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2026年7月5日 年間第14主日

  • 7月2日
  • 読了時間: 9分

A年  年間第十四主日 みことばのメッセージ


今日の福音で、イエスは父に向かってこう祈られます。

「父よ、天地の主よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを知恵ある者や賢い者には隠し、小さな者たちにお示しになりました。」

この言葉は、私たちに大切なことを教えています。神の神秘は、複雑な理屈を積み重ねた人、自分の知識や正しさに閉じこもる人にではなく、小さな者、単純な者、へりくだった者に示されるということです。

私たちは、すべてを大きく、特別に、立派に、自分こそ正しいものとして見せようとする時代に生きています。普通であること、単純で全てのことに敬意を持つ謙遜さが、まるで価値のないことのように扱われることがあります。しかし、信仰において本当に大切なのは、複雑で難しい議論を展開することではありません。むしろ、本質へ戻ること、無垢な簡素さです。


単純な人とは、何も考えない人ではありません。浅はかな人でもありません。単純な人とは、多くの複雑なものの中から、本当に大切なものを見分ける純粋な眼差しをもつ人です。余計な飾りやこだわりを捨てて、神の前で本質に立ち返ることのできる人です。キリスト者の歩みとは、ある意味で、生涯をかけて単純な者になる歩み、無垢で清廉な者となるです。

反対に、自分自身にいっぱいになっている人は、イエスの神秘に近づくことができません。自分の能力、自分の正しさ、自分の立場や知識に閉じこもると、神の恵みを受け取る余地が人生の中でなくなってしまいます。知識や能力そのものが悪いのではありません。しかし、知識や立場が傲慢さと結びつくと、神へ向かう道ではなく、自分自身の中に閉じ込める壁になってしまいます。


イエスが喜ばれる「小さな者、幼子」とは、何も知らない人のことではありません。神の前で素直になれる人、潔白でいられる人です。自分の弱さを認められる人です。「主よ、私はあなたを心から必要としています」と言える人です。そのような人に、神の国の神秘は開かれます。


今日の福音は、父から弟子たちへ、イエスを通して啓示が伝えられる流れを示しています。父は啓示の源であり、イエスはその唯一の仲介者です。そして弟子たち、真の小さな者たちは、その啓示を受け取れる者です。父と子との間には、完全な愛の交わりがあります。イエスはその交わりを私たちにも開いてくださいます。

だから、神を知るとは、単に神についての情報を持つことではありません。聖書において「知る」とは、親しい交わりを意味します。神を知るとは、神と共に生きることです。神の心に触れることです。イエスを通して、父の愛の中に招き入れられることです。

そのイエスが、今日、私たちに呼びかけます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」

この言葉は、人生の重荷を負うすべての人への招きです。私たちは、それぞれに疲れや困難を抱えています。家族のこと、仕事のこと、病気のこと、人間関係のこと、過去の傷、将来への不安。外からは見えなくても、心の中では重荷を負っていることがあります。

イエスは、「立派になってから来なさい」とは言われません。「問題を片づけてから来なさい」とも言われません。疲れたまま、重荷を負ったまま、わたしのもとに来なさい、と言われます。


しかしイエスは同時に、こう言われます。「私の軛を負い、私に学びなさい。」

一見すると、不思議な言葉です。疲れている人に、さらに軛を負わせるのかと思ってしまいます。しかし、イエスの軛は、人を押しつぶす重荷ではありません。それは、愛の軛です。

人間が作り出す宗教は、ときに複雑になります。細かな規則や形式が増え、人を裁き、恐れさせ、神との関係を難しくしてしまうことがあります。しかし、イエスは私たちを本質へ戻されます。神を愛し、隣人を愛すること。ここに、イエスの軛があります。

この軛は、決して安易な道ではありません。愛することは、時に大きな労苦を伴います。しかし、愛によって担う重荷は、人を壊すのではなく、人を生かします。イエスと共に担う重荷は、私たちを神の子として成長させます。そこにキリスト者の単純さ、自由があります。

第一朗読のザカリヤ書は、このイエスの姿を前もって示しています。神が遣わされる王は、軍馬に乗る征服者ではありません。戦車を率いる支配者でもありません。ろばに乗る、柔和でへりくだった王です。この王は、暴力によってではなく、平和によって治めます。支配によってではなく、仕える愛によって救います。


イエスは、この預言を実現されました。枝の主日に、ろばに乗ってエルサレムに入られたイエスは、ご自分が平和の王であることを示されました。イエスの力は、人間が考える力とは違います。イエスの偉大さは、支配する力ではなく、謙遜に仕える愛にあります。

第二朗読で、パウロは「霊に従って生きる」ことを語ります。肉に従う生き方とは、自己中心、傲慢、欲望、争いに引きずられる生き方です。霊に従う生き方とは、神の命に導かれ、愛と自由のうちに生きることです。

霊は、私たちの人生を単純にしてくださいます。複雑に絡み合った恐れ、こだわり、見栄、自己防衛、自己正当化の欲望から私たちを解放し、本当に大切なもの、単純さ、神の子の自由へ向かわせてくださいます。霊は、私たちを本質へ戻します。神を愛し、人を愛し、キリストと共に生きることへと戻してくださいます。

今日の御言葉は、私たちに三つのことを求めています。

小さくなること。イエスのもとへ行くこと。主の霊に従って歩むこと。

私たちの重荷は、すぐには消えないかもしれません。しかし、私たちは一人で背負わなくてよいのです。イエスが共に担ってくださいます。イエスが、私たちの疲れた魂に、本当の安らぎを与えてくださいます。

今日、私たちも主の呼びかけに答えましょう。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」

主よ、私たちはあなたのもとに行きます。小さな者として、疲れた者として、あなたに近づきます。

どうか、あなたの霊によって私たちを新しくし、あなたの平和の道を歩ませてください。


第一朗読 ゼカリヤの預言 9章9-10

第二朗読 ローマの教会への手紙 8章9、11-13

福音朗読 マタイによる福音 11章25-30



A年 年間第十四主日 説教案

 

今日の福音で、イエスは父に向かって祈られます。

「父よ、天地の主よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを知恵ある者や賢い者には隠し、小さな者たちにお示しになりました。」

この言葉は、イエスの宣教が人々に大成功した場面で語られたものではありません。むしろ、多くの人がイエスを理解せず、指導者たちがイエスを拒み、弟子たちの中にも離れていく者が出た、そのような失敗に見える状況の中で語られました。


普通なら落胆する場面です。しかしイエスは、父をほめたたえます。なぜなら、イエスはそこに父の計画を見ておられたからです。神の国の神秘は、自分を賢いと思う者、自分の正しさに閉じこもる者ではなく、小さな者、貧しい者、心を開いて神を待つ者に示されるのです。

弟子たちがそうであったように、人間はいつも「だれがいちばん偉いのか」を気にします。社会でも、家庭でも、教会の中でさえ、上に立つこと、認められること、尊敬されることを求めます。しかし、神の偉大さは、人間の考える偉大さとはまったく違います。

神は、弱く、貧しく、単純で無防備な幼子として現れました。そして、その神の現れは、十字架において頂点に達しました。そこから、偉大さの基準は完全に覆されました。神において偉い人とは、支配する人ではなく、仕える人です。強さとは、暴力で相手を押さえつけることではなく、愛によって最後まで人を支えることです。


第一朗読のザカリヤ書は、この神の王の姿を美しく示しています。

「見よ、あなたの王があなたのもとに来る。へりくだって、ろばに乗って来る。」

神が遣わされる王は、軍馬に乗った征服者ではありません。戦車を率いる支配者でもありません。ろばに乗る、柔和でへりくだった王です。この王は、戦いの弓を折り、諸国の民に平和を告げます。


イエスは、エルサレムに入るとき、この預言をそのまま実現されました。ろばに乗ることによって、ご自分が平和の王であることを示されたのです。イエスの王権は、人を従わせる力ではなく、人に謙遜に仕える愛です。そしてイエスの玉座は十字架です。そこに、神の本当の偉大さがあります。


今日の福音で、イエスが喜ばれる「小さな者」とは、何も知らない人のことではありません。自分の限界を知り、神を心から必要としている人です。神の前で心を開き、恵みを受け取ることのできる人です。

反対に、「知恵ある者、賢い者、能力ある者」とは、知性を持つ人一般のことではありません。自分の知識や立場、力を誇り、神の前で小さくなることを拒む人です。知性は神からの賜物です。しかし、それが傲慢と結びつくと、真理を受け入れる力ではなく、真理を拒む壁になってしまいます。

イエスは、貧しい人、罪人、見捨てられた人々のもとに行かれました。それは、彼らが神の愛を最も必要としていたからです。そして愛を受け止めることのできる人々だったからです。イエスが示された父は、立派な人だけを愛する神ではありません。人間が見捨てた者を探しに行かれる神です。誰からも顧みられない人を、ご自分のもとに取り戻される神です。

だからこそ、イエスは言われます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」

これは、恐れに縛られた人、宗教的な重荷に押しつぶされた人、罪の意識や人生の苦しみに疲れた人への招きです。イエスは、「もっと立派になってから来なさい」とは言われません。疲れたまま、迷ったまま、傷ついたまま、わたしのもとに来なさい、と言われます。

しかしイエスは、同時にこうも言われます。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」

イエスの軛は、人を押しつぶす重荷ではありません。それは愛の軛です。細かな規則で人を縛り、恐れで支配する宗教ではなく、神と兄弟姉妹への愛に生きる道です。これは安易な道ではありません。しかし、本質へまっすぐ向かう道です。

イエスは言われます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい。」

これは自慢ではありません。イエスは、「あなたがたの良心を支配し、喜びを奪う教師たちに従うな。貧しい者、罪人、最後の者たちの側に立つ神を、わたしから学びなさい」と言っておられるのです。

第二朗読で、パウロは、洗礼を受けた私たちにはキリストを復活させた同じ霊が与えられていると語ります。この霊は、私たちを肉の思い、すなわち自己中心、傲慢、争い、死へ向かう生き方から解放します。そして、神の命にふさわしい生き方へ導きます。

今日、私たちは自分に問いかけたいと思います。

私たちは、どのような神を信じているのでしょうか。人間の考える偉大さを持つ神でしょうか。それとも、幼子となり、十字架につけられ、貧しい者の側に立たれる神でしょうか。

また、私たちの教会共同体は、だれにとって希望のしるしでしょうか。自分は立派だと思う人だけが安心、満足できる場所でしょうか。それとも、教会の敷居をまたぐ資格がないと感じている人も、「ここに来てよい」と思える場所でしょうか。

主イエスは、今日も私たちに言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」

小さな者として、主のもとに行きましょう。愛の軛を負いましょう。

柔和で謙遜なイエスに学びましょう。そこに、私たちの魂の安らぎがあります。

今日、私たちも主の呼びかけに答えましょう。

主よ、私たちはあなたのもとに行きます。小さな者として、疲れた者として、あなたに近づきます。

どうか、あなたの霊によって私たちを新しくし、あなたの平和の道を歩ませてください。



 
 
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