活した主をこの目で直接見るわけではありません。けれども、信仰の眼で見ます。主が生きておられることを知り、感じ取る信仰の感覚のです。復活とは、単に過去に起こった驚くべき奇跡ではありません。それは、死が人間にとって最後の事柄ではないということです。罪と死が人類に対する最終の力ではないということです。絶望が人間の究極の運命ではないということです。キリストが復活されたことによって、神は私たちに
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