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2024年4・5月号 巻頭言



                『 復活の信仰を生きること 』 


                          主任司祭 使徒ヨハネ 田中 昇

 

   毎年、復活の主日の聖書朗読には復活したキリストは出てきません。

 

  復活祭の日中のミサの朗読では、毎年、空の墓を発見したマグダラのマリア、彼女の知らせ 

         によって墓を見に行ったペトロ、主が愛していた弟子が登場します。

 福音記者ヨハネは、マグダラのマリアとペトロは空の墓の意味が判らなかったと記述しています。いっぽうで主に愛された弟子は、その状況を見て信じたと伝えられています。このようにキリストの復活は、当初から彼の弟子の頭でさえもまったく理解し難い神秘でした。このことは、私たちの状況についても言えることだと思います。 

もしかすると、私たちも、いまだにキリストという存在がよく判っていないまま、「ご復活、おめでとう」と言ってパーティーをやっているだけで、ほんとうのところキリストに出会えていないのかもしれません。神秘はそう簡単に判るものではないのですが、でも、もし私たちが復活されたキリストとの真の出会いを果たせていなかったとしたら、私たちのやっていることは何の意味があるでしょうか。

 復活したキリストとの出会いは、多くの使徒たちや初代教会共同体の皆がそうであったように、私たちにとってもそれまでとは見違えるほどの変化をもたらすはずのものなのです。彼が与えてくれた真の命を信頼のうちに希望をもって愛徳に溢れて深い喜びと感謝のうちに生きることを実現させてくれるのは、形式だけの洗礼や聖体拝領、教会行事などではなく、その神秘、恵みに自らを開いて、委ねて、応答する私たちの誠実な信仰そのものです。神の愛にこそ信頼して生きる者には、間違いなく生き生きとした信仰・希望・愛が真実さの証として伴います。なぜなら復活した主に出会ったのに、いつまでも復活以前の四旬節を過ごす者のような目つきや態度、精神状態という古い人間でいることなど不可能だからです。

復活の主を探し、出会い、回心して変えられ、弟子として力強く歩んでいく一連の歩みを、

私たちも進んでいこうではありませんか。




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