top of page

2026年6月14日 年間第11主日

  • 6月10日
  • 読了時間: 10分

更新日:6月18日


年間第11主日 

聖書のメッセージ


今日の福音は、宣教について語っています。イエスが群衆を見て深くあわれまれ、十二人の弟子を選び、彼らを宣教へと遣わされる場面です。

ここでまず大切なのは、宣教の出発点がイエスの心(御心)にある、ということです。宣教は、単に教会の活動を増やすことでも、組織を大きくすることでもありません。すべては、イエスが群衆を見て深くあわれまれたことから始まります。

福音は、群衆が「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれていた」と語ります。イエスは、その人々を見て、深くあわれまれました。この「あわれみ」という言葉は、ただ気の毒に思うという程度のものではありません。聖書の言葉では、はらわたが動かされるような、心の奥底から湧き上がる深いあわれみを意味します。

イエスは、人間の苦しみを遠くから眺める方ではありません。人々の疲れ、迷い、孤独、悲しみ、苦しみ、心身の傷を、ご自分の心の奥深くで受け止める方です。イエスの心は、人間の心でありながら、神の慈愛に満ちた心です。だからこそ、イエスの宣教は冷たい義務や熱狂的な活動ではなく、あわれみから生まれる救いの働きなのです。

イエスは、群衆が牧者を必要としていることをご覧になりました。人は、自分だけで生きていけるように見えても、本当は真の導き手を必要としています。何を信じ、どこへ向かい、どのように生きるのか。その道を示してくれる牧者が誰しも必要です。イエスは、その必要を深く感じ取られました。

そしてイエスは言われます。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように願いなさい。」

ここにも、イエスの広い心が表れています。イエスの目は、目の前の少数の人々だけに向けられているのではありません。疲れ果て、導きを求めているすべての人に向けられています。イエスのあわれみは、狭い範囲に閉じ込められたものではありません。最終的には、全人類に向けられています。

しかし、その救いの計画は、無秩序に広がるのではありません。神の計画には順序があります。今日の福音で、イエスは十二人を選び、彼らを遣わします。「使徒」とは、「遣わされた者」という意味です。彼らは、自分の考えで出て行くのではありません。イエスによって選ばれ、イエスによって遣わされるのです。驚くべきことに彼らは特別な才能に恵まれた人々ではなく本当に凡庸な人々だったのです。

ところが、ここで少し驚く言葉が出てきます。イエスは使徒たちに、「異邦人の道に行ってはならない。サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じられます。

私たちは、復活後のイエスが「すべての民を弟子にしなさい」と命じられたことを知っています。それなのに、なぜここでは宣教の範囲をイスラエルに限っておられるのでしょうか。

それは、イエスが御父の計画に従っておられるからです。神はまずイスラエルを選び、その民に救いの約束を与えられました。第一朗読で、神はイスラエルにこう言われます。

「あなたたちはすべての民の中でわたしの宝となる。あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

神は一つの民を選び、その民との特別な関係を結ばれました。そして神は、その約束に忠実であられます。イエスは、その御父の計画を尊重しておられるのです。

ここには、私たちにとって大切な教えがあります。私たち一人ひとりにも、自分の召命、自分の役割、自分の限界があります。私たちは、すべての人のすべての必要に応えることはできません。何でも自分がしなければならないと思うと、結局、すべてが中途半端になります。熱心さは大切ですが、無秩序な熱心さは、実りを生みません。

イエスご自身も、御父から与えられた使命の範囲を尊重されました。だからこそ、イエスの働きは確かな実りを生んだのです。私たちも、まず自分に与えられた場、自分に託された人々、自分にできる働きを大切にしなければなりません。限界を認めることは、怠けること諦めることではありません。むしろ、神から与えられた使命を忠実に果たすために必要な謙遜です。

しかし、神の計画はイスラエルだけで終わるものではありません。神がアブラハムに語られたように、「地上のすべての氏族は、あなたによって祝福に入る」のです。神の救いの計画は、最初から全人類を目指していました。ただし、その普遍性は段階を経て実現されます。まずイスラエルへ、そしてイスラエルを通して、すべての民へと広がっていくのです。

その決定的な転換点が、イエスの受難と復活です。イエスの十字架によって、すべての限界は取り払われます。なぜなら、イエスは罪人のために死なれたからです。そして、すべての人は罪人だからです。

第二朗読でパウロは言います。

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

ここにキリスト教信仰の中心があります。神は、私たちが正しい者になったから愛してくださったのではありません。私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死んでくださいました。十字架は、罪人に対する神の愛の決定的なしるしです。

だから、救いはすべての人に開かれています。救いを受ける条件は、キリストへの信仰、全幅の信頼です。私たちを義とするために死に、復活されたキリストを信じることです。人間の功績によってではなく、キリストの恵みによって、私たちは神との和解へと招かれています。

そして、この救いを受けた私たちは、今度は他の人々へと遣わされます。宣教は、十二使徒だけの仕事ではありません。司祭や修道者だけの仕事でもありません。すべてのキリスト者が、それぞれの場で、教会の宣教、神の愛を伝える役務に参加するよう招かれています。

もちろん、全員が同じ形で宣教するわけではありません。ある人は祈りによって宣教に参加します。イエスご自身が、「収穫の主に願いなさい」と言われました。祈りは宣教の中心です。ある人は経済的な支援によって宣教に参加します。またある人は、家庭で、職場で、地域で、日々の生活の証しによって宣教に参加します。

信仰を大げさに語ることだけが宣教ではありません。ましてや加持祈祷に専心することでもありません。誠実に生きること。人を軽んじないこと。苦しんでいる人を見捨てないこと。赦しを選ぶこと。希望を失わないこと。慈愛の心をもって共に歩むこと。そうした日々の姿そのものが、福音の証しになります。

実は私たちは、自分のいる場所で遣わされています。家庭の中で、職場の中で、教会共同体の中で、出会う人々の中で、私たちはイエスのあわれみを運ぶ者となるよう招かれています。

今日、私たちはもう一度、イエスの心に立ち返りたいと思います。宣教の出発点は、計画でも、制度でも、自己の能力でもありません。イエスのあわれみです。疲れ果て、打ちひしがれ、牧者を必要としている人々への、はらわたを揺さぶられるような深いあわれみです。

もし私たちの心にこのあわれみがなければ、宣教はすぐにただの仕事、自己実現の場になります。しかし、イエスのあわれみを受け入れるなら、私たちの生活は少しずつ神の計画に向かって整えられていきます。

今日、主に願いましょう。

主よ、あなたのあわれみを私たちの心に注いでください。

疲れ果てた人々を見ても無関心でいない心を与えてください。

自分の召命と限界を謙遜に受け入れながら、それぞれの場所で福音を証しする信仰・希望・愛に満ちた者としてください。

そして、あなたの救いがすべての人に届くために、私たちをあなたの宣教の道具、いつくしみの伝達者として用いてください。


第一朗読 出エジプト記 19章2-6a  第二朗読 ローマの教会への手紙 5章6-11

福音朗読 マタイによる福音 9章36~10章8



説教案


今日のみことばは、二つの共同体の誕生を私たちに示しています。

一つは、シナイ山のふもとで生まれたイスラエルの民です。エジプトから導き出された人々は、まだ一つにまとまった民ではありませんでした。しかし神は彼らに語られます。

「あなたたちはすべての民の中でわたしの宝となる。あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

ここでイスラエルは、単なる集団から、神に属する民へと変えられます。神の民の誕生です。

もう一つは、福音における十二使徒の共同体の誕生です。イエスの前には、牧者のいない羊のように、疲れ果て、打ちひしがれた群衆がいます。イエスはその人々を見て深くあわれまれ、十二人を呼び寄せ、遣わされます。

この二つの誕生に共通しているのは、どちらも神の主導によって始まるということです。

第一朗読で、神はまずご自分の救いのわざを思い起こさせます。

「あなたたちは、わたしがエジプトに対して行ったこと、また、あなたたちをわたしのもとへ連れて来たことを見た。」

歴史は、単なる出来事の並びではありません。信仰の目で見るなら、歴史は神がご自分を示し、語りかけ、救いの計画を進められる場です。だから信仰者は、時のしるしを読み取る必要があります。今、神は何をなさっているのか。今、この出来事を通して何を語っておられるのか。その問いが大切です。

しかし、神の働きは人間の応答を必要とします。

「今、もしあなたたちがわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら……。」

神の民になるとは、神の恵みに応えて生き方を選び取ることです。イスラエルは、神の「宝」とされます。しかしそれは、特権であると同時に使命です。イスラエルは、自分たちだけのためではなく、人類の中で神のすばらしいわざを証しするために選ばれたのです。

福音でも同じです。イエスは、導きを失った群衆、収穫を待つ畑のような人々をご覧になります。そして言われます。

「収穫は多いが、働き手が少ない。」

そこでイエスは十二人を呼び寄せます。この「十二」という数は、イスラエルの十二部族を思い起こさせます。十二使徒は、新しい契約の民、新しい神の民の土台となる共同体です。

彼らは「使徒」、つまり「遣わされた者」です。自分の考えで勝手に出て行く者ではありません。イエスに呼ばれ、イエスから権能を受け、イエスによって遣わされる者です。

ここで大切なのは、使徒たちの力は彼ら自身から出ているのではないということです。教会共同体の命は、キリストとの生きた関係、信仰・希望・愛によって支えられています。この関係が失われるなら、制度や活動がどれほど整っていても、中身のないものになります。

だから、使徒は自分を主人公にしてはなりません。主人公は神です。パウロは言います。

「わたしは植え、アポロは水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。」

これは、教会のすべての奉仕に当てはまります。司祭も、修道者も、信徒も、神の協力者です。私たちは植えること、水を注ぐことはできます。しかし、成長させてくださるのは神です。

そして、キリスト者の召命と使命の根にあるのは、キリストの十字架です。第二朗読でパウロは、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった、と語ります。

神は、私たちが立派だから愛してくださったのではありません。私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死んでくださいました。この愛によって、私たちは神と和解させられました。

だからキリスト者は、まず「和解させられた者」です。そして、和解させられた者は、今度は「和解の使者」として遣わされます。

この和解は、教会の中だけのものではありません。家庭、職場、社会、人間関係の中で、分裂や不信、孤独のあるところに、自身の生き方をもってキリストの平和を運ぶ使命です。

教会は、地上の栄光を求めるために存在しているのではありません。教会は、キリストと同じ道を歩むために存在しています。人間の弱さに苦しむ人々を愛をもって包み、復活した主の力によって、忍耐と愛をもって主の神秘を世に示すためです。

今日、私たちは問われています。

私たちは神に属する民として生きているでしょうか。

神の声に聞き従い、神の協力者として奉仕しているでしょうか。

自分を主人公にせず、成長させてくださる神に信頼しているでしょうか。

そして、和解させられた者として、和解の使者になっているでしょうか。

シナイでイスラエルが神の民として生まれたように、福音で十二使徒の共同体が生まれたように、教会もまた、神の呼びかけによっていつも新しくされます。

私たちも、それぞれの場所で遣わされています。疲れ果てた人、導きを失った人、和解を必要としている人のもとへ、キリストのあわれみと平和を運ぶために。

主よ、あなたの声を聞く心を与えてください。

あなたに属する民として生きる恵みを与えてください。

私たちを謙遜な協力者とし、家庭で、教会で、社会で、和解の使者として用いてください。



 
 
bottom of page