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25. 感謝の祭儀 交わりの儀①―主の祈り

  • 8月25日
  • 読了時間: 5分

 主の祈りは、イエスご自身が弟子たちに明確に教えた祈りであり、初代教会以来、大切に唱えられてきた祈りです。

 初代教会の文献 『ディダケー』 によれば、初期キリスト者は一日に三度この祈りを唱えていたとされます。しかし、あまりに身近な祈りであるため、習慣的・形式的に、その意味も考えず単に唱えてしまう危険があります。

 ミサの中で司祭が 「主の教えを守り、みことばに従い、つつしんで主の祈りを唱えましょう」 と招くのは、そのためです。この 「つつしんで唱えましょう」 は、ラテン語の audemus dicere に由来し、「畏れながらも、あえて言いましょう」 という意味を持ちます。注目すべきことに、この表現は東方教会の聖体礼儀(ミサ典礼)においても同じ表現となっています。

 つまり主の祈りは軽々しく唱える定型句のようなものではなく、神に向かって大胆に、しかし畏れをもって語りかける心からの祈りなのです。というのも、この祈りの核心が、神を 「父」 と呼ぶことにあるからです。

 古代ユダヤ教にも、神をイスラエルの父と考える伝統はありましたが、個人が神を親しく 「父」 と呼ぶことは一般的ではありませんでした。しかしイエスは、弟子たちに神を 「父」 と呼ぶよう教えました。おそらくイエスは、アラマイ語の 「アッバ」 という親しみのこもった表現を用いていたと考えられます。

 これは、キリストの救いの業によって、私たちが神との親しい子としての関係にイエスを通して招かれていることを示しています。私たちはキリストに結ばれることによって神の子とされ、キリストの兄弟姉妹となっています。したがって神を 「父」 と呼ぶことは当然の権利ではなく、本来なら恐れ多いほどの恵みなのです。そのため、私たちは 「畏れながらも、あえて」 神を父と呼ぶのです。また、「私たちの父」 という言葉も重要です。

 主の祈りは、個人の祈りであるだけでなく、教会共同体の祈りです。神を同じ父とする私たちは、キリストにおいて兄弟姉妹であり、神の家族です。したがって、主の祈りは 「私一人」 の祈りではなく、「皆のため、皆とともに」、キリストと一つになって聖霊の交わりの内に父なる神にささげる祈りなのです。

 主の祈りは、伝統的に七つの祈願に分けられます。

最初の三つ、「み名」 「み国」 「みこころ」 は神に向かう祈りであり、後の四つ、「与えてください」 「ゆるしてください」 「導いてください」「救ってください」 は、私たちの必要のための祈りです。


「み名が聖とされますように」――

聖書において、神の名は神ご自身を表します。この祈願は、神の名が崇められ、神ご自身が聖なる方として認められ、扱われるように願う祈りです。もちろん、神が聖なる方であることは、私たちの祈りによって変わるものではありません。むしろこの祈りは、まず私たち自身の生きる場で神の名が聖とされるように、すなわち私たちとこの世界が日々聖化されるように願う祈りです。


 「み国が来ますように」――

神の国とは、神の支配、神の統治を意味します。預言者たちは、神ご自身がイスラエルを建て直し、すべての民を治めることを告げました。

この祈願は、イエスによってすでに始まった神のいつくしみと愛の支配が、私たちとすべての人の心に受け入れられ、完成されるように願う祈りです。神の国は、どこか遠くから来るものではなく、私たちの生活そのものが神に治められるところに実現します。


 「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」――

天においては、神のみこころが完全に行われ、神の名は崇められ、神の支配は喜びをもって受け入れられています。私たちは、それと同じように、地上でも私たちから始まってすべての人が神を礼拝し、神のみこころに従い、神の愛を生きるように祈ります。これは、神の国の実現そのものを願う祈りです。


 「日ごとの糧を今日もお与えください」――

「パン」 は、単なる食物ではなく、人間の生命を支えるあらゆる根本的な糧を象徴しています。それには肉体的な食物だけでなく、精神的・霊的な支え、神の言葉、知恵、恵みも含まれます。

旧約の荒れ野でイスラエルに与えられたマナは、この祈願の背景にあります。イエスはパンを増やす奇跡を行い、さらに御自身を 「天から降って来た命のパン」 として示されました。したがって 「日ごとのパン」 は、最終的には真の命の糧である聖体・キリスト御自身を指し示しています。この祈願は、その日に真に必要なものを神が必要なだけ与えてくださるという神への信頼を表す祈りなのです。


 「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」――

神のみ国の実現を目指して御心に従って生きるためには、まず私たち自身がふさわしくある必要がります。

 つまり自らの罪が赦され、清められる必要があります。聖体を受ける者は、マリアのようにキリストを迎える聖なる住まいとなるよう願うことがもとめられるでしょう。しかし神の赦しを願いながら、自分はお恵みを願いながら、他者を赦そうとしない、他者への恵みを望まないことは全く矛盾しています。

 イエスは、私たちが人に示すあわれみと赦しに応じて、神の赦しを受けると教えていました。多く赦された者は、他者をより深く赦すことができる、愛することができる、と。

 そのため、祭壇に近づく前に、私たちは神様と兄弟姉妹との和解が求められるのです。聖体拝領は、神との一致だけでなく、人との和解をも要求するものです。主の祈りで祈っていることを、ぜひ毎日のように実践しようではありませんか。

 
 
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