2026年6月7日 キリストの聖体
- 7 日前
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聖体の祭日 メッセージ
私たちは、困ったときには神を思い出します。苦しいとき、行き詰まったとき、自分の力ではどうにもならないとき、人は自然に神に向かって叫びます。
しかし、信仰にとって本当に危険なのは、苦しみだけではありません。むしろ、すべてがうまくいっている時こそ危険です。生活が安定し、食べ物があり、仕事があり、予定があり、便利なものに囲まれている時、人は神を否定するというより、神を忘れてしまうのです。
今日の第一朗読、申命記は、イスラエルにこう呼びかけます。
「あなたは心に留めなさい。主なる神が荒れ野であなたを導かれたことを。」
イスラエルの民は、荒れ野で自分の無力さを知りました。食べ物も水も、自分たちの力では手に入りませんでした。マンナも水も、神から与えられたものでした。荒れ野とは、人間が自分の力だけでは生きられないことを知る場所です。
そこでイスラエルは、決定的な真理を学びました。
「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる。」
もちろん、人間にパンは必要です。食べ物も、仕事も、住まいも、健康も必要です。しかし、それだけでは人間は生きられません。物があっても、心が飢えることがあります。便利な生活をしていても、魂が渇くことがあります。たくさん持っていても、なぜ生きるのか分からなくなることがあります。
現代の私たちは、多くのものに囲まれています。食べ物、情報、技術、便利さ、楽しみ。それらは悪いものではありません。しかし、それらが神の代わりになる時、人間は小さくなります。豊かさの中で、神を忘れます。そして神を忘れる時、人は自分自身の本当の飢えにも気づかなくなります。
今日の福音で、イエスはその飢えに向かって言われます。
「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である。」
これは、単なる美しい比喩ではありません。イエスは、私たちに教えだけを与えるのではありません。励ましの言葉だけを与えるのでもありません。ご自分自身を与えてくださいます。命のパンとして、私たちの内に入ってくださいます。
聖体とは、キリストの死と復活の記念です。しかし、ここでいう「記念」とは、昔の出来事を懐かしく思い出すことではありません。聖書における記念とは、神の救いの出来事が、今ここで私たちのために現実の恵みとなることです。
ミサのたびに、私たちはただ最後の晩餐を思い出しているのではありません。十字架と復活の主が、今ここで、私たちにご自分を与えてくださるのです。聖体は、過去の記憶であると同時に、現在の現存です。そして、主が来られる日を待ち望む未来への希望でもあります。
だから聖体は、私たちの信仰の中心です。私たちは聖体を受ける時、キリストと深く結ばれます。ヨハネ福音書は、それを「とどまる」という言葉で表します。キリストが私たちの内にとどまり、私たちもキリストの内にとどまるのです。
ただし、聖体は魔法ではありません。聖体を受けさえすれば、自動的に信仰者として生きられる、ということではありません。キリストが私たちの内にとどまってくださるなら、私たちも信仰によってキリストの内にとどまらなければなりません。
聖体拝領は、受けて終わりではありません。そこから、キリストにとどまる生活が始まります。キリストの言葉に耳を傾けること。キリストの愛に生きること。キリストが赦されたように赦すこと。キリストが仕えられたように仕えること。それが、聖体にあずかる者の生き方です。
さらに、聖体は私とキリストだけの個人的な関係に閉じません。第二朗読でパウロは言います。
「パンは一つだから、私たちは多数であっても一つの体です。皆が一つのパンにあずかるからです。」
これは、とても大切な言葉です。私たちは一つのパンをいただきます。だから、私たちは一つの体にされます。聖体は、教会をつくる秘跡です。
もし私たちが聖体にあずかりながら、兄弟姉妹を軽んじ、分裂を放置し、無関心のままでいるなら、それは聖体の恵みと矛盾します。キリストと一致すると言いながら、キリストが愛された人々を拒むことはできません。
聖体は、私たちをキリストに結びます。そして同時に、互いに結びます。キリストとの交わりは、兄弟姉妹との交わりを生み出します。もし聖体を受けても、私たちの中に愛が育たないなら、私たちは聖体を本当の意味で生きているかを問い直さなければなりません。
今日、主は私たちに呼びかけておられます。
「思い起こしなさい。あなたの命は、あなた自身の力だけで成り立っているのではない。わたしがあなたを導き、養い、生かしている。」
そして主は、命のパンとして、ご自分を私たちに与えてくださいます。
私たちはこの聖体を受けて、もう一度、荒れ野の本質に立ち返りたいと思います。人はパンだけで生きるのではありません。人は神によって生きます。キリストの命によって生きます。そして、一つのパンにあずかる私たちは、一つの体として生きるよう招かれています。
聖体を受けるたびに、私たちが神を思い起こし、キリストにとどまり、兄弟姉妹と一つになる者へと変えられていきますように。
聖体の祭日 説教
今日、私たちはキリストの聖体、主の御からだと御血の祭日を祝っています。
この祭日は、聖体のうちに生きておられ、真に現存しておられるキリストへの信仰を、教会全体で公に表す日です。聖体には、キリストの愛が最も深く現れています。イエスは、十字架の上でご自分の命をささげ、さらに聖体において、ご自分の体と血を私たちの命の糧として与え続けてくださいます。
今日の福音で、イエスは言われます。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
この言葉は、簡単に理解できるものではありません。イエスの時代の人々も、「どうしてこの人は、自分の肉を私たちに食べさせることができるのか」とつまずきました。しかし、信仰とは、神を自分の理解できる範囲に閉じ込めることではありません。理解し尽くせない神の恵みに、自分をゆだねることです。
ヨハネ福音書は、「言は肉となった」と語ります。神の子は、遠くから私たちを眺める方ではなく、人間の弱さ、苦しみ、死すべき現実の中にまで降りて来られました。そして、その「肉」が、今、私たちのためのパンとして与えられます。聖体は、受肉と十字架の神秘が、今も私たちのために差し出される秘跡です。
第一朗読では、荒れ野を旅するイスラエルの民が思い起こされます。荒れ野は、自分の力だけでは生きられない場所です。そこで神は、民にマンナを与えられました。それは単なる食べ物ではなく、神が共にいて、養い、導いておられるしるしでした。
「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべてのものによって生きる。」
私たちの人生にも荒れ野があります。思うようにいかない時、力が足りない時、孤独を感じる時、これからどうなるのか分からない時があります。また、現代の世界も、豊かで便利に見えながら、競争、効率、消費、無関心によって心が乾いていく荒れ野です。
その荒れ野の中で、キリストは言われます。
「わたしは、生きたパンである。」
聖体は、人生の荒れ野を歩むためのパンです。ただ一日を生き延びるためではなく、永遠の命へ向かって歩き続けるためのパンです。私たちが倒れないように、希望を失わないように、主ご自身が糧となってくださいます。
しかし、聖体は慰めで終わるものではありません。聖体は、私たちを変える秘跡です。聖トマスは、聖体の固有の効果は「人間を神へと変容させること」だと言いました。同じようにレオ1世教皇も教えています。聖体を受けるとは、キリストをいただくだけでなく、キリストの命にあずかり、キリストの姿に自分が少しずつ変えられていくことです。
もちろん、その変化は一瞬で完成するものではありません。聖体を受けても、私たちは相変わらず弱く、失敗し、迷います。しかし、聖体に養われ続けるなら、キリストは少しずつ私たちを変えてくださいます。自分中心の思いを、キリストの思いへ。閉じた心を、与える心へ。恐れを、信頼へ。無関心を、愛へと変えてくださいます。
そして、聖体に養われた者は、今度は自分自身が他の人のためのパンとなるよう招かれます。イエスは、ご自分を「世の命のために」与えるパンとされました。聖体をいただく私たちも、キリストと共に、世の命のために裂かれるパンとなるよう招かれています。
それは、特別なことだけではありません。誰かの話を聞くこと、家庭で忍耐すること、共同体のために働くこと、弱い人を見捨てないこと、赦すこと、仕えること。これら一つひとつが、聖体的な生き方です。
第二朗読で、パウロは言います。
「パンは一つだから、私たちは多数であっても一つの体です。皆が一つのパンにあずかるからです。」
聖体は、私とキリストだけの個人的な関係に閉じません。一つのパンにあずかる私たちは、一つの体にされます。キリストの体をいただく者は、キリストの体である教会を大切にするよう招かれます。
今日、主は私たちに言われます。
「わたしは、あなたの命のパンである。」
この聖体を受ける私たちが、人生の荒れ野を歩む力をいただき、キリストの命に養われながら、私たち自身もまた、隣人のために裂き与えられるパンとなることができますように。
