≪6月はみこころの月≫
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「みこころの月」の根拠は、厳密に言えば“教義上、6月でなければならない”という掟ではありません。
しかし、かなり強い典礼的・神学的・信心史的な根拠があります。
1. 神学的根拠:イエスのみこころは「キリストの愛」のしるし
まず根本は、『カトリック教会のカテキズム』478番です。そこでは、キリストは受難と死に至るまで一人ひとりを愛し、ご自分を与えられたのであり、イエスの聖心は、すべての人を愛し続ける贖い主の愛の主要なしるし、象徴であると説明されています。
つまり「みこころ」とは、単に「イエスの優しい気持ち」ではありません。受肉した御子が、人間の心をもって、父と人類を愛し抜かれたことを指します。十字架上で貫かれたわき腹、そこから流れた血と水、聖体と洗礼、教会の誕生という神学的連関の中で理解されます。
2. 聖書的根拠:貫かれたキリスト
直接の聖書的根拠としては、ヨハネ福音書19章34節が重要です。兵士の一人が槍でイエスのわき腹を突き刺すと、すぐ血と水とが流れ出た。教会は古くから、この貫かれたわき腹を、キリストの愛、救いの泉、秘跡の源として黙想してきました。「心臓」という語そのものがこの箇所に出るわけではありませんが、刺し貫かれたキリストの身体から、救いのしるしである血と水が流れ出るというイメージが、聖心信心の中心にあります。
またヨハネ13章1節の「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」、ガラテヤ2章20節の「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた」という箇所も、聖心信心の根本的聖書基盤になります。
3. 典礼上の根拠:聖心の祭日が6月に来る
6月が「みこころの月」とされる直接の理由は、イエスのみこころの祭日が、通常6月に祝われるからです。ローマ典礼では、イエスのみこころの祭日は聖霊降臨後第2主日の後の金曜日、つまり現在の暦では「キリストの聖体の祭日」の後の金曜日に祝われます。典礼暦上、これはほとんどの場合6月になります。『民間信心と典礼に関する指針』も、教会がこの日にイエスの聖心の祭日を祝うこと、そしてこの信心が教会内で非常に広く行われてきたことを述べています。したがって、6月全体を「みこころの月」とするのは、聖心の祭日を中心に、その前後を祈りと償いと奉献の期間として深める慣習です。
4. 教導職上の根拠:教皇たちによる承認と推奨
聖心信心は、単なる私的流行ではありません。教皇たちが繰り返し推奨してきました。
特に重要なのは、レオ13世の回勅『Annum Sacrum』(1899年)です。この文書は、人類をイエスの聖心に奉献することを扱った回勅で、聖心信心を教会全体の公的信心として非常に強く位置づけました。
また、司教の司牧職務に関するバチカン文書でも、司教が保持し促進すべき優れた信心として、イエスの聖心への信心と聖母への信心が挙げられています。
つまり、聖心信心は「一部の熱心な人の趣味」ではありません。教会公認の、しかもかなり中心的な民間信心です。
5. 信心史的根拠:初金曜日、聖時間、償い
近世以降の発展では、聖マルガリタ・マリア・アラコックへの啓示に由来する信心が大きな役割を果たしました。そこから、初金曜日の聖体拝領、聖時間、償いの祈り、聖心への奉献などが広まりました。バチカン・ニュースも、九か月連続の初金曜日の聖体拝領や聖時間の実践がこの信心史から生じたことを説明しています。ただし、ここで注意すべきことがあります。私的啓示は、カトリック信仰の土台そのものではありません。土台は、聖書・聖伝・教導職です。私的啓示は、それらに反しない限りで、信者を福音の中心へ導く助けです。ですから、みこころの信心を健全に説明するなら、まずキリストの受肉・受難・聖体・贖いの愛を中心に置くべきです。
6. まとめると
「みこころの月」の根拠は、次のように整理できます。
神学的根拠イエスの聖心は、受肉した御子が人間の心をもって人類を愛し抜かれたことのしるしである。
聖書的根拠十字架上で貫かれたキリストのわき腹、血と水、愛し抜かれた主というヨハネ的神学に根ざす。
典礼的根拠イエスのみこころの祭日が、通常6月に祝われる。
教導職上の根拠教皇たちが聖心信心を承認・推奨し、レオ13世は人類の聖心への奉献を回勅で扱った。
司牧的根拠初金曜日、聖体礼拝、償い、奉献を通して、信者がキリストの愛に応えて生活を改めるための期間となる。
したがって、「6月はみこころの月」という表現は、教義命題ではなく、典礼暦と教会の信心伝統に基づく、非常に確立したカトリックの信心習慣と考えるのが正確です。
・聖母のみこころとは、一般に 「聖母マリアの汚れなきみこころ」を指します。イエスのみこころが「人類を愛し抜くキリストの愛」を表すなら、聖母のみこころは、神のみことばを信じ、キリストとともに苦しみ、教会の母として人々をキリストへ導くマリアの信仰と愛を表します。ただし、聖母のみこころは、マリアをキリストと並ぶ救い主にする信心ではありません。中心はあくまでキリストです。マリアのみこころは、キリストのみこころに完全に結ばれた母の心として理解されます。
1. 「みこころ」とは何を意味するか
「みこころ」は単なる感情ではありません。聖書的には「心」は、人間の内奥、信仰、意志、愛、記憶、決断の中心を意味します。
したがって、聖母のみこころとは、マリアの内面的信仰全体を指します。
すなわち、神のみことばを受け入れる心、キリストを宿し、育て、見守る心、十字架の下で苦しむ心、教会の誕生に祈りをもって寄り添う心、罪人の回心を願う母の心、です。
ただ単に優しいマリア像ではありません。聖母のみこころは、かなり強い信仰の形です。泣いているだけの母ではなく、神の計画の前に逃げずに立ち続ける母です。
2. 聖書的根拠
聖母のみこころの中心的な聖書箇所は、ルカ福音書です。
まず、ルカ2章19節に、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
とあります。また、ルカ2章51節にも、母はこれらのことをすべて心に納めていた。と記されています。ここで描かれるマリアは、ただ出来事を眺めている人ではありません。理解できない出来事、喜びも不安も含めて、神の前で受け止め、心の中で黙想する人です。これが「聖母のみこころ」の基本姿勢です。
さらに、シメオンの預言も重要です。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。
これはルカ2章35節です。マリアの心は、キリストの使命と受難に深く結ばれています。つまり、聖母のみこころは、単に優しい母心ではなく、十字架に貫かれる母の信仰です。
3. イエスのみこころとの関係
聖母のみこころは、イエスのみこころと切り離して考えてはいけません。
イエスのみこころは、救い主キリストの愛そのものです。聖母のみこころは、そのキリストの愛を最も近くで受け入れ、信じ、協力した被造物の心です。言い換えるなら、イエスのみこころは救いの源泉。聖母のみこころは、その救いに完全に応答した信仰の模範です。
この区別を失うと、マリア信心はすぐに危うくなります。マリアを大きく見せようとして、キリストを小さくしてしまうなら、本末転倒です。マリアご自身が一番困るでしょう。
4. 「汚れなき」とは何か
「汚れなきみこころ」の「汚れなき」は、マリアが原罪から守られたという無原罪の御宿りの教義と関係します。
つまり、マリアの心は、罪によって神への応答を曲げられることなく、神のみことばに開かれていました。だからこそ、受胎告知の場面で、お言葉どおり、この身になりますように。
と答えることができたのです。
この「はい」は、単なる一回の返事ではありません。マリアの生涯全体を貫く信仰の姿勢です。聖母のみこころとは、この「神への完全な応答」の心でもあります。
5. 十字架の下の聖母
聖母のみこころを考えるうえで、十字架の場面は欠かせません。
ヨハネ福音書19章で、マリアは十字架のそばに立っています。逃げません。叫び散らしません。神秘を完全に理解していたからではなく、理解を超えたところで、信仰によって立っています。
ここでマリアは、キリストの犠牲に内面的に結ばれます。もちろん、キリストの十字架の犠牲に何かを付け加えるわけではありません。救いはキリストによって完全です。
しかしマリアは、母として、その犠牲に最も深く参与します。だから聖母のみこころは、十字架のそばで、信仰と愛によって貫かれた心なのです。
6. 教会との関係
聖母のみこころは、個人的な感傷の信心ではなく、教会的な意味を持ちます。
マリアは教会の母です。教会は、マリアの中に、信仰者がどう神のみことばを受け入れ、キリストに従い、苦しみの中でも希望を失わず、祈り続けるべきかを見ます。
つまり、聖母のみこころへの信心は、マリアを眺めて終わるものではありません。
本来は、マリアのように、キリストを信じる。マリアのように、神のみことばを心に納める。マリアのように、十字架のそばに立つ。マリアのように、教会のために祈る。という生活へ向かわせるものです。
7. 聖母のみこころへの信心の実践
伝統的には、次のような実践があります。
聖母のみこころへの奉献、ロザリオ、初土曜日の信心、償いの祈り、罪人の回心のための祈り、家庭や共同体を聖母のみこころに委ねる祈り、聖母のみこころの記念日のミサ、などです。
特に「初土曜日」の信心は、聖母のみこころへの償いと結びつけられてきました。ただし、これも魔術的な「条件達成型」の信心として理解してはいけません。大切なのは、回心、告解、聖体拝領、ロザリオ、黙想を通して、キリストに向かう心を整えることです。
8. まとめ
聖母のみこころとは、要するに、
神のみことばを信じ、キリストを宿し、十字架の苦しみに結ばれ、教会のために祈り続ける、マリアの汚れなき信仰と愛の心です。
イエスのみこころが、救い主の燃える愛を示すなら、聖母のみこころは、その愛に完全に応えた人間の心を示します。
だから、この信心の目的は、マリアをキリストの代わりに置くことではありません。むしろ、マリアの心を通して、キリストのみこころに近づくことです。
