2026年5月17日 主の昇天
- 5月13日
- 読了時間: 7分
主の昇天 聖書のメッセージ
主の昇天によって、地上の弟子たちのあいだでは何が変わったのでしょうか。外から見れば、何も変わりませんでした。人々はそれまでと同じように、働き、食べ、旅をし、泣き、喜び、日々の生活を続けていました。使徒たちも、信仰をえたからといって、人生の苦しみや不安から免除されたわけではありません。
しかし、決定的に新しいことが起こりました。人間の存在の上に、新しい光が注がれたのです。霧の日に太陽が現れると、山も海も木々も花も鳥の声も、それ自体は変わりません。しかし、それらを見る目が変わります。同じように、昇天されたキリストを信じる者は、世界を新しい目で見るようになります。不幸、苦しみ、人間の過ちの向こうにも、主が御自分の国を築いておられることを見つめることができるようになるのです。
使徒言行録では、弟子たちが天を見上げていると、白い衣を着た二人が現れて言います。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」この言葉は、弟子たちだけでなく、私たちにも向けられています。信仰とは、ただ天を眺め、この世の問題から逃げることではありません。主が戻って来られることを待ち望む希望は、地上の責任から私たちを遠ざけるものではなく、むしろ兄弟姉妹のために働く力となるべきものです。
ルカが昇天の物語で伝えようとしているのは、イエスがどこから、どのように、何時に天に昇られたかという記録ではありません。彼が伝えたいのは、復活されたイエスが父の栄光に入り、弟子たちに使命を委ねられたという神学的な意味です。復活は神の国の始まりでした。しかし、それは歴史の終わりではありませんでした。新しい世界は始まりました。しかし、その完成には、弟子たちの働きが必要なのです。
旧約聖書には、預言者エリヤが天に上げられる場面があります。弟子エリシャはそれを見届け、師の霊を受けて、エリヤの使命を引き継ぎました。使徒言行録の昇天物語も、これと重なっています。イエスが天に上げられることは、弟子たちから消え去ることではありません。むしろ、弟子たちがキリストの霊を受け、キリストの使命を続けていく始まりなのです。
マタイ福音書は、昇天そのものを描きません。しかし、ガリラヤの山で復活された主が弟子たちを派遣される場面によって、同じことを語っています。ガリラヤは、イエスの宣教が始まった場所です。同時に、エルサレムからは軽んじられ、異邦人の地と見なされていた場所でもありました。そこから福音は再び始まります。天から輝く光で照らし出された神の救いの業は、人間が中心と考える場所からだけではなく、暗闇の地、軽んじられた場所、周縁に置かれた場所からも始まるのです。
弟子たちは約束されたガリラヤの山上で復活された主に出会い礼拝しました。しかし、福音書は同時に、「疑う者もいた」と記しています。これは、教会の現実をよく表しています。教会は、最初から完全な信仰を持つ人々だけの集まりではありません。信じながらも迷う者、希望を持ちながらも不安を抱える者、光を見ながらも闇を経験する者の共同体です。
しかし、主はそのような弟子たちを退けません。むしろ、その弟子たちに使命を委ねられます。「わたしには、天と地の一切の権能が与えられている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」この権能は、この世の支配者のように人を押さえつける力ではありません。イエスの権能とは、仕える力、赦す力、自分を与える力、愛し抜く力です。十字架の上で完全に示された、神の愛の力です。
教会は、そのキリストの権能に支えられて派遣されます。洗礼によって人々を父と子と聖霊のいのちの交わりに招き入れ、みことばと生活によって、キリストの愛を証しするために遣わされます。これは大きな使命です。だからこそ、主は最後に約束されます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
この約束こそ、昇天の福音の中心です。マタイ福音書は、初めにイエスを「インマヌエル」、すなわち「神はわれらと共におられる方」として告げました。そして最後に、復活された主は「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と言われます。福音書全体は、この一つの約束に貫かれています。
ですから、昇天は悲しい別れではありません。イエスが遠くへ去ってしまった日ではありません。昇天とは、イエスが父の栄光に入り、すべての時代、すべての場所で、私たちと共におられるようになった出来事です。そして同時に、私たちが地上で使命を果たすように送り出される出来事です。
私たちは、天を見上げて立ち尽くすだけではなく、この地上で兄弟姉妹のために働くよう招かれています。しかし同時に、地上だけを見て希望を失ってはなりません。私たちの人生は、この世だけで終わるものではなく、昇天されたキリストの栄光へと開かれています。
主は今日も私たちに言われます。
「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。あなたがたは、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
主の昇天 A年 説教
昇天は、イエスが弟子たちのもとを離れて、遠くへ去ってしまう出来事ではありません。むしろ、昇天とは、復活された主が新しい仕方で教会と共におられるようになる出来事です。目に見える姿では弟子たちの前から離れて行かれます。しかし、それは不在になるためではなく、天から派遣される聖霊のはたらきによって、教会の中に、そしてすべての時代の人々の間に、より深く現存されるためでした。
福音書は、復活された主に出会った弟子たちの姿をとても率直に描いています。ある者たちはイエスを見てひれ伏し、礼拝しました。しかし、ある者たちは疑いました。ここには、教会の現実的な姿があります。教会は、最初から完全な信仰を持つ人だけの集まりではありません。信じる人もいれば、迷う人もいます。すぐに主を心から認める人もいれば、時間のかかる人もいます。それでもイエスは、そのような弟子たちを退けません。むしろ、彼らに使命を与えます。弱さや疑いを抱えながらも、主に呼ばれ、派遣される共同体、それが教会です。
イエスは弟子たちに、「わたしには、天と地の一切の権能が与えられている」と言われます。しかし、この権能は、人を支配する力ではありません。世の中で考えられる権力は、多くの場合、人を従わせ、自分の利益を守り、上に立つための力です。しかしイエスの権能は違います。それは、仕える力、赦す力、自分を与える力、最後まで愛し抜く力です。十字架において、イエスはその権能を完全に示されました。だからこそ、復活された主は、弟子たちにその同じ力を委ねることができるのです。
そのうえでイエスは、「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられます。教会は、自分たちの内側だけで満足する共同体ではありません。閉じられた仲間内の集まりでもありません。教会は、外へ出て行く共同体です。人々を支配するためではなく、キリストの愛を伝えるために派遣されます。宣教とは、単に教義について語ることでもなければ霊験新たかな祈りを教えることでもありません。私たちの日々の生活を通して、キリストの愛が本当に人を変え、支え、生かす力であることを示すことです。
そして、イエスは最後に弟子たちにこう約束されます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この言葉こそ、昇天の核心です。弟子たちはこれから困難な道を歩みます。福音を伝える道は、決して平坦ではありません。しかし、彼らは一人ではありません。私たち現代の教会もまた、自分の力だけで世界に向かうのではありません。主が共におられる。これが教会の力であり、宣教の根拠であり、昇天の喜びです。
ですから、昇天は悲しい別れではありません。イエスが私たちから遠ざかる日ではありません。むしろ、イエスがすべての時代、すべての場所、すべての人と共におられるようになる日です。私たちは時に信じ、時に疑います。強い時もあれば、弱い時もあります。それでも主は、私たちを退けずに言われます。「行きなさい。愛しなさい。伝えなさい。わたしはいつもあなたがたと共にいる。」昇天された主は、遠くにおられる方ではありません。今も教会のただ中におられ、私たちを通して、世界に御自分の愛を広げておられるのです。
