2026年5月3日復活節第5主日
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更新日:5 日前
復活節第五主日A年 聖書のメッセージ
今日の福音でイエスは弟子たちに言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。弟子たちは、イエスがご自分の死を告げられたことで、不安と恐れの中にいました。これから何が起こるのか、自分たちはどうなるのか分からない。そのような弟子たちに、イエスはまず「信じなさい」と言われます。
この言葉は、今日の私たちにも向けられています。私たちも、病気、死、将来への不安、人間関係の悩み、教会や社会の問題の中で、心を騒がせることがあります。しかしイエスは、その不安のただ中で、「わたしを信頼しなさい」と招いておられます。信仰とは、ただ教えを知っていることではありません。自分の人生をキリストにゆだね、自分の生き方をキリストの上に築くことです。
第一朗読には、初代教会の中に起こった問題が描かれています。ギリシア語を話す信者たちのやもめが、日々の配給で軽んじられているという不満が起こりました。つまり、初代教会にも不満や対立があったのです。教会は、問題がまったく起こらない場所ではありません。人が集まるところには、誤解もすれ違いも起こります。しかし教会は、その問題を隠さず賢明に解決しようとしました。使徒たちは、みことばの奉仕と祈りを大切にしながら、この時の問題、特に貧しい人々への具体的な奉仕もおろそかにしないために七人の助け手を選びました。ここに教会の基本的な姿があります。教会は、みことばによって生まれ、祈りによって支えられ、奉仕によって生きます。みことばだけを語って困っている人を見ないなら、それは福音的ではありません。反対に、奉仕活動だけをして祈りとみことばを見失うなら、教会はただの活動団体になってしまいます。
今日の福音で、イエスはさらに言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である」。イエスは、御父への道を教えるだけの教師ではありません。イエスご自身が道であり、真理であり、命です。フィリポは「主よ、御父をお示しください」と願いました。それに対してイエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われます。神を知りたいなら、イエスを見つめることです。つまりイエスの言葉、行い、赦し、奉仕、十字架の愛のうちに、御父の心が現れています。
ですからイエスを見つめ深くその御心を黙想しましょう。教会の使命は、自らをキリストに導かれて歩むことと、人々をこのキリストへ導くことだからです。それが救いの使命です。教会がキリストに取って代わるのではありません。教会は、自分自身を誇ったり擁護したりするためではなく、キリストへの道を開くためにあります。そのために、私たち一人ひとりが、ただ置かれている石ではなく、祈り、聞き、仕え、支える「生きた石」となるよう招かれています。
イエスは約束されます。「わたしは戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。これこそ私たちの希望です。真の救いとは、キリストと共にいることです。この希望に支えられて、私たちも心を騒がせず、キリストを信じ、キリストを土台として歩みましょう。そして、みことばを聞き、祈り、互いに仕え合う共同体として、神の光をこの世界に告げ知らせていきましょう。
復活節第5主日A年 説教
今日の福音でイエスは言われます。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」
この言葉を聞くと、私たちは天国に一人ひとりの場所が用意されている、という慰めに満ちたイメージを思い浮かべます。もちろん、それは間違いではありません。しかし今日のみことばは、それだけではなく、今ここで生きる私たちの教会生活にも深く関わっています。
イエスが言われる「父の家」とは、死後の天国だけを指しているのではありません。復活された主に従い、神の愛の中で兄弟姉妹と共に生きるところ、それがすでに父の家です。そして「多くの住まい」とは、一人ひとりに与えられた場所、共同体の中で果たすべき奉仕の場でもあります。
つまり、イエスは私たちにこう語っておられるのです。「あなたには、あなたの場所がある。あなたにしかできない奉仕がある。あなたが兄弟姉妹のために差し出すべき賜物がある。」
第一朗読の使徒言行録では、初代教会の中に問題が起こります。ギリシア語を話す信者たちのやもめが、日々の分配で軽んじられている、という不満が出てきたのです。
初代教会というと、私たちは理想的な共同体を想像します。皆が心を一つにし、祈り、パンを裂き、持ち物を分かち合っていた。しかし現実には、そこにも問題がありました。言葉の違い、文化の違い、考え方の違い、そして不満や緊張がありました。
大切なのは、初代教会に問題がなかったことではありません。問題が起きたとき、それをどう受け止め、どう解決したかです。使徒たちは、すべてを自分たちだけで抱え込もうとはしませんでした。共同体の中から信頼できる七人を選び、貧しい人々への奉仕を任せました。こうして教会は、一部の人だけがすべてを担う共同体ではなく、それぞれが賜物に応じて仕える共同体へと成長していきました。
これは今日の私たちにも大切なことです。
教会は、天使の集まりではありません。考え方も、国籍も、文化も、性格も違う人々の集まりです。ですから、時には誤解も起こります。不満も出ます。うまくいかないこともあります。けれども、それだけで教会が壊れるわけではありません。初代教会にも問題はありました。大切なのは、問題を福音の光の中で受け止め、互いに仕え合う道を探すことです。そこに、教会の成熟があります。
第二朗読でペトロは、信者を「生きた石」と呼びます。教会は、ただ建物のことではありません。キリストを土台として、一人ひとりの信者が生きた石として組み合わされていく霊的な家です。一つの石だけでは家は建ちません。大きな石も、小さな石も、目立つ石も、見えないところで支える石も必要です。同じように、教会にはさまざまな奉仕があります。朗読する人、歌う人、掃除をする人、花を飾る人、子どもを育てる人、病人を訪ねる人、悩んでいる人の話を聞く人、静かに祈って支える人。どれも、神の家を建てるために必要な働きです。
社会では、場所や役割は、権力、名声、収入によって評価されがちです。しかしイエスの共同体では違います。最も大切な場所は、最もよく仕えることのできる場所です。神の国では、偉い人とは支配する人ではなく、仕える人です。ですから、今日のみことばは私たちに問いかけます。私は教会の中で、ただの観客になっていないでしょうか。誰かがやってくれると思って、傍観者になっていないでしょうか。自分に与えられた賜物を、兄弟姉妹のために差し出しているでしょうか。教会は、一部の人だけが働き、他の人が見ている場所ではありません。洗礼を受けたすべての人に、使命があります。信徒の奉仕は、司祭が足りないから仕方なく手伝う、というものではありません。洗礼によって、すべてのキリスト者がキリストの使命にあずかっているからです。
福音の後半で、フィリポはイエスに願います。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。」
それに対してイエスは答えます。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」
神を見たいなら、イエスを見ればよい。イエスがどのように人を愛し、誰に近づき、誰を支え、誰を赦し、誰のために命を差し出したかを見ればよい。そこに父の姿があります。
そしてイエスは、御自分を信じる者は、御自分と同じ業を行う、と言われます。それは単に奇跡を行うという意味ではありません。イエスと同じように、愛のために自分を差し出すということです。
私たち一人ひとりには、父の家の中に場所があります。それは名誉の席ではありません。奉仕の場所です。誰かより上に立つ場所ではありません。誰かを支える場所です。今日、主は私たちに呼びかけておられます。「あなたの場所はここにある。あなたの賜物を差し出しなさい。わたしと共に、兄弟姉妹に仕えなさい。」
父の家には多くの住まいがあります。教会には、まだ空いている奉仕の場所があります。
そしてその一つは、私たち一人ひとりのために用意されています。私たちがそれぞれの場所で、喜びをもって仕えることができますように。そして私たちの共同体が、キリストを土台とする、生きた神の家として成長していくことができますように。
