2026年4月26日復活節第4主日
- 4月22日
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更新日:7 日前
復活説A年第4主日 福音のメッセージ
今日の福音は、イエスご自身が「羊飼い」と「門」として語られる箇所です。これは当時の人々にとって、とても身近な情景でした。夕方になると羊飼いたちは羊を囲いに入れ、朝になると、それぞれの羊飼いが自分の羊を呼びます。羊たちはその声を知っていて、その羊飼いについて行きます。イエスはこのよく知られた光景を通して、御自分がどのようなお方であるかを教えてくださるのです。
まずイエスは、まことの羊飼いは盗人とは違う、と言われます。盗人は羊を利用し、奪い、傷つけます。しかし、まことの羊飼いは、羊のために生き、羊のために自分を与えます。ここに、イエスの姿があります。イエスは人々を支配するために来られたのではなく、救うために来られました。御自分の利益のためではなく、私たちの命のために来られました。そして最後には、十字架の上で御自分のすべてを差し出されました。良い羊飼いとは、羊を思い、自分を与える方です。キリストはまさにそのようなお方です。
しかし今日の福音は、イエスが羊飼いであるだけでなく、「門」であるとも語ります。これは大切です。門を通らなければ、囲いに正しく入ることはできません。同じように、教会において人を導く者も、キリストを通してはじめて本当に仕える者となります。自分の考えや自分の思いのままに人の上に立つのではなく、キリストに結ばれ、キリストによって遣わされて、はじめて本当の意味で牧者となるのです。
そしてこれは、私たち信者にとっても同じです。私たちもまた、キリストを通して神の民の群れに入れられます。教会に属するということは、ただ形の上で名前があるということではありません。本当に主を通り、本当に主と結ばれ、本当に主の声を聞いて歩むことです。教会の中心にいるのは、人ではありません。制度だけでもありません。いつもキリストご自身です。
さらに今日の福音は、羊の姿についても語っています。羊たちは羊飼いの声を知っていて、その声に従います。ここに弟子として生きることの大切な姿があります。主は私たちを、まとめてではなく、一人ひとりを知っておられます。「名を呼んで」招いてくださるのです。信仰とは、ただ漫然と教えを知り盲目的に信じることではありません。自分が主に知られていること、自分が主に呼ばれていることを知り、その声に応えて歩むことです。
けれども、私たちのまわりには、いろいろな声があります。人を不安にさせる声、分裂させる声、自分だけを守れと言う声、神抜きで生きてもよいと言う声もあります。福音は言います。「羊は知らない者にはついて行かない」。これは大事なことです。主の声を聞き分けるためには、普段から主の言葉に親しむことが必要です。祈りの中で、福音の中で、典礼の中で、私たちは少しずつ主の声を覚えていきます。そうでなければ、別の声を主の声だと勘違いしてしまいます。
そしてもう一つ、今日の福音には、教会にとって大切な方向が示されています。良い羊飼いであるイエスは、ただ自分の群れの中だけを見ておられるのではありません。まだ囲いに入っていない羊のことも心にかけておられます。つまり主のまなざしは、いつも外に向かって開かれているのです。
ですから教会もまた、自分たちのことだけを考えて閉じこもってはなりません。内輪の安心だけを守る群れになってはいけません。まだ主を知らない人、苦しみの中にある人、教会から遠ざかっている人、心に傷を負っている人、そうした人々にも目を向けなければなりません。良い羊飼いの教会とは、自分の中だけで満足する教会ではなく、キリストの広い心を生きる教会です。
今日、私たち一人ひとりも問われています。私は本当に主の声を聞いているだろうか。私は主ではなく、別の声に従っていないだろうか。私はキリストの愛によって生かされている者として、周りの人に対して閉じた心ではなく、開かれた心を持っているだろうか。
主は今日も、私たちを一人ひとり名を呼んで招いておられます。その声に耳を澄ませましょう。そして、良い羊飼いであるキリストに従って歩みましょう。自分を守るだけの群れではなく、主の愛を映し出す群れとして、共に歩んでまいりたいと思います。
復活節第4主日A年 説教
皆さん、今日のみことばの中心には、一つの問いがあります。それは、ペンテコステの日に人々がペトロに向かって語ったこの言葉です。「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。」この問いは、昔の人々だけの問いではありません。今日ここにいる私たち自身の問いでもあります。主の復活を祝う私たちは、どう生きるべきか。教会は何を中心にし、何に立ち返るべきか。今日の朗読は、そのことをはっきり示しています。
第一朗読でペトロは、十字架につけられたイエスを、神が復活させ、主として高められたと宣言します。その言葉を聞いた人々は、心を打たれ、「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねます。ここで大切なのは、キリストを知るとき、自分自身のことも見えてくるということです。教会も同じです。教会は、キリストを見つめることによってのみ、自分が何者であるかを知ることができます。キリストを見失えば、教会はただの人間の集まりになります。しかし、復活した主を中心にするとき、教会は本当に主から生まれた群れとなるのです。
今日の福音で、イエスは御自分を善い牧者、そして門として示されます。善い牧者は、羊を知っています。そして一匹ずつ、名を呼びます。先に立って歩き、導き、守ります。そして何よりも、羊のためにご自分を与えます。
それに対して、雇い人は違います。自分の利益しか考えず、そのためには羊を犠牲にします。ここに決定的な違いがあります。善い牧者は愛によって導きます。悪い牧者は自分の都合で人を使います。キリストは、まさに善い牧者です。主は私たちを支配するために来られたのではありません。私たちを生かすために来られました。しかも、ただ生き延びさせるためではなく、福音が語るように、「命を受けるため、しかも豊かに受けるため」に来られたのです。ここに福音の中心があります。
キリストは、人を縮こまらせる方ではなく、本当に生かす方です。さらに主は、「わたしは門である」「緑の牧場へ通じる門だ」と言われます。これは、救いへの入口はキリストご自身だということです。神との交わりも、教会のいのちも、キリストを通してのみ与えられます。だから教会の中心は、結局、人間ではありませんし、制度や役職でもありません。ただキリストの愛だけが中心にあるのです。ここがずれると、教会はすぐに自分中心になり、福音から離れた生き方をしてしまいます。
では、「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。」第一朗読でペトロが求めるのは、回心です。悔い改めなさい、心の向きを変えなさい、ということです。これは、善いことを少し増やしなさいという程度の話ではありません。もっと根本的なことです。自分中心の生き方から、神に向かう生き方へ。自分を守ることばかりを考える心から、神に信頼して身を委ねる心へ。洗礼とは、その新しいいのちに入れられることです。神のあわれみに浸され、聖霊によって新しくされることです。
第二朗読もまた、大事なことを語っています。「その傷によって、あなたがたはいやされた。」キリストは苦しみを通して私たちを救われました。ですから、私たちの苦しみも、ただの暗闇ではありません。主に結ばれているなら、その苦しみの中にも救いの力が働きます。そして教会もまた、自分の弱さや過ちを隠して済ませる共同体ではなく、絶えず悔い改め、赦しを願い、もう一度立ち上がる共同体でなければなりません。
今日の詩編も、私たちに信仰の土台を思い起こさせます。「主はわたしの羊飼い。」人生には暗い谷があります。不安も、苦しみも、迷いもあります。けれども、その中で決定的なのは、「あなたは私と共におられる」ということです。主が共におられるから、私たちは歩み続けることができます。信仰とは、この主への信頼です。
そして今日の福音は、もう一つ大切なことを教えています。羊は、牧者の声を知っているということです。聖書で「知っている」とは深い親密さを持っている、愛しているということを意味します。私たちのまわり、私たちの中には、さまざまな声があります。恐れをあおる声。自分の利益だけを求める声。人を分裂させる声。人を神から引き離す声。しかし弟子は、その中で主の声を聞き分けなければなりません。主の声は、愛の声です。まことの命へ導く声です。真実と自由へ導く声です。ですから今日のみことばが私たちに求めていることは、はっきりしています。主に立ち帰ること。主の声を聞くこと。善い牧者であるキリストにこそ従うこと。そして、絶えず回心すること。教会が本当に教会であるのは、活動が多いからでも、立派だからでもありません。善い牧者であるキリストの声を聞き、その方に導かれているからです。そしてそのとき教会は、自分の中に閉じこもるのではなく、傷ついた人、迷っている人、苦しんでいる人のために、外へ向かって歩む群れとなります。今日、私たちも心の中で、この問いたいと思います。「主よ、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。」その答えは明らかです。主の声を聞き、主に信頼し、主に従って歩むこと。私たちも本当に復活の主に導かれ生かされる群れとなれますように。
