2026年5月10日復活節第6主日
- 4 時間前
- 読了時間: 6分
復活節第6主日A年 聖書のメッセージ「聖霊は、私たちを一人にしない」
今日の福音で、イエスは弟子たちに言われます。
「わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。」
弟子たちは、イエスが去って行かれることを感じ、不安になっていました。これから誰が自分たちを導いてくれるのか。困難や迫害の中で、どうすればよいのか。その弟子たちに、イエスは「もう一人の弁護者」、すなわち聖霊の到来を約束されます。
聖霊は、遠くにいる抽象的、ただ不思議な力ではありません。聖書において、聖霊は神の「息」「風」「力」、つまり神のいのちの息吹です。私たちを内側から動かし、支え、福音に従って生きる力、救いの恵みを与えてくださる方です。
人間には、正しい道を知っていても、その道を歩けない弱さがあります。律法は道を示します。しかし、道を示すだけでは人は目的地に着けません。道路標識があっても、車を動かす力、燃料がなければ進めないのと同じです。イエスは道を教えただけではありません。その道を歩む力、聖霊を与えてくださいます。
第一朗読では、フィリポがサマリアで福音を告げ知らせます。サマリアは、ユダヤ人にとって宗教的、文化的また人種的にも隔たりの場所でした。しかし、迫害によって散らされた教会は、そこで福音を宣べ伝えます。すると人々は信仰を受け入れ、町には大きな喜びが生まれました。ここに、聖霊の働きがあります。聖霊は、教会を閉じこもらせません。壁を越えさせます。困難に遭う人、傷ついた人、遠くにいる人、違う背景を持つ人のところへ、福音を運ばせます。そして、そこに喜びを生み出します。
しかし、新しく生まれた共同体は、決して孤立したまま生きるのではありません。ペトロとヨハネがサマリアを訪れ、人々への按手によって聖霊の賜物を示し与えます。これは、新しい共同体が使徒的教会との交わりの中に一致して生きることをも表しています。聖霊は、個人を励ますだけでなく、教会を一つに結ぶ方でもあります。
そして第二朗読で、ペトロは、困難の中にあるキリスト者に語ります。
「あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるようにしていなさい。ただし、穏やかに、敬意をもって。」
信仰を証しする、福音を宣べ伝えるとは、単に強い自己主張をすることでも宗教実践を相手に誇示したり押し付けたりすることでもありません。声を大きくして他者を圧倒し自論が勝つことでもありません。キリスト者の言葉は、柔和で、敬意があり、賢明で正しい良心から出るものでなければなりません。主義主張で戦って議論に勝っても、福音の息吹、隣人への愛を失っていたら全て負けです。
聖霊は「弁護者」、パラクレートスという存在として示されます。これは、困難の中にある人のそばに立つ者、歩みを支える者という意味です。私たちが弱いとき、罪に責められるとき、希望を失いそうになるとき、悲しみに沈む時、聖霊は私たちのそばに立っていてくださいます。そして、キリストの示した福音の道をもう一度歩む力を与えてくださいます。
また、聖霊は「真理の霊」でもあります。真理とは、単なる知識、科学的確実性ではありません。イエス・キリスト御自身です。慈愛と正義そのものです。聖霊は私たちを真理であるキリストへ導き、福音を深く理解させ、いつも新しく教会を生かしてくださいます。
だから、私たちは恐れる必要がありません。自分の弱さを見ても、教会の困難を見ても、時代の変化を見ても、世の混乱を前にしても疑心暗鬼になり絶望する必要はありません。聖霊は、今も働いておられます。神の息吹は、止まっていません。問題は常に信仰の弱い、愛の足りない、真理に目が閉じてしまっている我々の側にあります。
今日、私たちは主の約束を信じたいと思います。「わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。」
主は、私たちを一人にされません。聖霊は、私たちのそばに立ってくださいます。聖霊は、私たちを真理へ導いてくださいます。聖霊は、教会を壁の外へ、世界の外側へ向けて送り出し、心を和らげ清め癒し、励まし力付け、人生の喜びを生み出してくださいます。この聖霊に心を開きましょう。
そして、恐れではなく信頼をもって、批判や対立ではなく柔和さと謙遜さ、慈愛をもって、閉じこもるのではなく福音に支えられた心の喜びをもって、諦めではなく、希望をもって、復活された主を生活の中で証ししていこうではありませんか。
復活節第6主日A年 説教
今日の福音で、イエスは弟子たちに言われます。
「わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。」イエスはご自分の死を前にして、不安になる弟子たちを慰めておられます。しかし、その慰めは単なる励ましの言葉ではありません。イエスは約束されます。御父も、御子も、聖霊も、私たちと共にいてくださる、と。
特に今日の福音では、聖霊が「弁護者」「慰め主」として約束されています。つまり、教会は決して一人で歩んでいるのではありません。聖霊は、昔だけ働いた方ではありません。今も教会を導き、支え、力づけておられます。
だから、私たちは旧約聖書で戒められているように「昔はよかった」と過去ばかりを振り返る必要はありません。もし聖霊が「永遠に」共にいてくださるなら、今の教会にも、今の私たちにも、神の力は働いているからです。
しかし、この主の現存には一つの条件があります。イエスは言われます。「あなたがたがわたしを愛しているなら、わたしの掟を守る。」イエスを愛するとは、ただ感動することや感傷的でいること、優しい気持ちになることだけでもありません。イエスの言葉を受け入れ、それを日々の生活で実行することです。
そして、イエスの掟の中心は愛です。神を愛し、人を愛することです。もし私たちがイエスを愛するなら、イエスが愛しておられる人々を無視することはできません。近くにいる人、遠くにいる人、理解しやすい人、理解しにくい人。その一人ひとりを、キリストの目で見、同じ心で愛するよう招かれています。
第一朗読では、フィリポがサマリアで福音を告げ知らせます。サマリア人は、当時のユダヤ人にとって「縁遠い人々」でした。しかし、神の言葉はそこにも届きます。そして、その町には大きな喜びが生まれました。ここに教会の姿があります。教会は、閉じこもる共同体ではありません。聖霊に導かれて、まだ福音を知らない人、教会から遠く感じている人、傷ついている人のところへ向かう共同体です。そして、そこに本当の喜びが生まれます。
そして第二朗読でペトロは言います。「あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるようにしていなさい。」キリスト者の証しは、まず希望を失わない生き方です。苦しみや困難があっても、私たちは孤児ではありません。主が共におられます。聖霊が支えてくださいます。御父の愛が私たちを包んでいます。
今日、私たちはもう一度、この約束を信じたいと思います。主は私たちを一人孤独にはなさいません。
聖霊は教会を見捨てておられません。神の愛は、今も「永遠に」信じる私たちと共にあります。だから、恐れではなく信頼をもって、閉じこもるのではなく愛をもって、昔を嘆くのではなく今の使命を生きながら、キリストの喜びを証ししていきましょう。
