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2026年5月24日 聖霊降臨の主日

  • 5月20日
  • 読了時間: 12分

聖霊降臨の主日聖書のメッセージ 「恐れから使命へ――聖霊は教会を動かす」

 

みことばを読むために

聖霊は教会を「新しい契約の民」として生かし、多様な賜物を一致へ導く神の力であるということです。


第一に、五旬祭はもともと農耕祭でした。初穂と収穫を祝う祭りでしたが、イスラエルはそれを救いの歴史の中に位置づけ、神と民との契約を記念する祭りとして理解するようになりました。さらにクムラン共同体では、五旬祭はエレミヤが預言した「新しい契約」の祭りとされ、清められた新しい民に神の霊が注がれる時として考えられていました。


第二に、聖霊の象徴として重要なのは「風」と「火」です。ヘブライ語では「霊」と「風」は同じ語で表されます。そのため、イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言う場面は、新しい創造を表しています。創世記で神が人に命の息を吹き入れたように、復活したキリストは弟子たちに聖霊を与え、新しい人間、新しい神の民を生み出します。


第三に、「火」「轟音」は神の顕現の象徴です。シナイ山やエリヤの物語において、火は神の力と超越性を示します。火は人間が所有したり支配したりできないものですが、人を照らし、温め、生かします。同じように、聖霊は人間の所有物ではなく、神の力と近さを示す現実です。


第四に、聖霊の第一の働きは、罪から人を清め、解放することです。洗礼と和解の秘跡を通して、神の赦しが与えられます。そして赦された者は、自分も兄弟姉妹を赦す者となります。聖霊は教会を聖化し、命を与える方です。


第五に、聖霊は教会の中のさまざまな賜物、つまりカリスマの源です。教会は静的な一枚岩ではなく、生きた体です。そこには多様な働き、役割、奉仕があります。しかし、その根は一つの聖霊にあります。各人に与えられる賜物は個人的なものではありますが、私的な目的のためではなく、教会全体の益のために与えられます。


第六に、五旬祭の「異言」は、単なる特別な能力の誇示ではなく、福音の普遍性を示します。さまざまな民族や文化の人々が、それぞれの言葉で神の業を聞くことによって、バベルで分裂した人類が、聖霊によって多様性の中で一致を取り戻すことが示されます。


第七に、聖霊は教会を一致させる力です。パウロがコリントの教会に語ったように、共同体が分裂しやすいからこそ、カリスマの真正性は、イエスを主と告白する信仰と、共同体の益に仕えるかどうかによって判断されます。多様な器官が一つの体を形づくるように、教会も多様な賜物を持ちながら、聖霊によって一つにされます。


まとめとして、この文書は聖霊を、新しい契約を実現し、罪から解放し、教会に命を与え、多様性を一致へ導く方として描いています。だから教会は、絶えず聖霊を呼び求めなければなりません。「聖霊よ、来て、私たちを照らしてください」。


みことばの解釈


今日、教会は聖霊降臨を祝います。聖霊降臨は、単に復活節の終わりではありません。復活されたキリストのいのちが、教会の中で本格的に働き始める日です。言い換えれば、教会が聖霊によって息を吹き込まれ、恐れから立ち上がり、世界へ向かって歩み出す日です。

弟子たちは、最初から勇敢だったわけではありません。むしろ、福音が伝えているように、彼らは戸を閉めて、恐れの中に閉じこもっていました。イエスを裏切った者、逃げた者、見捨てた者たちです。彼らの心には、罪悪感、不安、失望、そしてこれからどうすればよいのか分からない混乱があったはずです。


その真ん中に、復活された主が来られます。そして最初に言われます。

「あなたがたに平和があるように」。


これは単なる挨拶ではありません。復活された主が与える平和です。十字架と復活によって勝ち取られた、神との和解の平和です。弟子たちは、まず叱られたのではありません。「なぜ逃げたのか」と責められたのでもありません。復活された主は、まず平和を与えられました。


ここに福音の中心があります。キリストは、人間の弱さを暴くために来られるのではなく、その弱さの中に平和を与え、新しく立ち上がらせるために来られます。教会は、完全な人間の集まりではありません。赦された人々の集まりです。傷のない人々の共同体ではありません。復活された主の平和によって、もう一度歩み始める人々の共同体です。

そして主は、弟子たちに息を吹きかけて言われます。


「聖霊を受けなさい」。

この「息」は、創世記の創造の場面を思い起こさせます。神が人間に命の息を吹き込まれたとき、人は生きる者となりました。同じように、復活されたキリストは弟子たちに聖霊を吹き込み、教会を新しいいのちに生きる者とされます。聖霊降臨とは、教会の再創造です。死と恐れに閉じこもっていた共同体が、赦しと平和を運ぶ共同体へと造り変えられるのです。

使徒言行録では、そのことがさらに力強く描かれます。弟子たちは一つの場所に集まっていました。すると、激しい風が吹いて来るような音がし、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまります。そして彼らは、ほかの言葉で語り始めます。


ここで大切なのは、聖霊が人々の違いを消し去ったのではない、ということです。言葉の違い、民族の違い、文化の違いは残っています。しかし、その違いが分裂の原因ではなくなります。皆が、自分の言葉で神の偉大な業を語りまた聞くのです。

これはバベルの塔の逆転です。バベルでは、人間の傲慢が言葉を混乱させ、人々を分裂させました。しかし聖霊降臨では、神の霊が違いの中に一致を生み出します。聖霊は、皆を同じ色に塗りつぶす方ではありません。多様な人々を、多様なまま、一つの使命へと結び合わせる方です。


これは、今日の教会にとって非常に大切なことです。教会には、さまざまな人がいます。考え方も、性格も、文化も、言葉も、信仰の歩みも違います。熱心な人もいれば、迷いながら来ている人もいます。教会を長く支えてきた人もいれば、最近来始めた人もいます。もし聖霊が働いていなければ、その違いはすぐに衝突の原因になります。小さな共同体でも、簡単に「こちら側」と「あちら側」ができてしまいます。人間は、分裂についてはなかなか才能があります。残念ながら、それは天才的です。

しかし聖霊が働くとき、違いは争いの材料ではなく、共同体を豊かにする賜物になります。

パウロは第二朗読で、聖霊の賜物について語ります。賜物は一人ひとりに与えられます。しかし、それは自分を誇るためでも、自分の場所を確保するためでもありません。共同体全体の益のためです。カリスマは私物ではありません。神から預けられた奉仕の力です。

ですから、聖霊の賜物を受けた人は、「私は何ができるか」だけではなく、「この賜物は共同体のためにどう用いられるか」を考えなければなりません。歌う力、読む力、教える力、支える力、祈る力、まとめる力、人を励ます力、静かに奉仕する力。どれも聖霊の賜物になり得ます。ただし、それが共同体を建て上げるために用いられるならば、です。

聖霊は教会を動かします。恐れの中に閉じこもっていた弟子たちを外へ押し出します。内輪の安心だけを求める共同体を、福音を告げる共同体へと変えます。自分たちを守ることだけに固まった教会を、赦しと和解と平和を運ぶ教会へと変えます。

だから聖霊降臨の中心は、ただ「不思議なことが起こった」という話ではありません。聖霊は、教会を現実に変える方です。臆病を勇気に変えます。分裂を交わりに変えます。罪を赦しに変えます。閉鎖的、独善的な姿勢を開かれた宣教の熱意に変えます。過去への執着を、新しい使命への出発に変えます。

今日、私たちも祈らなければなりません。

「来てください、聖霊よ」。

この祈りは、単にきれいな伝統的な典礼用語ではありません。時にこれはかなり危険な祈りでもあります。なぜなら、自分の精神的満足に聖霊を呼び求める誘惑もあるからであり、また本当に聖霊が来られるなら、私たちは変えられたくなくとも変えられてしまうからです。変わらずに済むように聖霊を願うことはできません。聖霊は、私たちを慰めるだけでなく、動かします。整え、清め、時には曲がったもの、誤った態度をまっすぐにし、冷えたものを温め、固くなった心を柔らかくします。不義な態度を正義に変えます。

聖霊を受けた教会は、過去や自分に閉じこもる教会ではありません。恐れに支配される教会でもありません。自分たちの内側だけ、目先の事柄を見ている教会でもありません。復活された主の平和を受け、その平和を人々に運ぶ教会です。

私たちの周りにも、平和を必要としている人がいます。赦しを必要としている人がいます。理解されることを必要としている人がいます。神から遠いと思い込んでいる人がいます。教会は、その人々に向かって遣わされています。征服者としてではありません。裁く者としてでもありません。証人としてです。

聖霊降臨の日、弟子たちは自分たちの力で強くなったのではありません。聖霊によって立ち上がらせられました。私たちも同じです。自分の力だけなら、すぐ疲れます。すぐ不安になります。すぐ閉じこもります。しかし聖霊が働くなら、弱い私たちも、キリストの平和を運ぶ者となることができます。

今日、心から祈りましょう。

来てください、聖霊よ。私たちの恐れを勇気に変えてください。私たちの分裂を交わりに変えてください。私たちの罪を赦しの喜びに変えてください。私たちの教会を、復活された主の平和を伝える共同体にしてください。

そして私たちを、世界の中へ、家庭の中へ、職場の中へ、人々の苦しみの中へ、福音の証人として送り出してください。





○聖霊降臨の主日 説教 「聖霊は、教会を生きた体にする」


今日、教会は聖霊降臨を祝います。使徒言行録は、激しい風、火のような舌、さまざまな言葉で語り始める弟子たちの姿を伝えます。しかし、これは単なる不思議な現象ではありません。風と火は、聖霊が教会を新しく生かす神の力であることを示しています。

五旬祭は、もともと初穂と収穫を祝う祭りでした。しかしイスラエルは、それを神との契約を記念する祭りとして理解し直しました。さらに、新しい契約、すなわち神の霊が新しい民に注がれる時として待ち望むようになりました。ですから聖霊降臨は、神が教会を新しい契約の民として生かし始める出来事です。

今日の福音で、弟子たちは恐れて戸を閉めていました。彼らはイエスに従ってきましたが、十字架の前では逃げました。失敗し、不安と罪悪感の中にいました。その真ん中に、復活された主が来られ、最初に言われます。「あなたがたに平和があるように」。

主は彼らを責めません。「なぜ逃げたのか」と問い詰めません。復活された主が最初に与えるのは、裁きではなく平和です。それは単なる挨拶ではなく、十字架と復活によって与えられる、神との和解の平和です。

そして主は弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい」。

この息は、創世記の創造を思い起こさせます。神が命の息を吹き入れ、人を生きる者とされたように、復活されたキリストは弟子たちに聖霊を吹き込み、新しいいのちを与えます。聖霊降臨とは、教会の再創造です。恐れ、失敗、罪、閉ざされた心の中にいた弟子たちが、新しい神の民とされるのです。

聖霊は、人間を外側から少し整えるだけの方ではありません。神は人間に掟を与え、正しい道を示されました。しかし、外から命じられるだけでは、人間は本当に変わることができません。

茨からぶどうは採れません。茨をどれほど世話しても、茨のままである限り、ぶどうは実りません。必要なのは、茨そのものがぶどうの木に変えられることです。

人間も同じです。「愛しなさい」「赦しなさい」と外から命じられるだけでは不十分です。心そのものが変えられなければなりません。だから神は、ただ掟を与えるだけでなく、聖霊を与えてくださいます。聖霊は、外から押しつける律法ではなく、内側から善へと動かす「新しい律法」です。

聖霊の第一の働きは、罪から清め、解放することです。復活された主は、弟子たちに平和を与え、聖霊を授け、罪の赦しの使命を委ねられました。洗礼と和解の秘跡を通して、私たちは赦されます。そして赦された者は、赦しを運ぶ者へと変えられます。

第二に、聖霊は賜物、カリスマの源です。パウロは、賜物にはいろいろあるが、それを与えるのは同じ聖霊であり、それは共同体全体の益のためだと語ります。祈る人、教える人、歌う人、朗読する人、準備する人、黙って支える人。どの奉仕も、共同体を生かすために用いられるなら聖霊の賜物です。

しかし、賜物が自己主張の道具になると、教会はすぐに分裂します。これは「聖霊の火」ではなく、「人間の自己主張の火」です。よく燃えますが、実りません。

第三に、聖霊は教会を一致させます。五旬祭の日、さまざまな国や地域の人々が、それぞれ自分の言葉で神の偉大な業を聞きました。これはバベルの反対です。聖霊は、違いを消すのではなく、違いを一致の中に生かします。教会は一枚岩ではありません。生きた体です。だから多様でありながら、一つでなければなりません。

今日、私たちは問われています。私に与えられた賜物は何か。それを何のために使っているのか。自分のためか、共同体のためか。人を裁くためか、人を生かすためか。

復活された主は言われます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。聖霊は、私たちを慰めるだけではありません。私たちを遣わします。閉ざされた部屋にいた弟子たちを外へ押し出し、恐れる人々を福音の証人に変えます。

聖霊がなければ、教会は単なる組織になります。役割は権利争いになり、奉仕は自己主張になり、違いは分裂になります。しかし聖霊が働くなら、教会は生きます。赦された人々が赦しを運び、違う賜物を持つ人々が互いに仕え、多様な人々が一つの体となります。

今日、心から祈りましょう。

私たちの恐れを勇気に変えてください。私たちの分裂を交わりに変えてください。私たちの罪を赦しの喜びに変えてください。私たちの教会を、復活された主の平和を伝える共同体にしてください。そして私たちを、世界の中へ、家庭の中へ、職場の中へ、人々の苦しみの中へ、福音の証人として送り出してください。

そのために「来てください、聖霊よ」と祈ろうではありませんか。本当に聖霊が来られるなら、私たちは変えられるからです。それこそが救いです。聖霊は、私たちを壊すためではなく、生かすために来られます。茨をぶどうの木に変え、恐れる弟子を証人に変え、閉ざされた部屋を宣教の出発点に変える方です。

復活された主は、今日も私たちに言われます。「あなたがたに平和があるように」。「聖霊を受けなさい」。「わたしもあなたがたを遣わす」。

この言葉を受け、私たちも聖霊に生かされる教会として、赦しを運び、賜物を分かち合い、多様性の中で一致、信仰・希望・愛における交わりの生き方を証ししていきましょう。


 
 
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