2026年9月27日 年間第26主日
更新日:9月24日
A年 年間第26主日 みことばのメッセージ
今日の福音でイエスは、二人の息子のたとえを語られます。
父親が最初の息子に、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言います。息子は「はい、お父さん」と答えました。しかし、実際には行きませんでした。もう一人の息子は、「行きたくありません」と答えます。しかし後で考え直して、ぶどう園へ行きました。
そこでイエスは尋ねます。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」
答えは明らかです。最初は拒んだけれども、後で考え直して実際に行動した息子です。
今日の聖書が私たちに問いかけているのは、「あなたは何と言っているか」ではなく、「あなたは実際にどう生きているか」ということです。
私たちキリスト者は、神に「はい」と答えることに慣れています。幼稚園の子供でさえもそうです。ミサの中でも「アーメン」と答えます。神を信じます、隣人を愛します、ゆるします、仕えます、と言います。しかし問題は、その「はい」が実際の生活の中で本当の「はい」になっているかどうかです。
口では神を信じると言いながら、自分の都合だけを優先することがあります。愛を語りながら、人を見下すことがあります。ゆるしを願いながら、自分を傷つけた人をいつまでもゆるさないこともあります。
外から見れば立派な信仰者であっても、実際の生き方が神の望みから離れているなら、福音に出てくる「はい」と言ったのにぶどう園へ行かなかった息子と同じになってしまいます。
だからイエスは、祭司長や長老たちに厳しい言葉を語られました。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入る。」もちろん、イエスは罪そのものを肯定しているのではありません。徴税人や娼婦たちは、確かに神の望みに反する生き方をしていました。しかし洗礼者ヨハネの言葉を聞いたとき、自分の生き方が間違っていることを認め、方向を変えました。反対に、祭司長や長老たちは、外面的には立派な宗教生活をしていました。しかし、「自分たちは正しい」と思っていたために、神からの呼びかけを受け入れ、自分の態度を改めることができませんでした。
ここに大きな危険があります。罪を犯すことだけが危険なのではありません。「自分は正しい」、「自分はもう回心する必要がない」、「あの人が変わるべきだ」と思ってしまうことこそ、信仰にとって非常に危険なのです。
第一朗読のエゼキエルも同じことを語っています。正しい人であっても、正しい道を捨てれば命から離れてしまう。しかし罪人であっても、自分の悪から離れ、正しい道に戻るなら、その人は生きる。つまり神の前では、過去だけが私たちを決定するのではありません。「昔は熱心だった」ということだけでは十分ではありません。また、バビロン捕囚という現実に対して、「私はこんな罪を犯してしまったから、もうだめだ」と絶望する必要もありません。大切なのは、今、どちらを向いているか、今からどこへ向かっていくのか、です。これは今の私たちにも言えることです。
回心とは、単に「反省しました」「悪かったです」と言うことではありません。方向を変えることです。二番目の息子は、「行きたくありません」と言いました。しかし考え直して、立ち上がり、ぶどう園へ向かいました。主の葡萄畑、それはまさに世の救いの場そのものです。そこに行きたいかが問われているのです。そしてその一歩が回心です。
そして第二朗読でパウロは、私たちが目指すべき姿を示します。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」
キリストは、神の身分でありながら、それに固執せず、自分を無にして僕の姿を取られました。そして、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、御父に従順であられました。
キリストの生涯そのものが、御父に対する完全な「はい」だったのです。しかも、その「はい」は言葉だけではありませんでした。自分を低くし、人に仕え、苦しむ人のそばに立ち、最後にはご自分の命まで与えられました。
だからパウロは私たちにも言います。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。」これがキリスト者の生き方です。
自分が正しいことを証明するのではなく、自分を一廉のものと思わず相手を大切にする。自分の利益や正当性を求めるのではなく、他者の必要にも目を向ける。人から評価されるためではなく、愛するために行動する。もちろん、これは簡単なことではありません。だからこそ、私たちは今日も感謝の祭儀に集まっています。ミサにおいて私たちが受けとるのは、ご自分のすべてを私たちのために与えられたキリストです。「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である。」
そこには、イエスの完全な愛、完全な「はい」があります。私たちはそのキリストをいただき、同じ心を生きる力をいただきます。この典礼に私たちは傍観者としてではなく積極的に参加し、自分の生き方を今日も変えようと招かれる主に答えることができますように。
今日、私たちも自分自身に問いかけてみたいと思います。私の信仰は、言葉だけの「はい」になってはいないでしょうか。もしそうであったとしても、遅くはありません。神は、私たちの過去だけをご覧になる方ではありません。
「いいえ」と言ってしまった私たちにも、もう一度、「はい」と言い直す機会を与えてくださいます。今日、もう一度方向を変え、神のぶどう園へ歩き始めましょう。そして、言葉だけではなく、自分の生活そのものによって、神に「はい」と答える者となることができますように。
第一朗読 エゼキエルの預言 18章25-28
第二朗読 フィリピの教会への手紙 2章1-11、または2章1-5
福音朗読 マタイによる福音 21章28-32
説教案
今日の福音には、父親と二人の息子が登場します。父親は最初の息子に、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言います。息子は調子よく、「はい、お父さん」と答えました。しかし、実際には行きませんでした。もう一人の息子は、父親から同じことを言われると、「いやです」と答えます。ところが後になって考え直し、ぶどう園へ行きました。
そこでイエスは尋ねます。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」もちろん、後の息子です。
このたとえが教えているのは、神の前では、何を言ったかよりも、最終的にどのように生きたかが大切だということです。私たちは「はい」と言うことには慣れています。ミサでも「アーメン」と答えます。神を信じます、神に従います、隣人を愛します、と言います。しかし今日の福音は、その「はい」が本当に生活になっているかを問いかけています。
口では神を信じていても、実際には自分の考えだけを通そうとすることがあります。愛を語りながら、人を見下すこともあります。ゆるしを願いながら、自分を傷つけた人をいつまでもゆるさないこともあります。そうであるなら、口では「はい」と言っていても、生き方では「いいえ」と言っていることになります。反対に、最初は神に「いいえ」と言っていた人が、ある時、考え直して生き方を変えることがあります。
今日の第一朗読で、預言者エゼキエルが語っているのも、このことです。バビロン捕囚の人々は、「自分たちが苦しんでいるのは、先祖が罪を犯したからだ」と考えていました。つまり、自分たちの人生は過去によって決められてしまっている、と諦めていたのです。
しかしエゼキエルは言います。そうではない。悪人であっても悪をやめ、正しい道に戻るなら、その人は生きる。これは大きな希望です。人間が神に言った「いいえ」は、最後の言葉ではありません。私たちはいつでも考え直し、方向を変え、「はい」と言い直すことができます。回心とは、まさにこのことです。過去を消すことではありません。過去に縛られることでもありません。今、神の方へ向きを変えることです。
だからイエスは今日、祭司長や長老たちに、非常に厳しい言葉を語られます。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入る。」これは罪を肯定する言葉ではありません。徴税人や娼婦たちは、自分たちが神から離れていることを知っていました。だから洗礼者ヨハネの言葉を聞いた時、悔い改めることができました。ところが祭司長や長老たちは、自分たちは正しいと思っていました。祈り、いけにえをささげ、宗教的な規則を守っていました。しかしその安心感のために、自分たちにも回心が必要であることに気づかなかったのです。ここに、私たちにとっても大きな危険があります。
信仰生活を長く続けていること、毎週ミサに来ること、教会の務めを果たしていること。それはもちろん大切です。しかし、それだけで「私は大丈夫だ、自分こそ正しい」と思った瞬間に、信仰は形だけのものになる危険があります。聖書の言葉を知っているかではなく、その言葉によって自分が変えられているか。典礼に傍観者のようにただ参加しているかだけではなく、その典礼に積極的に主体的に参加し、典礼・秘跡そのものが自分の生き方、考え方を、心を変えているか。そこが問われています。
では、完全に神に「はい」と答えることのできた人はいるのでしょうか。
第二朗読でパウロは、その方を示します。イエス・キリストです。キリストは、神の身分でありながら、それに固執せず、自分を無にして僕の姿を取られました。そして、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。イエスの生涯全体が、御父に対する一つの大きな「はい」だったのです。私たちは、福音の二人の息子のどちらかです。「はい」と言いながら実行できない時もあれば、「いいえ」と言った後で悔い改める時もあります。完全な「第三の息子」は、私たちではありません。それはキリストだけです。
だから私たちに必要なのは、「私は正しい」と誇ることではなく、キリストの心をいただくことです。今日も私たちは感謝の祭儀に集まっています。ご聖体において私たちは、ご自分のすべてを御父と私たちのために与えられたキリストをいただきます。そして、そのキリストから、私たちの「いいえ」を「はい」に変えていただくのです。神に「はい」と言うとは、ただ宗教的な言葉を口にすることではありません。自分の考えに神を合わせるのではなく、自分の考えを神の考えへと変えていくことです。自分は正しいと思うことをやめ、神の前に貧しく立つことです。私たちが過去にどれほど「いいえ」と言ってきたとしても、それが最後の言葉ではありません。
今日、もう一度、神に「はい」と答えることができます。そしてその「はい」を、言葉だけではなく、愛し、ゆるし、仕え、具体的に行動することによって、生きていくことができますように。
