top of page
image.png

 皆さんご存知のように、教皇フランシスコの具合が、あまり良くありません。ですから今日は、まず初めにご一緒に祈りを捧げたいと思います。「病人のための祈り」の冒頭に、次のような言葉があります。「神よ、御ひとり子はすべて人の弱さと貧しさをご自分の肩に背負われ、神秘に満ちた苦しみの価値を、私たちに示してくださいました。」 苦しみは神秘に満ちている、と語られます。私たちは、日々の生活の中で、様々な困難や苦しみを経験します。なぜこのようなことが自分(たち)に起きるのだろうか、と悩んだり戸惑ったりします。たとえそれが自然災害であっても、事故であっても、また病気であってもです。どうしてそういったことが自分(たち)に与えられるのか、わからないのです。できればそのような困難や苦しみは、避けたい。それは、人間の自然的感情からすれば、極めてあたりまえのことです。
しかし、これが現実です。人間の思いや理性だけでは説明できないこと――
、それが神秘なのかもしれません。このような困難や苦しみは、しかし、決して何らかの罰が当たったから起きた、といったことではありません。私たちは、真摯な心でその背後にある隠された意味を学ばなければなりません。それは決して簡単なことではないでしょう。しかしそれを謙虚な心で受け容れ、そこから何かを学ぼうとすることが大切です。これはある意味で、「苦しみからの招き」 と言ってもいいかもしれません。

 

 先日の灰の水曜日をもって、四旬節が始まりました。その日のミサでは、次のような入祭唱が唱えられました。
「神よ、あなたはすべてのものを憐れみ、/お造りになったものを一つも嫌われることはない。あなたは人の罪を見逃し、/回心する人を赦してくださる。まことにあなたは私たちの神」(知恵11:23-24、26参照)。たいへんきれいな言葉だと思います。
かつて、ミサのあわれみの賛歌では、次のように語られました。「主よ、あわれみたまえ。キリスト、あわれみたまえ。」
現在では、「主よ、いつくしみを。キリスト、いつくしみを」 となっています。このように、「あわれみ」 という言葉が使われることは、少なくなりました。もしかしたらそれは、人によっては、「あわれみ」 という言葉に、どこか上から目線の印象を受けるからでしょうか。しかし、聖書で語られる 「憐れむ」 という言葉の真の意味を確認し理解することは大切です。
 
新約聖書において、「憐れに思う」(スプランクニゾマイ)という言葉は、「はらわた」(スプランクノン)という言葉に由来します。その意味は、「はらわたがよじれる」(くらいに悲しみ苦しむ)ということです。(日本語の「断腸の思い」に近いでしょうか)。新約聖書において、この言葉は、単なる感情のレベルでの同情や憐れみを越えた、もっと深いレベルでの人間の愛(かな)しみに触れるものです。ちなみにこの言葉は、新約聖書において12回現れます。そのうち、イエスがこの言葉の主語になる場合が9回、その他は、たとえ話の中で語られます(寛大な主君、善いサマリア人、そして放蕩息子の父)。しかしこれらの人々は、おそらく神であろうと推測されます。つまりこの言葉は、人間が主語となって使われることはないのです。


 
 回心とは、自分の生き方の単なる軌道修正ではなく、根本的な転回です。いわば、180度の方向転換です。その先にあるのは、いのちそのものです。ですから、いのちそのものである神は、どんな人の死であっても望まないのです。イエスは、まさにそのことを、生涯をかけて示してくれました。どんな人であっても、神に愛されているからこそ、この世に生を受け存在し生きる意義があるのです。しかしこのことは、決して人間的な理解だけでは腑に落ちないでしょう。
 
真の理解に招かれるために求められること――それは、謙虚な心でありそれを願い求める祈りです。人間は、このことなしに、自分自身を受け入れることも、さらには他人を受け入れることもできないでしょう。神を愛することと隣人を愛すること――これらは、端的に同じことではありませんが、この世にあっては分かつことはできません。隣人を愛することなしに、神を愛することはあり得ないのです(マタイ22:34-40、他参照)。隣人とは、自分にとって近い人あるいは親しい人に限られるわけではありません。むしろ、苦手の人の方が多いかもしれません。聖書の語る愛は、単なる感情ではありません。ですからパウロは、こう語ります――「愛は忍耐強い」(1コリント13:4)。神は愛であり(1ヨハネ4:8、16)忍耐そのもの、そのような方です。                                 
 
 2011年3月11日に起きた、東日本大震災。2024年1月1日の能登半島地震。

さらに輪をかけるように発生した、2024年9月21日から23日にかけての能登半島で豪雨災害、そして2025年2月26日の大船渡市山林火災。このような現実を、神は、いったいどのような心と眼でご覧になっているのでしょうか。その神の心や眼差しを、私たちは、冷静に思い巡らし理解しなければなりません。それを可能とするもの――それが、謙虚な心から生まれる素朴な祈りです。
 ヘブライ人にとって、祈りは、賛美と感謝から始まると言われます。私たちは、イエスの姿へといっそう似たものとなればなるほど、この祈りの深みへと招かれて行くでしょう。

 

図1.png

​竹内修一神父様のプロフィール

1958年生まれ。上智大学文学部哲学科卒業。同大学院哲学研究科修士課程修了。同大学神学部卒業。ウェストン・イエズス会神学大学院にて神学修士号取得。バークレー・イエズス会神学大学院にて神学博士号取得。現在、上智大学神学部神学科教授。専門は、倫理神学。著書に『風のなごり』(教友社、2004年)、『ことばの風景――福音の招きとその実り』(教友社、2007年)『J.H.ニューマンの現代性を探る』(共著、南窓社、2005年)、『教会と学校での宗教教育再考――〈新しい教え〉を求めて』(共著、オリエンス宗教研究所、2009年)、『宗教的共生の思想』(共著、教友社、2012年)、『宗教的共生の展開』(共著、‎教友社、2013年)、『宗教的共生と科学』(共著、教友社、2014年)、『【徹底比較】仏教とキリスト教』(共著、大法輪閣、2016年)、『「いのち」の力――教皇フランシスコのメッセージ』(共著、キリスト新聞社、2021年)など。

『いのちと性の物語』竹内修一著.jpg
bottom of page