2026年7月26日 年間第17主日
- 7月23日
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更新日:7月27日
A年 第17主日 みことばのメッセージ
私たちは皆、何かしら自分にとっての「宝」を求めて生きています。
考古学者ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見した時のことです。小さな穴からろうそくを差し入れ、中をのぞいた彼は、しばらく言葉を失いました。あまりの驚きに、身動きもできなかったと言われます。仲間たちが「何が見えるのか」と尋ねると、彼はようやくこう答えました。「すばらしいもの、すばらしいものだ」。
人は、本当に価値あるものに出会うと、言葉を失います。そして、その宝が人生の見方を変えてしまうことがあります。
今日のみことばの中心にも、「宝」があります。
第一朗読では、若きソロモンが登場します。彼は王となりましたが、自分の未熟さをよく知っていました。大きな民を治める責任の前で、自分の力だけでは足りないことを知っていたのです。神は彼に言われます。「あなたに何を与えればよいか、願いなさい」。
もし私たちが同じように問われたら、何を願うでしょうか。健康でしょうか。長寿でしょうか。財産でしょうか。成功でしょうか。ライバルに勝つことでしょうか。なかなか本音が出そうです。神さまの前では、取り繕ってもすぐに見抜かれます。
しかしソロモンは、それらを願いませんでした。彼が願ったのは、「聞き分ける心」でした。神の声を聞き、人の声を聞き、善と悪を見分け、民を正しく導く知恵です。自分のためではなく、託された民のために正しく生きる力を願ったのです。
この願いは、神のみ心にかないました。神は彼に知恵と理解に満ちた心を与えられます。ここに大切なことがあります。神の知恵は、人から幸いを奪うものではありません。むしろ、すべての善を正しく受け取らせる源です。知恵を持たない富は人を滅ぼします。知恵を持たない力は人を傷つけます。知恵を持たない成功は人を傲慢にします。しかし、神の声を聞く心があれば、富も力も才能も、人を生かすものになります。
第二朗読でパウロは、「神を愛する者たちには、すべてが善に向かって働く」と語ります。これは、人生に苦しみがないという意味ではありません。悲しみも、失敗も、理不尽な出来事もあります。信仰者にも、「なぜこんなことが起こるのか」と問いたくなる時があります。
しかしパウロは言います。神は、私たちの人生を見失ってはおられない。神は、私たちを御子キリストの姿に似た者へと導いておられる。私たちの目にはすぐに分からなくても、神の計画は救いへ向かって進んでいるのです。だからこそ、私たちは目の前の出来事だけで人生を判断してはなりません。神の知恵を求める者は、すべてをすぐに理解できなくても、神の摂理を信じて歩みます。
そして福音で、イエスは天の国を「畑に隠された宝」と「高価な真珠」にたとえられます。
ある人は、畑で偶然宝を見つけます。彼は喜びに満たされ、持ち物をすべて売り払って、その畑を買います。周りの人から見れば、愚かな行動に見えたかもしれません。なぜ、石だらけの畑のためにすべてを売るのか。気が狂ったのではないか。そう思われたでしょう。
しかし彼だけは知っていました。その畑には宝があるのです。彼は損をしているのではありません。人生最大の取引をしているのです。
信仰も同じです。キリストに出会った人の生き方は、時に世の人には理解されません。なぜ赦すのか。なぜ仕えるのか。なぜ自分を低くするのか。なぜ損をしてまで正しい道を選ぶのか。なぜ祈り、なぜ神を第一にするのか。
しかし、宝を見つけた人には分かっています。キリストを得ることは、すべてにまさる宝なのです。
使徒パウロもそうでした。彼はかつて、自分の誇りとしていたものを多く持っていました。しかしキリストに出会った時、彼は言います。「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさのゆえに、私はすべてを損失と見なしています」。
これは人生を否定する言葉ではありません。むしろ、本当に価値あるものを見つけた人の言葉です。宝を見つけた人は、何を手放すべきかを知ります。何にしがみつかなくてよいかを知ります。そして何より、喜びを知ります。
今日のたとえで大切なのは、宝を見つけた人が「喜びに満たされて」すべてを売ったということです。信仰は、ただの義務ではありません。苦い我慢だけでもありません。もちろん信仰には、犠牲があります。選びがあります。捨てるべきものもあります。しかし、その根にあるのは喜びです。キリストという宝を見つけた喜びです。
第二のたとえでは、商人が高価な真珠を探しています。最初の人は偶然宝を見つけました。こちらの商人は、長い探求の末に真珠を見つけます。
ここに、神の国の二つの面が示されています。神の国は、まず神からの無償の賜物です。私たちの功績によって勝ち取るものではありません。しかし同時に、それは探し求める者に与えられる宝でもあります。祈り、みことばを聞き、識別し、悔い改め、求め続ける者は、ついに真珠を見つけます。
では、私たちは今、何を宝としているでしょうか。
お金でしょうか。評価でしょうか。地位でしょうか。自分の正しさでしょうか。人から認められることでしょうか。それらは悪いものとは限りません。しかし、それが人生の最終的な宝になるなら、私たちの心はそこに縛られてしまいます。
イエスは言われます。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」。厳しい言葉です。私たちの心がどこにあるかを見れば、私たちが何を宝としているかが分かるからです。
さらに福音は、網のたとえを語ります。網は海に投げ入れられ、あらゆる種類の魚を集めます。良い魚も悪い魚も入ります。これは教会の姿でもあり、私たち自身の心の姿でもあります。今この地上では、善と悪が混ざり合っています。教会の中にも、社会の中にも、そして私たちの心の中にも、光と闇があります。
だから今は、裁きの時である前に、憐れみの時です。神は一人も滅びることを望まず、すべての人が悔い改めることを望んでおられます。誰も簡単に排除してはなりません。弱さを抱えた人も、迷いの中にある人も、神の網の中に迎え入れられています。
しかし同時に、より分けの時は来ます。悪が曖昧なまま永遠に残ることはありません。神の国に入るのは、神に属するものだけです。偽り、利己心、貪欲、憎しみ、誤った宝への執着は、神の愛の火によって清められなければなりません。
ですから、今日のみことばは私たちに迫ります。あなたは何に人生を賭けるのか。何を宝として選ぶのか。
人生は、必ず何かに投じられます。私たちは日々、何かに時間を使い、何かに心を注ぎ、何かのために力を費やしています。問題は、その投資先が本当に永遠に残るものかどうかです。
ソロモンは知恵を願いました。パウロはキリストを最高の宝としました。福音の人は、宝を見つけて喜びに満たされ、すべてを売りました。
私たちも今日、願いましょう。
主よ、私たちに聞き分ける心をお与えください。偽りの宝に心を奪われない知恵をお与えください。キリストという真の宝を見つけ、その喜びのために、人生を新しく選び直す勇気をお与えください。
あなたこそ、私たちの宝です。
第一朗読 列王記〈上〉 3章5、7-12
第二朗読 ローマの教会への手紙 8章28-30
福音朗読 マタイによる福音 13章44-52、または13章44-46
A年 第17主日 説教案
今日のみことばは、私たちに一つの大切な問いを投げかけています。
「私たちは、本当に価値あるものを見分ける目を持っているでしょうか。」
マタイ13章のたとえ話の中で、イエスは「神の国の神秘」を語られます。しかし、その神秘は、ただ耳で聞けば自動的に分かるものではありません。イエスご自身が言われるように、「見る目と聞く耳」が必要です。表面だけを見るのではなく、神が示される本当の価値を見抜く知恵が必要なのです。
今日の第一朗読には、その知恵を求めた人物としてソロモンが登場します。ソロモンは、王としての務めを始めるにあたり、神に祈ります。彼は富や長寿や敵への勝利を求めませんでした。彼が願ったのは、「善と悪を見分ける心」、民を正しく裁くための知恵でした。
これはとても重要です。ソロモンは、自分が王であることを、自分の力や才能の結果とは考えていませんでした。王位も、民も、歴史も、すべては神から与えられたものだと知っていました。だからこそ彼は、自分の責任の重さを自覚し、神に知恵を願ったのです。
聖書で言う知恵とは、単なる知識ではありません。情報をたくさん持っていることでも、頭の回転が速いことでもありません。知恵とは、何が本当に善であり、何が人を生かし、何が人を滅ぼすのかを見分ける力です。神の前で、正義、慎重さ、人との関わり、社会への責任を正しく整える力です。
現代は、情報ならいくらでも手に入る時代です。しかし、情報が多いことと、知恵があることは別です。スマートフォンは何でも教えてくれますが、人生の目的までは決めてくれません。インターネットは答えを並べますが、何を選ぶべきかまでは引き受けてくれません。だからこそ、今の私たちにもソロモンの祈りが必要です。
「主よ、私に見分ける心をお与えください。」
この知恵は、今日の福音のたとえ話にもつながっています。イエスは、天の国を、畑に隠された宝にたとえられます。それを見つけた人は、喜びのあまり、持ち物をすべて売り払って、その畑を買います。また、天の国は、高価な真珠を探している商人にもたとえられます。その商人は、価値ある真珠を一つ見つけると、持ち物をすべて売り払って、それを買います。
ここで大切なのは、「すべてを売る」という厳しさだけではありません。もっと大切なのは、「喜び」です。宝を見つけた人は、いやいや手放したのではありません。損をしたと思って売ったのでもありません。むしろ、これを手に入れるなら、他のものは手放しても惜しくないと分かったのです。
神の国とは、それほどの宝です。
神の国とは、イエスご自身の到来によって私たちに差し出された、決定的な恵みです。貧しい人にも、豊かな人にも、学者にも、素朴な人にも、等しく差し出される神の招きです。しかし、その価値を見抜くには、知恵が必要です。そして、見つけたなら、それを中心に人生を組み替える決断が必要です。
信仰とは、人生の飾りではありません。余裕があるときに少し付け足すアクセサリーでもありません。神の国を宝として見つけた人にとって、信仰は人生の中心になります。仕事も、家庭も、人間関係も、財産も、時間の使い方も、すべてがこの宝との関係で見直されます。
もちろん、それは簡単なことではありません。宝を見つけるには、探し求める努力が必要です。真珠を見つける商人は、何もせずに座っていたわけではありません。探し続けていたのです。私たちもまた、祈り、みことばを聞き、学び、考え、悔い改め、選び直す努力を続けなければなりません。
そして、神の国を選ぶ歩みは、最後まで続く歩みです。今日の福音には、網のたとえも出てきます。網には、良い魚も悪い魚も入ります。そして最後に、それらはより分けられます。これは、最終的な裁きが人間の基準ではなく、神の裁きによって行われることを示しています。
私たちはしばしば、自分の基準で人を裁きます。あの人は正しい、あの人はだめだ。あの人は信仰深い、あの人は問題だ。もちろん、善悪の識別は必要です。しかし、最終的な裁きは神のものです。だから私たちは、軽々しく人を断罪するのではなく、自分自身が神の前にどう生きているかを問い続けなければなりません。
この意味で、イエスが最後に語られる「天の国の弟子となった学者」の姿は、とても大切です。その人は、自分の倉から新しいものと古いものを取り出します。神の民に与えられてきた伝統を大切にしながら、同時に、イエスによって示された新しさを受け入れる人です。
本当の信仰は、知性を殺しません。むしろ、知性を目覚めさせます。信仰は、考えることをやめることではありません。神に向かって、人間全体が開かれていくことです。心だけでなく、知性も、自由も、責任も、すべてが神に向かって整えられていくことです。
祈る心も、考える頭も、選び取る自由も、隣人に仕える手も、すべてが神に招かれています。ですから私たちは、信仰と知性、伝統と新しさ、祈りと責任を切り離してはなりません。それらを一つに結びながら、神の国の弟子として歩むよう招かれているのです。
第二朗読で、パウロはさらに大きな視野を示します。神は、私たちを永遠の昔から知り、愛し、御子の姿に似た者となるように召してくださいました。私たちは偶然に生きているのではありません。神の救いの計画の中に置かれています。召され、義とされ、最後には神の栄光にあずかる者として招かれています。
つまり、神の国という宝を選ぶことは、単なる道徳的な努力ではありません。私たちは、自分の力だけで立派な人間になろうとしているのではありません。神が私たちを引き寄せ、キリストの姿に似た者へと変えてくださるのです。
だから、神の国を選ぶ人は、恐れだけで生きるのではありません。義務感だけで信仰生活を続けるのでもありません。その根底には、喜びがあります。宝を見つけた喜びです。自分の人生が神の愛の中に置かれていると知る喜びです。たとえ苦しみがあっても、その先に神の栄光があると信じる希望です。
皆さん、私たちは今日、ソロモンとともに祈りたいと思います。
「主よ、私に見分ける心をお与えください。」
何が本当に大切なのかを見失わないために。目の前の利益や評判や安心に流されないために。神の国という宝を見つけ、それを喜びのうちに選び取るために。
神の国は、私たちの前に差し出されています。問題は、それが宝であると見抜けるかどうかです。そして、見つけたときに、喜んで選び取る勇気があるかどうかです。
今日のミサの中で、私たち一人ひとりが、その正しい知恵と勇気を願い求めましょう。
