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2026年8月2日 年間第18主日

  • 7月29日
  • 読了時間: 11分

年間第18主日みことばのメッセージ


現代の社会に欠かせないコンピュータの基礎理論である数学には、演算方式つまり簡単に言うと足し算や引き算、掛け算、割り算などがあります。しかし今日の聖書朗読は、普通の数学にはない、不思議な「計算」を私たちに教えています。それは、人間のわずかなものに、神の豊かな恵みを掛け合わせると、多くの人を養うものになる、という計算です。

言い換えるならば、イエスにおける「増やす」ということは、「愛する」ということなのです。

今日の福音の直前には、陰鬱なヘロデの宴会、洗礼者ヨハネの死が語られています。ヨハネの死は、イエスと弟子たちの心に、大きな悲しみと動揺をもたらしたことでしょう。そこでイエスは、弟子たちとともに、人里離れた場所へ退こうとされます。

悲しい出来事を受け止め、神の前で考え、祈り、心を整えるためには、沈黙が必要です。沈黙は、何もない空白ではありません。神の言葉に耳を傾け、人生の本質を見つめ直す時間です。

しかし、イエスと弟子たちの後を群衆が追って来ます。静かに過ごそうとした予定は崩れてしまいました。私たちなら、「今は休ませてほしい」と思うかもしれません。しかしイエスは、予定を妨げられたことに腹を立てられません。群衆をご覧になると、深く憐れまれ、病人たちを癒されました。

イエスの憐れみは、単なる同情ではありません。「かわいそうだ」と思うだけではなく、人の苦しみを自分の内に受け止め、すぐに行動することです。

神は、昔から、羊を集め、養い、休ませる羊飼いとして、ご自分の民を心にかけてこられました。イエスの憐れみのうちに、その神ご自身の心が現れています。イエスは、人々の苦しみを、避けるべき重荷とは見なされません。愛し、助けるべき兄弟姉妹として受け止められるのです。

やがて夕方になり、弟子たちはイエスに言います。「群衆を解散させ、村々へ行って、自分で食べ物を買わせてください。」この提案は、常識的です。人は大勢いる。食べ物はない。だから、一人ひとりが自分で何とかするしかない。

乱暴に言えば、「各自で勝手に何とかしてください」という論理です。しかしイエスは、別の論理を示されます。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

これは、神の摂理についての大切な教えです。

神の摂理とは、神が人間に代わって、天からすべてを解決してくださることではありません。神の愛が、人間の手と働きを通して、目に見えるものとなることです。

一人の人が、もう一人の人を助ける。助けられた人が、また別の人を助ける。そこから愛の連鎖が始まります。自分のことだけを考えるのではなく、他者を愛し、支えるべき兄弟姉妹として受け止めること。そこに、人間の連帯の秘密があります。

弟子たちは答えます。「ここには、五つのパンと二匹の魚しかありません。」

これは、困難を前にして、あきらめてしまう人の言葉でもあります。私たちも同じように考えます。自分には十分な力がない。時間もない。お金もない。自分一人が何かをしても、何も変わらない、と。

しかしイエスは言われます。「それをここに持って来なさい。」イエスは、弟子たちに、持っていないものを求められたのではありません。今ある、わずかなものを差し出すよう求められました。

神は、すべてをご自分だけで行うことがおできになります。それでも神は、人間をご自分の働きに参加させ、協力者とされます。

五つのパンと二匹の魚は、ほとんど何もないに等しいものでした。しかし、人間のわずかなものと神の豊かさが一つになったとき、多くの人を養うものとなりました。

ここに、パンが増やされる奇跡の秘密があります。私たちが差し出すものも、小さなものでよいのです。人の話を聞く時間、病人を訪ねること、孤独な人に声をかけること、自分の知識や能力を人のために用いること。小さなものでも、イエスに委ねるなら、主はそれを豊かに用いてくださいます。

イエスは、人々を草の上に座らせました。これは、無秩序な群衆が、イエスのもとで一つの共同体に変えられたことを示しています。イエスは、単に人々の空腹を満たそうとされたのではありません。すべての人を、神の国の宴へ招こうとされたのです。

預言者イザヤが告げたように、神はすべての民のために、豊かな宴を用意されます。今日の第一朗読でも、神は呼びかけています。「渇いている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」

神の恵みは無償です。私たちは、神の愛を買うことも、自分の功績で獲得することもできません。ただ神のもとへ行き、みことばに耳を傾け、受け取るよう招かれています。

そして、無償で受けた人は、今度は無償で与える者となります。

イエスはパンを取り、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱え、それを裂いて弟子たちにお与えになりました。弟子たちは、それを群衆に配りました。この動作は、最後の晩餐を思い起こさせます。

荒れ野の食卓は、聖体の食卓を先取りしています。聖体において、イエスは、何かを私たちに与えるだけではありません。ご自分自身を、私たちの命の糧として与えてくださいます。

聖体をいただく私たちもまた、人のために自分を差し出す者となるよう招かれています。恵みを受けた者は、他者に恵みを与える者となるのです。福音書の文脈をみると、直前のヘロデの宴会は死への食卓であることは非常に対比的です。

残ったパンは、十二の籠にいっぱいになりました。それは、キリストというパンが決して尽きないことを示しています。イエスは、弟子たちを通して、今もあらゆる時代、あらゆる場所の人々を養い続けておられます。

しかし、聖体の意味を語るとき、現実に飢えている人々のことを忘れてはなりません。

世界には、食べ物が足りないのではなく、分かち合いが足りないために飢えている人々がいます。一方で、多くの食料が捨てられています。

「私が飢えているなら、それは身体的な問題である。しかし、隣人が飢えているなら、それは道徳的な問題である」と言われます。

キリスト者の愛は、感情だけで終わってはなりません。具体的な分かち合いとなり、さらに不正な状態を改める働きへと進まなければなりません。

教皇パウロ六世が語ったように、正義は愛の最低限の尺度です。困っている人に一時的な援助を与えるだけでなく、なぜその人が困窮しているのかを考え、不正な仕組みを変えることも、愛の務めです。

第二朗読で、聖パウロは言います。

「だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。」

艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、死も、いかなる力も、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。

私たちは、失われることのない神の愛に支えられています。だから、自分の持っているものを失うことを恐れず、他者と分かち合うことができます。

最後に勝つのは、力でも富でもありません。

勝つのは愛です。いつでも、愛が勝つのです。

今日、イエスは私たちにも言われます。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

私たちは、世界中の問題を一度に解決することはできません。しかし、自分の前にいる一人のために、自分の五つのパンと二匹の魚を差し出すことはできます。

イエスの「増やす」ということは、「愛する」ということです。キリスト者が学ばなければならないのは、この愛の活用です。どんなにそれが小さなわずかなものであっても、神の愛に触れれば私たちの持ち物は素晴らしい働き、莫大な恵にかわるのです。

人間のわずかなものを神の手に委ねるなら、神はそれを多くの人を生かす豊かな恵みへと変えてくださるのです。


第一朗読 イザヤの預言 55章1-3

第二朗読 ローマの教会への手紙 8章35、37-39

福音朗読 マタイによる福音 14章13-21


 

A年 年間第18主日 説教案


今日の聖書朗読は、私たちに一つの問いを突きつけています。神は本当に、飢えている人、困っているを養ってくださるのか。

詩編は、「主は飢えている人にパンを与えられる」と歌っていますし、聖マリアも、「飢えた人を良いもので満たされた」と神をたたえました。しかし現実には、今も多くの人が食べ物を得られず、貧困や孤独の中に置かれています。

それでは、「わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください」という祈りは、聞き入れられていないのでしょうか。

今日の福音は、その問いに明確な答えを示しています。神は、天から突然パンを降らせるだけではなく、私たち人間の手を用いて、飢えている人を養おうとされるのです。

第一朗読で、預言者イザヤは呼びかけます。「渇いている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」

神が用意される宴は無償です。けれども、その宴に入るためには、今いる場所を離れ、神の招きに応えて歩み始めなければなりません。

バビロンに捕囚となった人々は、異国での生活に慣れ、家を建て、財産を蓄えていました。自由になれると聞いても、慣れた生活を捨てて新しい道へ進むことを恐れました。

そこで預言者は問いかけます。「なぜ、糧にならないもののために銀を払い、飢えを満たさないもののために労するのか。」

これは、私たちにも向けられた言葉です。私たちは、より多くの財産、より高い評価、より確かな立場を得れば満たされると思います。しかし、手に入れた喜びは長く続かず、また次のものを求め始めます。人間の心には、物だけでは満たせない飢えがあります。愛されたい、受け入れられたい、自分の人生には意味があると確信したいという飢えです。神は、その飢えを満たす宴へ、私たちを招いておられます。

今日の福音で、イエスは群衆をご覧になり、「深く憐れまれた」とあります。

この憐れみは、単に「かわいそうだ」と思うことではありません。相手の苦しみを、自分自身の苦しみのように感じることです。そしてイエスの憐れみは、必ず行動へと変わります。イエスは病人を癒し、空腹の人々を養おうとされます。

ところが弟子たちは言います。「群衆を解散させてください。それぞれ村へ行って、食べ物を買わせましょう。」現実的な提案です。これほど多くの人を、自分たちだけで養うことはできない。自分のことは自分で何とかしてもらうしかない、という考えです。

しかしイエスは言われます。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

この言葉は、私たちの信仰にとって決定的です。イエスは、「わたしがすべて行うから、あなたがたは見ていなさい」とは言われません。「あなたがたが与えなさい」と言われました。神は、人間の苦しみに応えるために、私たちの手を必要としておられるのです。

弟子たちは答えます。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」私たちも同じように言います。自分には十分な時間がない。力がない。お金がない。自分一人が何かをしても、何も変わらない。

しかしイエスは言われます。「それをここに持って来なさい。」イエスは、弟子たちに、持っていないものを求めておられません。今、持っているものを差し出すよう求めておられます。五つのパンと二匹の魚は、大勢の人々を前にすれば、あまりにもわずかです。しかし、そのわずかなものがイエスの手に渡され、分かち合われたとき、すべての人が満腹しました。

差し出すものは、お金だけではありません。時間、才能、知識、人の話を聞く力、悲しむ人に寄り添う心、孤独な人に声をかける勇気です。

一人ひとりが持っているものは小さくても、それをイエスの手に委ねるなら、主は多くの人を生かす恵みへと変えてくださいます。

福音書は、イエスがパンを取り、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱え、パンを裂き、弟子たちに渡されたと記しています。これは、聖体の場面と同じ言葉です。

イエスが与えられるパンは、物質的なパンだけではありません。イエスご自身が、私たちを生かすパンです。私たちは、みことばと聖体によって養われます。

しかし、聖体を受けるということは、ただ自分が満たされることではありません。キリストの体を受ける者は、キリストと同じように、自分自身を人のために差し出す者へと変えられていきます。私たちは、聖体の食卓でキリストを受け、そのキリストを日常生活の中で人々に分かち合うために派遣されるのです。

第二朗読で、聖パウロは言います。「だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。」

艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、危険も、死さえも、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。私たちは、神に愛されているからこそ、恐れずに与えることができます。少し失ったとしても、神の愛を失うことはありません。人から認められなくても、神の前での価値を失うことはありません。

今日、イエスは私たち一人ひとりに言われます。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」私たちは、世界中の飢えを一度に解決することはできません。しかし、自分の前にいる一人の人を助けることはできます。孤独な人に声をかけることができます。困っている人の話を聞き、自分の時間や能力を分かち合うことができます。それは、五つのパンと二匹の魚ほどに、小さく見えるかもしれません。しかし、主が求めておられるのは、私たちが持っていないものではありません。今、私たちの手にあるものです。

それを主に差し出しましょう。神は私たちの手を用いて、ご自分の子どもたちを養われます。分かち合いが始まるところに、パンの奇跡が起こります。そして、食べ物に飢える人だけでなく、愛に渇く人の心も満たされていくのです。


 
 
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