2026年5月31日 三位一体の主日
- 5月26日
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三位一体の主日の意味
三位一体の主日に大切なのは、テルトゥリアヌスに由来する三位一体と言う概念を単に理解することではありません。三位一体は、信仰生活の中で生きるべき神秘です。
三位一体とは、父と子と聖霊という三つのペルソナにおける唯一の神の神秘です。しかし、それは単なる神学的な定式ではありません。三位一体は、神が孤独な絶対者ではなく、愛と交わりそのものであることを示しています。したがって、三位一体を信じるとは、教義を知識として覚えることにとどまらず、神の愛、赦し、交わり、派遣、救いの中に、自分の人生を置いて生きることを意味します。
まず問われるのは、「人はどのような神を信じているのか」ということです。単に「神を信じている」と言うだけでは十分ではありません。大切なのは、その神をどのような方として信じているかです。
人はしばしば、神を厳しく監視する方、罪を記録して最後に罰する方、遠くにいて人間の苦しみに関心を持たない方、あるいは必要な時だけ頼る対象として考えてしまいます。しかし、聖書が示す神はそのような神ではありません。
第一朗読の出エジプト記では、神はご自分を「あわれみ深く、恵みに満ち、怒るに遅く、愛とまことに富む神」として示されます。つまり、神の第一の顔は裁きではなく、あわれみです。
この神のあわれみは、出エジプト記34章の出来事において特に明らかになります。イスラエルの民は金の子牛を造り、神を裏切りました。契約は破られました。しかし神は、そこで民を見捨てるのではなく、ご自分の名を明らかにし、契約を更新しようとされます。
ここに示されるのは、神は裏切られても赦し、壊れた関係を回復しようとされる方であるということです。しかも、神の赦しは単なる「帳消し」ではありません。神の赦しは、人間を解放し、再び神の民として立ち上がらせるものです。つまり、赦しとは単なる法的処理ではなく、神との関係の回復なのです。
この点と関連して、「神の罰」という表現も慎重に理解する必要があります。聖書には、神が罰するという表現があります。しかし、それをそのまま、神が怒って人間にさらに悪を加えるという意味で理解すべきではありません。むしろ、「神の罰」と呼ばれるものは、多くの場合、人間の罪がもたらす結果として理解することができます。
罪とは、道を誤ることです。人は幸福を求めながらも、誤った道を歩み、自分自身や他者を傷つけます。そして、その結果が時には次の世代にまで及ぶこともあります。しかし神は、その上にさらに悪を加える方ではありません。神は、罪によって壊れたものを救い、癒すために介入されます。したがって、神の本質は罰ではなく救いです。
この救いの神の姿は、福音においてさらに明確になります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
この言葉は、神の啓示の頂点として理解することができます。神は世を憎まれたのではありません。世を見捨てられたのでもありません。世を裁くために御子を遣わされたのでもありません。神は、世を救うために御子を遣わされたのです。
ここでいう「世」とは、罪によって傷ついた人類全体を指します。神は正しい者だけを愛されたのではなく、罪人を含む世界全体を愛されました。その愛は、御子の受肉だけでなく、十字架において完全に示されます。御子は父から与えられただけでなく、ご自分を自由に引き渡されました。
この神の愛に対する人間の応答が信仰です。信仰とは、単なる知的承認ではありません。キリストを受け入れること、キリストに自分を委ねること、神の愛の中に入ることです。
「神がいる」と認めるだけでは十分ではありません。大切なのは、御子を通して示された神の愛に信頼し、その愛に自分の人生を開くことです。したがって、信仰とは、神についての情報を持つことではなく、神との関係に入ることです。神の愛に信頼し、その愛に自分を委ねることが、聖書の語る信仰の中心です。
ヨハネ福音書には、「信じない者はすでに裁かれている」という厳しい言葉もあります。しかし、この言葉は、神が冷酷に人間を断罪するという意味ではありません。人間が神の愛を拒むことによって、自らを命の外に置いてしまうという意味です。
神は裁きと死を望んでおられるのではありません。神は救いを望んでおられます。しかし、人間が神の愛を拒むなら、その拒否自体が裁きとなります。つまり、裁きとは、神が外から下す罰というより、救いの光を拒む人間の自由な選択の結果なのです。
また、三位一体の神秘は、教会共同体のあり方にも深く関わっています。三位一体は「一致と区別」の神秘です。父は子ではなく、子は聖霊ではなく、聖霊は父ではありません。しかし、三つのペルソナは唯一の神です。
ここから、教会共同体にとって重要な教訓が導かれます。一致とは、すべての人を同じにすることではない、ということです。
教会の一致は、画一化ではありません。性格、文化、言語、役割、賜物の違いを消すことではありません。むしろ、それらの違いを愛の交わりの中で結び合わせることです。これは、三位一体の神を信じる教会にとって、非常に重要な共同体の原理です。
第二朗読の二コリント13章には、三位一体的な挨拶が記されています。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。」
この式文は、キリスト者の生活全体を要約しています。キリストには恵み、父なる神には愛、聖霊には交わりが帰されます。この三つが、救いの内容を形づくっています。
また、この式文は教会共同体の一致の根拠も示しています。信者は、同じ父の子であり、唯一の御子の兄弟姉妹であり、同じ聖霊によって生かされているからです。
さらに大切なのは、神の啓示は生活に接続されて初めて救いとなるということです。三位一体についてどれほど正しく語っても、それが生活から切り離されているなら、冷たい抽象論に終わってしまいます。
テレビをつけても画面が映らない時、いろいろ調べた後で、実は電源が抜けていただけだったということがあります。同じように、聖書も三位一体の神秘も、生活という電源につながっていなければ、喜びと救いの源にはなりません。
したがって、三位一体は神学者だけのテーマではありません。信者一人ひとりの祈り、赦し、共同体生活、宣教、日々の判断の中に入り込まなければならない神秘です。
神を知るとは、知識を増やすことだけではありません。もちろん、神学、教理教育、神の神秘の探究は、信者にとって大切な務めです。しかし、神は愛です。したがって、神を知るとは、愛、自己贈与、赦しを生きることでもあります。
どれほど神学的知識が豊かであっても、愛と赦しがなければ、それは生活に接続されていない神学です。逆に、愛を生きる中で、人は神をより深く知るようになります。
三位一体の主日は、私たちの信仰と祈りを浄化する機会でもあります。私たちは、迷信、魔術的な信仰、人格性を失った習慣的な宗教、霊的怠惰、必要な時だけ神を利用する祈りから離れる必要があります。そして、神のことばが示す清らかな神の御顔を取り戻さなければなりません。
その目標は、ヨブの言葉に示されています。
「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ています。」
これは、伝聞の信仰から、出会いの信仰へ進むことを意味します。
祈りについても同じことが言えます。私たちは、願い求める祈りから、純粋な賛美の祈りへと成長する必要があります。もちろん、願いの祈りは大切です。しかし、それだけにとどまると、神は「必要な時に助けてもらう存在」になってしまいます。
三位一体の神を知る信仰は、やがて賛美へと向かいます。神が神であることを喜び、神の愛をたたえ、被造物全体が神の栄光を歌っていることを見るようになるのです。
以上を総合すると、三位一体の主日のメッセージは次のようにまとめることができます。
三位一体の神は、遠くから人間を監視し罰する神ではありません。父の愛、子の恵み、聖霊の交わりによって、罪によって傷ついた世界を救い、人間を神の家族へと招く神です。
したがって、三位一体を信じるとは、神の愛に信頼し、赦しを受け入れ、交わりを築き、信仰と祈りを浄化しながら、生活全体を父と子と聖霊のみ名のうちに置くことです。
三位一体は、説明し尽くすための教義ではありません。父の愛、子の恵み、聖霊の交わりを、私たちの生活の中で生きるための神秘です。
三位一体の主日 説教 愛である神
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。
今日は、至聖なる三位一体の主日です。私たちは、父と子と聖霊、唯一の神を礼拝します。
三位一体というと、私たちはすぐに難しい教義を思い浮かべます。父と子と聖霊は三つのペルソナでありながら、唯一の神である。そう聞くと、理解しようとしても、なかなか頭の中で整理しきれないかもしれません。
しかし、今日の典礼が私たちに示しているのは、三位一体を理屈で説明することではありません。今日の朗読が私たちの心に向けているのは、三位一体の愛です。
父と子と聖霊は一つです。なぜなら、神は愛だからです。父はすべてを子に与え、子はすべてを父から受け取り、父に応えます。そして聖霊は、父と子の愛の交わりとして、私たちの心に注がれます。ですから今日は、難しい神学の祝日である前に、愛である神を知る祝日です。
第一朗読は、驚くべき場面を伝えています。イスラエルの民は、神と契約を結んだばかりでした。しかし、モーセが山からなかなか戻って来ないのを見ると、民はアロンに頼み、目に見える神を作らせます。こうして金の子牛が作られます。これは、神への大きな裏切りでした。契約は破られました。モーセはシナイ山から降りてきて、その罪を見て、契約の板を砕きます。
ところが、神はそこで民を完全に滅ぼされません。モーセの執り成しを受け入れ、赦しを与えようとされます。そして神は、再び石の板を持って山に登るようモーセに命じられます。
そこで神は、ご自分がどのような方であるかを示されます。「主、主、あわれみ深く、恵みに満ちた神、怒るに遅く、恵みとまことに富む方。」
ここに、神のまことの顔があります。神は、罪人を滅ぼすことに喜びを見いだす方ではありません。神は、罪の現実の中でこそ、ご自分のあわれみを示される方です。もちろん、罪は軽いものではありません。罪は人を傷つけ、共同体を壊し、神との関係をゆがめます。しかし、神はその罪の場所に来て、滅ぼすのではなく、赦し、癒し、もう一度関係を回復しようとされます。
私たちは時々、神を厳しい裁判官のように考えてしまいます。失敗を数え、罪を記録し、最後に罰を与える方のように思ってしまいます。しかし、聖書が示す神はそれだけではありません。神は、あわれみ深く、愛に富む方です。罪人を見捨てるのではなく、罪人を救おうとされる方です。
福音は、その神の愛をさらに深く示します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」この言葉は、聖書の中心と言ってもよい言葉です。神は世を憎まれたのではありません。世を見捨てられたのでもありません。世を裁くために御子を遣わされたのでもありません。神は、世を救うために御子を遣わされました。ここでいう「世」とは、清く正しい人々だけのことではありません。罪に傷つき、迷い、自分で自分を壊してしまう人間の世界です。その世を、神は愛されました。
神は、最も大切なものを世に与えられました。ご自分の独り子です。そして御子は、ただ世に来られただけではありません。病人を癒し、罪人を赦し、すべての人を受け入れ、神の真理を教え、最後には十字架の上でご自分の命を与えられました。
父は御子を与えられます。御子はご自分を与えられます。聖霊はその愛を私たちの心に注がれます。ここに、三位一体の神秘があります。
三位一体とは、遠い天の中で閉じている神の仕組みではありません。父の愛、子の恵み、聖霊の交わりが、私たちを救うために働いているという神秘です。そして、この愛が最もはっきり現れた場所が十字架です。十字架の上で、父は御子を私たちに与えられました。十字架の上で、御子は私たちのためにご自分を引き渡されました。十字架の実りとして、聖霊が私たちに与えられます。十字架は、単なる苦しみのしるしではありません。神がどれほど人間を愛しておられるかを示す、もっとも深いしるしです。
この神の愛に対して、人間に求められているのは信仰です。
福音は言います。「御子を信じる者は裁かれない。しかし信じない者はすでに裁かれている。」
これは、神がすぐに罰を下すという意味ではありません。神の愛が差し出されているのに、それを拒むなら、人は自分で救いの外に立ってしまうという意味です。
光が差し込んでいるのに、窓を閉ざすことはできます。手が差し伸べられているのに、それを振り払うこともできます。その時、人を裁いているのは神の愛の不足ではありません。人間自身が、神の愛を拒んでいるのです。信仰とは、神について何かを知っていることだけではありません。信仰とは、神の愛を受け入れ、自らを委ねることです。キリストに信頼し、自分の人生をその方に向けていくことです。
そして、神の愛を受け入れた人は、その愛を生きるよう招かれます。
第二朗読で、パウロは言います。「喜びなさい。完全を目指しなさい。互いに励まし合いなさい。同じ思いを抱きなさい。平和に生きなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」神は、愛と平和の神です。ですから、神を信じる共同体は、愛と平和を生きる共同体でなければなりません。
キリスト者の共同体は、ただ同じ場所に集まる人々の集まりではありません。三位一体の愛に招かれ、その愛を分かち合う共同体です。もちろん、共同体の中には違いがあります。性格の違い、考え方の違い、言葉の違い、文化の違い、役割の違いがあります。だから時には、ぶつかることもあります。正直、教会共同体はいつも簡単ではありません。けれども、簡単ではないからこそ、愛が必要です。
三位一体の神は、孤独な神ではありません。父と子と聖霊の交わりです。だから、三位一体を信じる私たちも、分裂ではなく交わりをつくる者として生きるよう招かれています。
パウロは最後に、三位一体の美しい挨拶を述べます。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。」この言葉は、ミサの初めにも用いられます。何気なく聞き流してしまうことがありますが、ここにはキリスト者の信仰生活全体が込められています。
主イエス・キリストの恵み。父である神の愛。聖霊の交わり。恵みとは、無償で与えられる愛です。神の愛は、救いの源です。聖霊の交わりは、私たちを神の愛の中に結び合わせます。
私たちは、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けました。私たちの信仰生活は、三位一体の名によって始まりました。そして、ミサの中で、父の愛、子の恵み、聖霊の交わりを受けながら、生かされています。
ですから、三位一体の主日は、単に難しい教義を考える日ではありません。愛である神を喜び、その愛を受け入れ、その愛に従って生きる決意を新たにする日です。
神は、御子を与えるほどに私たちを愛されました。御子は、十字架に至るまで私たちを愛されました。聖霊は、その愛を私たちの心に注いでくださいます。この愛を受け入れましょう。この愛に信頼して前進しましょう。
そして、この愛を、家庭で、教会で、日々出会う人々との関係の中で生きていきましょう。
三位一体は、説明し尽くすための神秘ではありません。愛である神のいのちに、私たちが招かれているという神秘です。父なる神の愛に包まれ、子の恵みに支えられ、聖霊の交わりの中で、私たちも愛と平和の道を歩んでまいりましょう。アーメン。
