2026年6月28日 年間第13主日
- 6月25日
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更新日:6月27日
年間第13主日
みことばのメッセージ
今日のみことばは、私たちに問いかけます。
あなたは、何をいちばん大切にして生きていますか。
福音の中で、イエスは言われます。
「父や母をわたしよりも愛する者は、わたしにふさわしくない。息子や娘をわたしよりも愛する者も、わたしにふさわしくない。」
これは、家族への愛を否定する言葉ではありません。父母を敬い、家族を愛することは、聖書が大切に教えていることです。しかしイエスは、すべての愛の中心にキリストを置きなさい、と言われます。
キリストは、ほかの大切なものと並ぶ一つの価値ではありません。キリストは、すべての価値を照らし、清め、正しく整える中心です。だから、キリストを第一にする人は、家族を粗末にする人ではなく、むしろ家族をより深く、より自由に愛することができる人です。
イエスはさらに言われます。
「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」
十字架を担うとは、苦しみを好むことではありません。福音に忠実に生きようとするときに避けられない重さを、逃げずに担うことです。
正直に生きること。
人をゆるすこと。
利己心に逆らうこと。
真理を生きるために誤解されても逃げないこと。
これらは、私たちの日々の十字架です。
またイエスは言われます。
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
自分のことだけを守ろうとする人生は、かえって狭くなります。しかし、キリストのために自分を差し出す人は、本当の命を見いだします。命は自分のために握りしめるものではなく、愛として差し出すものだからです。
第二朗読でパウロは、洗礼について語ります。洗礼とは、キリストとともに死に、キリストとともに新しく生きることです。洗礼は、過去の記念ではありません。今も私たちの生き方を変え続ける恵みです。私たちは、自己中心や罪に死に、神のために生きる者とされています。
第一朗読では、シュネムの婦人が預言者エリシャを迎え入れます。彼女はエリシャを「神の人」として認め、食事を出し、さらに小さな部屋を用意しました。彼女は預言者になったわけではありません。しかし、神の言葉を運ぶ人を支え、自分にできる形で神の働きに協力しました。
神は、その寛大な心を見逃されません。子どもを望みながらも、もはや人間的には不可能と思われた彼女に、息子の誕生が約束されます。人間には不可能に見えるところで、神は命を咲かせることがおできになるのです。
福音の後半で、イエスは言われます。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れる。」
弟子を受け入れることは、キリストを受け入れることです。そしてキリストを受け入れることは、父である神を受け入れることです。
私たちは、大きなことをしなければならないと思いがちです。しかしイエスは、「冷たい水一杯」でもよいと言われます。大切なのは、行為の大きさではありません。そこにキリストへの愛、隣人への本物の愛があるかどうかです。
一言の感謝。
小さな励まし。
相手の話を聞く時間。
孤独な人への気づかい。
教会のために働く人を支える心。
これらは小さな行いです。しかし、神の国は、このような小さな愛によって確かに広がっていきます。
今日、主は私たちに、勇気ある選択を求めておられます。キリストを第一にする勇気。自分の十字架から逃げない勇気。小さな愛を惜しまない勇気です。
キリストを第一にするとき、私たちは何かを失うように見えて、実は本当の命を得ます。自分を差し出すとき、命は貧しくなるのではなく、豊かになります。
主よ、あなたを第一に選ぶ勇気をください。洗礼によっていただいた新しい命を、日々生きることができますように。そして、あなたが遣わされる人々を、心から受け入れる者としてください。
私たちの小さな愛の行いを通して、神の命がこの世界に花開きますように。
第一朗読 列王記〈下〉 4章8-11、14-16a
第二朗読 ローマの教会への手紙 6章3-4、8-11
福音朗読 マタイによる福音 10章37-42
説教案
今日のみことばを貫いている一つの言葉があります。それは、「受け入れる」という言葉です。
第一朗読では、シュネムの婦人が預言者エリシャを迎え入れます。彼女はただ食事を出しただけではありません。夫と相談し、エリシャのために小さな部屋を用意しました。そこには寝台、机、椅子、灯火が置かれていました。つまり彼女は、旅する預言者に、休む場所、祈る場所、力を取り戻す場所を差し出したのです。
聖書の世界で「家」とは、単なる建物ではありません。そこは人が守られ、受け入れられ、安心して生きることのできる場所です。後に家は教会を意味する言葉になりました。だからこそ、もてなしは単なる親切ではなく、相手を自分の生活の中に迎え入れる行為でした。
シュネムの婦人は、エリシャを「神の人」として深い敬意をもって受け入れました。彼女はエリシャの使命を理解し、その働きを支えようとしました。神はその心を見逃されませんでした。子どもを望みながらも、もはや希望を失っていた彼女に、神は息子の誕生を約束されます。人間が小さな愛を差し出すとき、神はそれをはるかに超える恵みで応えてくださるのです。
福音の中で、イエスは言われます。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れる。」
ここでイエスが語っておられるのは、単なる礼儀や親切ではありません。弟子を受け入れることは、キリストご自身を受け入れることです。そしてキリストを受け入れることは、父である神を受け入れることです。
これは、私たちにとって大切な問いを投げかけます。私たちは、神から遣わされた人を本当に受け入れているでしょうか。福音を伝える人、教会のために働く人、共同体の中で目立たず奉仕している人、孤独な人、弱い人、小さくされた人。その人々の中に、キリストが私たちの扉をたたいておられることに気づいているでしょうか。
イエスはさらに言われます。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませる者は、決して報いを失わない。」
冷たい水一杯。それは当時のパレスティナにおいては貴重なものでそれを用意するのは大変だったようです。しかし、その小さな、しかし誠意ある行為が、隣人への愛としてなされるなら、それは神の前で大きな意味を持ちます。神の国は、しばしばこのような小さな愛によって広がっていきます。
けれども、今日の福音は、ただ「人を親切に迎え入れましょう」と言っているだけではありません。福音の前半で、イエスは非常に厳しいことを言われます。
「父や母をわたしよりも愛する者は、わたしにふさわしくない。息子や娘をわたしよりも愛する者も、わたしにふさわしくない。」これは家族を軽んじる言葉ではありません。イエスは父母を敬う掟を否定しておられるのではありません。そうではなく、キリストに従うことが、私たちの人生の中心でなければならない、と言っておられるのです。
人は誰でも、自分の「家」を持ちたいと願います。安心できる場所、自分を守ってくれる関係、自分の居場所です。しかしイエスは、ご自分に従う者に、ときにはその安心から離れる勇気を求められます。自分の安全、自分の都合、自分の執着だけにしがみついているなら、キリストの新しい家族に入ることはできないからです。
イエスご自身も、ナザレの家の安全を離れられました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には枕する所もない」と言われた方です。そして、弟子たちを指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われました。イエスは血のつながりを否定したのではなく、それを超える新しい家族、神の子らの家族を示されたのです。
だから、キリストを受け入れるとは、自分の小さな世界にキリストを招き入れるだけではありません。むしろ、キリストによって、自分の世界を広げられることです。自分の家、自分の家族、自分の安心だけで完結する生き方から、神の家族へと開かれていくことです。
第二朗読でパウロは、洗礼について語ります。洗礼とは、キリストとともに死に、キリストとともに新しい命に生きることです。古い自分、自己中心的な自分、自分だけを守ろうとする自分が水の中に沈められ、そこから新しい人が生まれます。
ですから、洗礼を受けた私たちは、ただ教会に所属している人ではありません。私たちは、キリストを受け入れ、キリストの命に生かされる同じ家の者です。そして、キリストを受け入れた者は、今度はキリストの名によって人を受け入れる者となります。
今日、主は私たちに問いかけておられます。
あなたの心には、キリストを迎える場所がありますか。
あなたの家には、孤独な人を迎える温かさがありますか。
あなたの共同体には、福音のために働く人を支える感謝がありますか。
あなたは、小さな者の中にキリストを見ようとしていますか。
大きなことから始める必要はありません。冷たい水一杯、心からの励まし、感謝の言葉、少しの時間、静かに相手に耳を傾けること。それらは小さく見えても、キリストの目には決して小さくありません。
「弟子の中で、イエスが私たちの扉をたたき、もてなしを求めておられる。」
この言葉を心に留めたいと思います。キリストは、今日も誰かを通して、私たちの扉をたたいておられます。私たちがその扉を開くとき、そこに入って来られるのは、単なる客ではありません。キリストご自身です。そしてキリストを迎えるところに、神の祝福が訪れます。
私たちも、シュネムの婦人のように、心を込めて主を迎え入れる者となりましょう。そして、私たちの家庭も、教会共同体も、誰かが安心し、力を取り戻し、また使命へと歩み出すことのできる「神の家」となりますように。
