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2026年7月19日 年間第16主日

  • 7月15日
  • 読了時間: 12分

更新日:7月18日

A年 年間第16主日、 みことばのメッセージ


皆さん、今日のみことばは、私たちに「忍耐」を教えています。

けれども、この忍耐は、ただ我慢することではありません。何もしないで黙っていることでもありません。今日のみことばが語る忍耐は、神を信頼する力です。そして、愛の中核にあるものです。聖カタリナは、「忍耐は愛の核心である」と言いました。これはとても深い言葉です。なぜなら、愛するということは、相手をすぐに裁かないこと、すぐに見捨てないこと、すぐに結果を求めないことだからです。愛は待つことができます。愛は信じることができます。愛は希望することができます。


今日の福音で、イエスは三つのたとえを語られます。毒麦のたとえ、からし種のたとえ、そしてパン種のたとえです。どれも、神の国がどのように成長するかを教えています。

まず、毒麦のたとえです。ある人が自分の畑に良い種をまきました。ところが、人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦をまいていきます。やがて芽が出て実を結び始めると、良い麦と毒麦が一緒に生えていることが分かります。


僕たちは主人に言います。「ご主人様、畑には良い種をおまきになったのではありませんか。それなのに、毒麦はどこから来たのですか」。これは、私たち自身の問いでもあります。

神は善い世界をお造りになったはずです。それなのに、なぜこの世界には悪があるのでしょうか。なぜ不正があるのでしょうか。なぜ人を傷つける言葉があり、暴力があり、憎しみがあり、戦争があるのでしょうか。なぜ教会の中にさえ、弱さや罪や分裂があるのでしょうか。

そして僕たちは言います。「では、行って毒麦を集めましょうか」。

これもまた、私たちの心にとても近い反応です。悪いものを見つけたら、すぐに取り除きたい。間違った人を見つけたら、すぐに裁きたい。問題が起これば、すぐに白黒をつけたい。現代は特にそうです。早い対応、強い方法、目に見える成果が求められます。何でもスピード勝負です。まるで、神の国までファストフードのように出てくると思っているかのようです。


しかし主人は言います。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に引き抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。

ここに、神の忍耐があります。神は悪を善と同じものとして認めておられるのではありません。悪を見逃しておられるのでもありません。しかし神は、人間の短気な裁きが、しばしば善まで傷つけてしまうことを知っておられます。

私たちは、悪を取り除こうとして、人そのものを否定してしまうことがあります。罪を憎むだけでなく、罪人まで憎んでしまうことがあります。間違った行いを正すだけでなく、その人が変わる可能性まで断ち切ってしまうことがあります。

けれども、人間は毒麦そのものではありません。雑草は小麦にはなれません。しかし人間は変わることができます。最後の瞬間にさえ回心することができます。十字架上のよい盗賊がそうでした。人生の最後に、主に向かって「私を思い出してください」と願い、救いの約束を受けました。

だから、神は待たれます。神は急がれません。神の忍耐は、弱さではありません。むしろ、神の強さです。人間の自由を尊重しながら、最後まで回心の可能性を信じる強さです。


第一朗読の知恵の書は、この神の姿を美しく語っています。「力を支配する主であるあなたは、穏やかに裁き、大いなる寛容をもって私たちを治められる」。

神は全能です。しかし神の全能は、力で相手を押しつぶす全能ではありません。神の全能は、待つことのできる全能です。裁く前に、いや、裁き主である前に、医者として人をいやそうとされる全能です。神は罪人に時間を与えられます。罪人でない人がどこにいるでしょうか。私たちもまた、神の忍耐によって生かされています。もし神が私たちを、間違った瞬間ごとにすぐ裁かれるなら、私たちは一日も立っていられないでしょう。神が私たちを待ってくださったからこそ、私たちは今ここにいます。


だから、私たちも神の波長に自分を合わせる必要があります。神の波長は、急ぎの怒りではありません。復讐の熱ではありません。それは、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」愛の波長です。もちろん、これは悪を放置するという意味ではありません。不正を不正として見なくてよいということではありません。傷つけられた人を守らなくてよいということでもありません。悪は悪として退けなければなりません。責任は問われなければなりません。しかし、キリスト者の正義は、復讐で終わってはなりません。キリスト者の正義は、回心への希望を失ってはなりません。人を裁く前に、その人の救いを願う心を持たなければなりません。これは甘さではありません。むしろ、福音の厳しさです。

次に、からし種のたとえです。からし種は非常に小さな種です。手のひらに置くと、見失ってしまうほどです。しかし成長すると、大きな木のようになり、空の鳥がその枝に巣を作るほどになります。


このたとえが教えているのは、神の国は小さく始まるということです。神の働きは、最初から派手で、力強く、誰の目にも明らかな形で現れるとは限りません。むしろ、弱く、小さく、目立たない形で始まります。一つの祈り。一つの赦し。一つの親切。一つの忍耐。一つの小さな善意。それらは、この世の目には取るに足りないものに見えるかもしれません。しかし、その中には神が置かれた生命力があります。


聖パウロは言います。「植える者も水を注ぐ者も、取るに足りない。大切なのは、成長させてくださる神である」。私たちは種をまきます。水を注ぎます。努力します。けれども、成長させるのは神です。ここを忘れると、私たちはすぐに焦ります。自分の活動で神の国を成長させなければならないと思い込みます。そして、成果が見えないと落胆します。

しかし神の国は、人間の生産性の基準では測れません。神の国は、神の時に、神の力で成長します。私たちに求められているのは、思い上がることなく、落胆することなく、忠実に種をまき続けることです。


そして三つ目は、パン種のたとえです。わずかなパン種が、大量の粉の中に混ぜられます。パン種は見えなくなります。しかし、隠れたところで全体を発酵させます。神の国も同じです。神の働きは、しばしば隠れています。すぐには見えません。騒がしくありません。しかし内側から人を変え、共同体を変え、世界を変えていきます。私たちは、目立つこと、大きく見えること、すぐに結果が出ることに心を奪われがちです。しかし、福音の力は、しばしば隠れたところで働きます。家庭の中で、病床で、祈りの中で、赦しの決断の中で、誰にも気づかれない奉仕の中で、神の国は確かに成長しています。


第二朗読で、聖パウロは言います。「霊は私たちの弱さを助けてくださいます。私たちは、何をどのように祈ればよいかを知らないからです。しかし霊ご自身が、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださいます」。私たちは祈ることさえ、よく分かっていません。神に何を願うべきか分からず、自分の計画に神を合わせようとすることもあります。しかし聖霊は、私たちの祈りを清めてくださいます。私たちの焦りを信頼に変え、怒りを回心の願いに変え、不安を希望に変えてくださいます。聖霊は、私たちの内なる師です。私たちの成長の霊的な導き手です。私たちが神の子として生きるように、奴隷のような恐れではなく、子としての信頼をもって「アッバ、父よ」と祈ることができるようにしてくださいます。

皆さん、今日のみことばは、私たちに三つのことを教えています。

第一に、短気にならないことです。神の国は、私たちの焦りによってではなく、神の忍耐によって成長します。第二に、小さな始まりを軽んじないことです。からし種のように小さくても、そこに神の生命力があります。第三に、隠れた働きを信じることです。パン種のように見えなくても、神の力は内側から全体を変えていきます。

忍耐は、愛の核心です。信仰と希望が実を結ぶためには、忍耐が必要です。

私たちも、神の忍耐に学びましょう。悪を悪として見つめながらも、絶望せず、人を見捨てず、自分だけで神の国を造ろうとする傲慢を捨てましょう。そして、神が成長させてくださることを信じて、小さな善を忠実にまき続けましょう。

主よ、私たちに忍耐をお与えください。

焦りではなく信頼を、裁きではなく回心への希望を、落胆ではなく小さな善を信じる心をお与えください。私たちが、からし種のように小さく、パン種のように隠れていても、あなたの国の成長に仕える者となることができますように。


第一朗読 知恵の書 12章13、16-19

第二朗読 ローマの教会への手紙 8章26-27

福音朗読 マタイによる福音 13章24-43、または13章24-30



年間第16主日説教


皆さん、今日の福音は、毒麦のたとえを中心に、からし種のたとえ、パン種のたとえを私たちに示しています。

からし種はとても小さな種です。パン種も、見た目にはわずかなものです。しかし、その小さなものが、やがて大きな木となり、わずかなパン種が粉全体を膨らませます。ここに、神の国の姿があります。

神の国は、いつも目に見える大きさから始まるわけではありません。むしろ、取るに足りないように見える小さな始まりを持っています。イエスご自身も、世の権力者としてではなく、反対され、拒まれ、十字架につけられた羊飼いとして歩まれました。そのイエスに従った弟子たちも、「小さな群れ」にすぎませんでした。しかし、その小さな始まりの中に、歴史を変える力が隠されていました。からし種のように、パン種のように、神の国は静かに、しかし確実に成長します。目立たず、騒がず、見えないところから世界を変えていくのです。

けれども、その成長は、ただ穏やかなものではありません。今日の毒麦のたとえが示すように、神の国の成長には闘いがあります。畑の中には、良い麦だけでなく、毒麦も生えています。主人が良い種を蒔いたのに、敵が毒麦を蒔いたのです。


ここで私たちは、この世界の厳しい現実に向き合わされます。世界には善があります。しかし悪もあります。教会の中にも、社会の中にも、家庭の中にも、そして私たち自身の心の中にも、麦と毒麦が入り混じっています。私たちはしばしば考えます。「なぜ神は、すぐに悪を取り除かれないのか。なぜ不正を放っておかれるのか。」この問いは、信仰者にとって避けることのできない問いです。僕たちも主人に尋ねます。「行って、毒麦を抜き集めましょうか。」それは一見、正しい熱意に見えます。悪を見つけたらすぐに取り除きたい。清い共同体をつくりたい。すぐに白黒をつけたい。しかし主人は言います。「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」

これは、悪を認めるという意味ではありません。悪をどうでもよいと考えることでもありません。むしろ、神の忍耐を示しています。神は悪を見逃しているのではありません。神は、私たちよりも深く見ておられるのです。


私たちは、すぐに裁きたがります。この人は麦、この人は毒麦。この人は正しい、この人は間違っている。人間の裁きは、驚くほど速いものです。まるで心の中に高速裁判所があるようです。しかし神は、私たちほど急がれません。神は、歴史の中で働かれます。しかもその働きは、悪の働きよりも力強いのですが、しばしば隠れた仕方で、神秘的に進みます。神の力は、乱暴に引き抜く力ではなく、忍耐して実りを待つ力です。ここに、私たちが学ぶべき神の楽観主義があります。神は、この世界を諦めておられません。罪人を諦めておられません。教会を諦めておられません。そして、私たち一人ひとりを諦めておられません。

イエスは、徴税人や罪人の友と呼ばれました。罪人と対話し、食卓を共にされました。正しい人や敬虔な人だけを相手にされたのではありません。弱さを抱えた人、道を外れた人、傷ついた人、軽蔑されていた人のところへ行かれました。なぜでしょうか。イエスは、裁き主である前に、医者であろうとされたからです。もちろん、イエスは罪を罪でないとは言われません。しかし、罪人を滅ぼすためではなく、救うために来られました。病人に必要なのは、まず処刑人ではなく医者です。ここを間違えると、教会は病院ではなく、取締本部になってしまいます。


今日のたとえは、教会にも大切な警告を与えています。「完全な共同体」を夢見て、すぐに分離し、すぐに排除し、すぐに裁こうとする誘惑があります。もちろん、悪に対して無責任であってはなりません。不正や暴力や罪を放置してよいわけではありません。しかし同時に、私たちは神の忍耐を失ってはなりません。教会は、清い人だけの閉じられた集団ではありません。教会は、罪人が回心へと招かれる場所です。傷ついた人がいやされる場所です。麦と毒麦が混在するこの歴史の中で、神の国が忍耐強く働き続ける場所です。


第一朗読の知恵の書は、この神の姿を美しく語ります。神は全能でありながら、穏やかに裁き、大いなる寛容をもって治められる方です。神は力を持っておられるからこそ、乱暴にふるまわれません。本当に強い方は、忍耐することができます。私たちも、その神の道を学ばなければなりません。視野が狭くなると、人は他人の小さな欠点ばかりを裁くようになります。他人の目のおがくずを見つける名人になります。しかし、自分の中にある丸太には気づかない。これはなかなか高度な芸ですが、残念ながら私たちはよくやります。


だからこそ、今日の福音は私たちに言います。神の国の働き方を学びなさい。忍耐しなさい。信頼しなさい。善を蒔き続けなさい。悪に飲み込まれず、しかし悪を前にして絶望もしないことです。第二朗読でパウロは、聖霊が私たちの弱さを助けてくださると語ります。私たちは、どう祈るべきかさえ分からない時があります。何を願えばよいのか分からない。善と悪が入り混じる世界の中で、心が疲れてしまうこともあります。しかし、そのような私たちの内で、聖霊が言葉にならないうめきをもって祈ってくださいます。私たちが祈れない時も、聖霊が祈っておられる。私たちが希望を失いかける時も、聖霊が神へと私たちを導いてくださる。これが、今日のことばの典礼全体のメッセージです。


私たちは、今なお闇のある世界を歩んでいます。麦と毒麦が混ざった畑の中を歩んでいます。神の国はまだ完成していません。しかし、神の国はすでに私たちのただ中に来ています。からし種のように小さく、パン種のように隠れていても、それは確かに働いています。だから、私たちは焦ってはなりません。諦めてもなりません。裁き急いでもなりません。私たちに求められているのは、神の忍耐に参加することです。悪に対して目を閉じるのではなく、神のまなざしで見ることです。すぐに引き抜くことだけを考えるのではなく、善が育つために働くことです。


今日、主に願いましょう。主よ、私たちに、あなたの忍耐を与えてください。悪を前にして絶望しない信頼を与えてください。人を裁き急ぐ心ではなく、いやしと回心を願う心を与えてください。そして、からし種のように小さくても、パン種のように隠れていても、あなたの国が確かに成長していることを信じる信仰を与えてください。


 
 
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